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天台宗門跡寺院を訪ねて

鴨川に流れ入る高野川の上流に開けた比叡山を南に見る山間の里が、大原である。平安時代、皇太子への道が閉ざされた惟喬親王が隠遁して以来、大原は隠れ里ととして知られるようになった。又、中国声明の中心地であった魚山に似ていたことから、天台声明の地として、数々の寺院が建立され、後に三千院がこれらの寺々を統括していく。大原は、円仁によって声明の修練道場として開山し、藤原時代になって俗化した叡山を離れた念仏聖が修行する隠棲の里になった。寂源によって声明道場として勝林院が開山し、良忍が来迎院を建立し、天台声明の中心地として栄え、宝泉院、実光院、往生極楽院などの多くの坊がなりたっていたという。
源平時代の末期には、平清盛の次女で高倉天皇に嫁ぎ、安徳天皇を産むものの、壇ノ浦で心ならずも助け上げられた建礼門院も、東山の麓で剃髪した後、大原・寂光院に移り住んでの隠遁生活。建礼門院が大原に残した足跡は大きいと云われる。一つが大原女の装束。建礼門院の侍女の服装を真似たものという。又、名物のしば漬けも、村人が建礼門院に献上した夏野菜を、侍女が紫蘇と一緒に漬けたのが始まりという。そんな里には、今でも現世を忘れ一時の心の安らぎを求める旅人がやってくる。

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宝泉院


勝林院(しょうりんいん)の沿革
 天台宗 大原魚山流 声明道場
 835年(承和2)  円仁により創建
 1013年(長和2)  寂源によって声明道場として再興
 1186年(文治2)  顕真僧正が法然を招いて論議した「大原問答」の舞台となる

三千院の門前をそのまま進むと、小さな律川を渡り。後鳥羽・順徳帝の御陵前から坂道を下った正面に勝林院が見える。声明の根本道場として、声明梵唄修行の地として多くの僧が集まり、院内の坊として宝泉院・実光院などを栄えたという寺院とは思えない控えめな本堂。勝林院には、「証拠の阿弥陀」が鎮座する。これは、1186年の法然と顕真僧正が浄土教について論議した大原問答(念仏により極楽往生ができるかどうかの問答)の時、阿弥陀如来の手から大光明が放たれ、法然の教えが正しいことを示したという。これをもって、この名がついたという。事実は、問答により法然が勝っていて、その事実を示す逸話として残ったものであろうし、その証が本尊の阿弥陀如来であるという事を示すものであったのであろう。本堂内の阿弥陀如来像の前にも今でも問答を行った二つの八講壇(問答台)が置かれていて、法然と顕真僧正が合い対し、その周りに多くの僧が集まって聞いている姿を想像させる。この問答には、遠く奈良の寺院の僧も集まったという。それだけ、その頃の法然の教えに対する強い関心があったのだろう。

宝泉院


勝林院の手前を下ると宝泉院に至る。宝泉院は、勝林院の住職の坊として1182〜85(寿永年間)の創建され、現在に至っているが、現在の建物は江戸時代初期の再建と云われている。今や、勝林院に比べて多くの観光客が訪れる寺院になっている。それは、客殿から眺められる小さな庭園の見事さが人々を引きつけるからであろう。客殿の西、柱と柱の空間を額に見立てて観賞できる工夫。客殿に座り、お茶を一服しながらの観賞は、眼前には竹林が広がり、竹の間から望める借景としての大原の里のコンビネーションの風情が何ともいえない。この庭を「盤垣園」と呼ぶ。立ち去りがたい園という意味だそうだが、多くの人が客殿に座している時にしか観賞できていないので、それこそ人の少ない冬、しかも雪景色の時などであれば、心が洗われるのではないかと思える。
茶室の手前に水琴窟がある。蹲踞から流れ落ちた水の音は妙なる音で耳の中にしみ込む感じである。

客殿の南側には、五葉の松がそびえる。樹齢700年、高さ11mに及び、枝の張りは、南北11.5m、東西14mみ及び、見事なお扇形をしている。
この松を見る縁の上に「血天井」が貼られている。これは、伏見城を守っていた鳥居元忠の軍が小早川秀秋らによって攻められ、奮戦空しく元忠らの自刃したときの血痕が残る床板を、供養のため徳川家に縁のある京都の各寺に移したもののうちの一つだ。静粛な場に置き自らを見るべきであろう客間と庭園、そんな中の血天井は、人の持つ空しさを感じされられるところでもある。

客殿の東側には、「鶴亀庭園」がある。江戸中期の庭園で池の形を鶴、築山を亀に見立て、山茶花の古木を仙人が住む蓬莱山を表すという。

実光院


勝林院で声明を学ぶ学僧の宿坊として建てられた実光院、大正時代に普賢院と理覚院を併合して、普賢院跡地に建っている。客殿の西側に広がる旧理覚院庭園をノンビリと巡ることができる。

秋から春に花をつける「不断桜」。秋の紅葉と桜というのも珍しい。

来迎院


来迎院(らいこういん)の沿革
  851〜54(仁寿年間)  円仁によって開山
  1109年(天仁2)     良忍が再興

三千院から呂川沿いに山道を上ると小さな山門が現れ、更に上ると、来迎院の小さな本堂が姿を現す。再興した良忍は、円仁が伝えた声明を統一し、「魚山流声明」として集大成した。為に、この来迎院も多数の伽藍があったが、今では小さな境内になってしまっているが、かえって声明の聖地としての趣きがある。丁度、訪れた時に、本堂内に多くの人々が静かに坐っていた。何事かと思ったが、声明を聞くために集まっていた人達だった。その時は、声明の事も良く知らず、本堂を出てしまった。今にして思えば惜しいことをしてしまったと思う。本堂を出て、境内を散策して、下山しようとしていたとき声明が響いてきた。秋の清涼とした空気の中で、凛とした清々しい声明が耳の響いていたことを思い出す。来迎院から少し上ったところに音無しの滝がある。その名は、良忍が滝の前でひたすら声明を唱えていると、滝の音が声明の音律と同調し、かき消えてしまったという故事から来ている。そんな良忍は、「融通念仏宗」の開祖として知られる。融通念仏とは、一人の念仏と衆人の念仏とが互いに融通しあって往生の機縁になるという教えであり、その布教を図り、1132年(天承2)にここ来迎院で、入寂した。

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