京都、大原、三千院・・・・と歌われて有名な三千院。大原の里にひっそりと佇む静かな寺院だが、春や秋の観光シーズンには三千院への細い参道に多くの観光客で賑わう。参道の片側には、小さな呂川が流れ、反対側には大原で有名なしば漬けなどの店が並ぶ。そんな三千院には、初秋の9月と晩秋の11月に訪れた。
三千院(さんぜんいん)の沿革
最澄が比叡山に根本中堂を建立する際、東塔南谷に構えた一堂宇が起源
860年(貞観2) 一念三千院と呼ばれ、平安末期から法親王が入寺する門跡寺院となる
986年(寛和2) 大原に簡素な御堂が、恵心僧都と姉安養尼により簡素な御堂を建立
1148年(久安4) 高松中納言実衡の未亡人が常行三昧堂を建て、往生極楽院となる
1156年(保元元) 大原の寺々を管轄する政所となり、大原に移る
細い参道をしばらく登っていくと、突然眼の前が広がり、三千院の石垣が見えてくる。この石垣は、石工で名高い近江坂本の穴太の工人が積んだものだという。後に、坂本を訪れた時、日吉大社への参道脇に石垣が積まれていたことを思い出す。三千院と公称するようになったのも明治以降の事であり、元々大原の寺々、来迎院、勝林院、往生極楽院を管理する政所がここに置かれていたことにより、武家屋敷的な構えになったという。大原のこの山あたりを魚山と呼ぶが、中国の魚山にちなんだ命名で、中国の魚山が中国声明の中心地とされたことから来ているという。声明とは、インドに端を発した御仏を礼賛するための仏教声楽であり、最澄によって声明が伝えられ、その後円仁が渡唐後天台声明を定着させた。その後、良忍によって天台声明の統一がなされ、晩年、来迎院を建立し隠棲し、声明の根本道場として以来、天台声明の中心地が比叡山から大原に移り、大原流となった。川の名前も律川や呂川などと声明の呂律からきている。天台声明が、その後の邦楽の全てに渡っての母体になった事を考えれば、ここ大原が日本音楽の発祥の地と云っていいかもしれない。そんな大原で寺々を統括していた三千院は、女人禁制の比叡山延暦寺に対し、仏門を志す女性に開かれた場であった。三千院の境内、杉木立に囲まれた庭に佇む「往生極楽院」の御堂には、阿弥陀三尊像が静かに祀られている。平安末期、この堂に一人の女性が籠ったという。29歳の若さで夫高松中納言実衡を亡くした真如房尼であった。常行三昧堂を建立し、90日間休まずひたすら念仏を唱えながら、仏の周りを回る常行三昧の行を行ったという。そんな歴史が、今の世でも多くの女性を引きつける魅力を持っているのかもしれない。
観光客で賑わう御殿門前の広場に食事所など多くの店が並んでいる。そんな人込の中、石段を上り三千院の境内に入る。
客殿の前に広がる庭園が、「聚碧園」で、江戸時代初期の茶人、金森宗和が手を加えたとされている。宸殿は、大正15年に宮中行事であった御懺法の儀を行うため造られた。御所の紫宸殿を模して造られたという。宸殿を下りると「有清園」の庭がひろがり、杉木立の中に「往生極楽院」が建っている。往生極楽院から上ると金色不動堂の新しい堂が建ち、更に石段を上ると観音堂が建っている。
約255坪の庭園、五月の刈り込みが見事である。園の由来は、「緑の集まる空間」という意味だそうだ。
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船底天井となった御堂には、中央に阿弥陀如来像、右に観世音菩薩像、左に勢至菩薩像が正座している。特に、両脇の観音菩薩は、倭坐りという両ひざを軽く開き、足に軽く尻をのせて、上体はやや前かがみにうつむいている姿だ。如何にも、救いを求める人に直ぐにでも立ち上がって迎えてくれるような感じだ。
三千院の庭で見つけた光景。
紅葉には未だ早めだった。