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妙法院

妙法院(妙法院)の沿革
 天台宗 妙法院門跡(天台三門跡の一つ)
 1106年(永暦元)  比叡山本覚院(妙法院)の昌雲が別当となり、後白河上皇の院御所、法住寺殿の近くに里坊を開いた
             ことが始まり。
             その後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、蓮華王院(三十三間堂)方広寺の管理を任せられる。

京都国立博物館の東山側、七条の交差点北東に位置する妙法院は、築地塀に囲まれた大きな寺院だ。普段は、非公開だが、特別公開により参観できたのは、2004年の冬で、未だ小正月も明けていない時であった。
まず驚かされたのは庫裡である。桁行き約22m、梁行約24m、天井の高さ約18mと広大な板の間である。何故にこれほどの庫裡が必要になったのか、説明によると、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立する際、妙法院に大仏経殿を造営し、この大仏経殿にて先祖を供養するための大仏千僧供養を行った。この際多い時で800人近くの僧侶が法要に集まったという。それも毎月だったとか。それだけの僧侶に食事をまかなうため、巨大な庫裡が必要だったとか。何とも、秀吉ならではの話である。
大書院は、後水尾天皇の中宮、東福門院和子(徳川秀忠の娘)の旧殿と伝わっている。書院の襖絵は狩野光信筆とも云われている。
宸殿は明治時代の建築ではあるが、旧宸殿は幕末に三条実実ら七人が倒幕に失敗して都を追われた「七卿落ち」の際密議をこらした舞台として知られているのも、徳川幕府に庇護されていた妙法院であったのも皮肉な感じだが、これも格式ある門跡寺院であったが故であったのだろう。
又、寺宝も多く、特に1588年(天正16)に、ポルトガルの植民地、ゴアを支配するインド副王から豊臣秀吉に宛てられた信書が残されていたのも徳川家の庇護も受けていただけに不思議な感じだ。

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境内で見つけた
せんりょうの花

妙法院の庭園

妙法院の庭園
右手大書院

大書院の外観

庭園

蓮華院(三十三間堂)

三十三間堂(蓮華王院)の沿革
 1164年(長寛2)  後白河法皇の御願により、院御所「法住寺殿」内に設けた蓮華王院の本堂として
             平清盛によって寄進、創建
 1249年(建長元)  焼失
 1266年(文永3)  再建
             江戸時代初期より妙法院の所轄となる

通称の三十三間堂で知られる蓮華王院。それは、源頼朝を悩ませた後白河法皇の発願から発する。1155年(久寿2)に29歳で即位した後白河天皇も、保元の乱で譲位し上皇となった翌年の平治の乱が起こり、これらの乱によって平家が台頭し、後白河法皇の信頼を得て平清盛は、平家が急速に勢力を強めていった。そんな時代に、三十三間堂が創建された。しかも、堂内には、千体もの千手観音像を祀るというこれまでにない規模のものだった。この頃は、何万回の念仏や数百の仏像などの「数の多さ」こそが信仰の証とされた時代であった。この数を意識する強い信仰が、白河、鳥羽、後白河の三上皇をはじめ、上流貴族の間で風靡していた。その思いが表現されたのが三十三間堂であった。その強い信仰に応えた清盛もやがては袂を別ける。清盛亡き後の平家没落、源氏の台頭、鎌倉幕府の設立と大きな時代の変革を見続けてきた後白河法皇は、どのような思いで千手観音と相対していたのだろうか。そんな感傷も内陣の千体の千手観音などを参観していると、その圧倒的な迫力でついえてしまう。
三十三間堂の愛称は、母屋の正面柱間が三十三あるところからきているが、実際は四辺に庇がめぐらされているので、柱間は三十五間となる。しかし、語呂としては、三十三間堂の方が通りが良いように思える。
内陣に入ると、階段状の須弥壇にいかにも整列しているかのような千手観音像が並んでいる。須弥壇の両端には、激しい形相の風神、雷神の像。須弥壇の前には、二十八部衆と呼ばれる神々が並んでいる。中央部に高さ約3.3mの巨大な千手観音像の坐像(湛慶作)を中心として、左右夫々に五百体づつの千手観音立像。合わせて千百一体となる。この千手観音像も1249年の火災によりかなりの被害を受けたが、それでも仏師たちの手によって、千手観音像156体と二十八部衆、中尊の首、左手が運び出されたという。二十八部衆全てが助け出されたのは、これらが湛慶を中心とする仏師団の作ではなかったのではないかという説もある。一体づつ拝顔していくだけでも大変な感じで、一体一体の表情や姿態などあきが来ない神々だ。
ここ三十三間堂では、江戸時代の初期から、西外側の広縁で行われる「通し矢」は、成人の日の行事として今も続いている。

方広寺

1599年(文禄4)に豊臣秀吉の発願により、高さ19mの盧遮那仏を安置する大仏殿、方広寺が完成した。奈良・東大寺を凌ぐものであったが、翌年に地震で倒壊してしまった。後に、秀頼が大仏再興をはかる際に鋳造した梵鐘に「国家安康・君臣豊楽」が、徳川家康の反逆心とされ、豊臣滅亡の道になってしまったという。この字句解釈の入れ知恵をしたのが南禅寺の住持であった以心崇伝であったという。
今ではそのような大仏殿などがあったとは想像もできない小さな境内に、問題の梵鐘がある。そこに表記された文字を確認することが出来る。

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