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天台宗門跡寺院を訪ねて

門跡とは、元来は、一門の法跡の意味で、法統を継ぐ寺院の主たる僧をさしていた。のちに宇多天皇が仁和寺で出家し、仁和寺をご門跡と称して以来、皇族・公家などが出家して代々入寺する寺院の寺格を示す称号に転化していった。親王の居住するものを宮門跡、摂家の子弟の居住するものを摂家門跡、清華家出身の住職寺院を清華門跡と区分し、門跡寺院に準ずるものを淮門跡又は脇門跡と呼ばれた。
親王:天皇の嫡子皇子および嫡男系嫡出の皇孫などを云う。
摂家:摂政・関白になるべき藤原氏の内近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家を五摂家と云う。藤原氏は、忠通
    (1097〜1164)のあと基実の近衛家と九条家に別れ、近衛家から鷹司家が、九条家からは二条家と
    一条家が分立した。
清華:摂家家に次ぐ公卿の家格。太政大臣を先途とし、大臣・大将を兼ねる家柄。三条・菊亭・大炊御門・花山院
    ・徳大寺・久我家に加え後で広幡・醍醐を加えて九清華と云った。
俗な云い方を許してもらえるなら、門跡は嫡子以外の子弟に対する策であり、このような考え方は、現在では大手のオーナー企業での子弟の関連会社へのトップ就任などに合い通じるものがある。したがって、中には必ずしも適した任命にならなかったケースもあるであろう。しかし、今では明治になってから門跡の仕組みが無くなったことにより、そうした裏側の話は表には出てこないで、天皇家や藤原氏系統の子弟が門主になったことによる華麗さが、現代の我々を引きつけている所がある。門主となるまでの貴族的生活を引き継いだような寺院での生活であったことによるであろう建屋や庭園など、見るべきものが多い。
当然、門跡寺院としては、朝廷や貴族の間で庇護されてきた天台宗や真言宗が中心となり、特に、天台宗系では、比叡山延暦寺の三門跡が筆頭の寺格となり、さらに現在ではこの三門跡に加え、京都五ケ室と呼ばれる門跡寺院となっている。
三門跡は、妙法院、青漣院、三千院であり、これらに曼殊院と毘沙門堂を加え五ケ室となる。このなかで、妙法院以外は常時公開され、京都でも有名な寺院であり、訪れるひとが多い所だ。

門跡寺院 一言紹介 関連寺院
妙法院 京都国立博物館の東山側、七条の交差点北東に位置する妙法院は、築地塀に囲まれた大きな寺院だ。普段は、非公開だが、特別公開により参観できたのは、2004年の冬で、未だ小正月も明けていない時であった。 三十三間堂
方広寺
青漣院 平安神宮と知恩院の間を結ぶ東山連峰の麓道がある。その道筋、知恩院の北側に大きな楠木が門前横に大きくそびえたっているのが青蓮院だ。知恩院や平安神宮の人の喧騒さがない静かな一角である。
三千院 京都、大原、三千院・・・・と歌われて有名な三千院。大原の里にひっそりと佇む静かな寺院だが、春や秋の観光シーズンには三千院への細い参道に多くの観光客で賑わう。参道の片側には、小さな呂川が流れ、反対側には大原で有名なしば漬けなどの店が並ぶ。 勝林院
宝泉院
実光院
来迎院
大原の里
寂光院
阿弥陀寺
曼殊院 曼曼殊院が現在の地に移ったのは、1656年(明暦2)で、桂宮智仁親王の次男(後水尾天皇の猶子)良尚親王の時である。これらの皇族間には、共通の思いがあったのではないだろうか。良尚親王の父、智仁親王は、桂離宮の創健者であり、かっては、関白を継ぐべく豊臣秀吉の養子となったが、長子鶴松の誕生により、独立させ八条宮家となった。 北白川の紅葉
詩仙堂
圓光寺
金福寺
野仏庵
毘沙門堂 JR山科駅北口から、盆地の最北部に向かう。途中で、琵琶湖から引かれている疎水を渡る。近江の三井寺近くからトンネルを通り、山科で姿を現し、春は桜で映える所になる。やがて、毘沙門堂の参道に入ると、両脇を紅葉した木々で迎えてくれる 勧修寺
随心院