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天台宗門跡寺院を訪ねて

青連院(しょうれんいん)の沿革
 比叡山山上の青漣坊が起源
 1169年(嘉応元)  鳥羽法皇の第七皇子覚快法親王の得度の際建立し、青蓮院と称す
 1237年(嘉禎3)   現在地に移転
  天明の大火(1788)の折には、後桜町上皇の仮御所となり、「粟田御所」とも呼ばれた

平安神宮と知恩院の間を結ぶ東山連峰の麓道がある。その道筋、知恩院の北側に大きな楠木が門前横に大きくそびえたっているのが青蓮院だ。知恩院や平安神宮の人の喧騒さがない静かな一角である。この辺りは、京の出入口の一つである粟田口に近い。江戸時代末期まで民衆の立ち入りが禁じられていた青蓮院だが、今では、随時公開され、春・秋の一時期には、夜間照明によるライトアップでの特別公開もされている。青蓮院が最も栄えたのは、平安時代から鎌倉時代に及ぶ第三世門の慈圓(藤原兼実の弟)の時と云われている。慈圓は、天台座主を4回務めたのをはじめ歴史書の「愚管渉」や歌集の「捨玉集」を著したことでも有名である。又、比叡山から圧力がかけられていた法然や親鸞を庇護したことから、浄土宗や浄土真宗にとっても聖地とされている。御所から移築された寝殿と回廊で結ばれた華頂殿。建物に沿って配された庭園。最も大きな庭は、龍心池を備えた「相阿弥の庭」で、銀閣寺の庭園をてがけたとされる相阿弥の作で、回遊することができる。更に、「相阿弥の庭」の北側には、小堀遠州作といわれる「霧島の庭」で、樹齢数百年といわれる霧島躑躅が植えられているが、躑躅が咲く頃に訪れる機会がなかった。「霧島の庭」に建てられた茶室「好文亭」を眺めながら少し上ると日吉社が祀られ、再び降りていく小道の南側は、竹林が広がっている。下りきったところに本堂があり、本堂には「不動明王二童子像」青不動と呼ばれる像が観覧できる。但し、観覧しているのは、複製。高野山明王院の赤不動、三井寺(園城寺)の黄不動と並んで三不動の一つである。寝殿の南側には苔庭が広がっている。夜間のライトアップ時、この苔庭で照明による梵字を描き出す演出もされる。青蓮院の本尊は、熾盛光如来で、全身から光炎を発して闇を光で制し、一切の難儀を消滅する天の支配者であり、光の化身でもあるというから、こんな事からの光による想いかもしれない。そんな青蓮院も歴史の波間に揺られてきたようだ。慈圓の後任を後鳥羽上皇から託された朝仁親王として譲位しよとしたが、承久の乱が起こり、鎌倉幕府によって阻まれたり、かっては青蓮院の寺域であった現知恩院の境内を徳川幕府によって取り上げられたりしたとの事だ。


門前の楠木

桜吹雪の跡

寝殿前苔庭

寝殿内

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