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天台宗門跡寺院を訪ねて

今や京都の中でもファショブルな街並みとなっている白川通り。通りを南下すれば、銀閣寺となるこの界隈、叡山電鉄の修学院駅に近い白川通りから一歩比叡山側に入り込むと、修学院離宮に代表される院が点在するのどかな田園風景が広がっている。宮本武蔵と吉岡道場との決戦の場である一乗寺下り松も近く、桃山時代から江戸時代の初期にかけての夫々の思いが散在する地でもある。
11月の下旬、春のような暖かい一日に、白川のそれら寺々を巡った。
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詩仙堂


詩仙堂の沿革
 詩仙堂丈山寺(曹洞宗)
 1641年(寛永18)  石川丈山によって造営
 1748年(寛延元)  改修
 昭和41年より曹洞宗の寺院となる

詩仙堂の造営を図った、石川丈山は、徳川家康に仕えていた臣であったが、大阪夏の陣に参加したした際、さきがけの功を焦って軍紀に触れ、徳川家を離れて隠居したといわれている。その後、京都にて文人藤原惺窩に朱子学を学び、更に広島浅野家に十数年仕えた。そして、再び京都に戻り、59歳で詩仙堂を創建した。いかにも、戦いに明け暮れた武士の生活を捨て、己が思いの生活に入った文人というイメージであるが、俗説もある。それが、実は徳川家のスパイ説である。その理由が、後水尾院の動静をさぐりことであり、このため修学院離宮に近い一乗寺近くに堂を造営し、更に、修学院や京都市街を一望できる嘯月楼という望楼を設けたというものだ。事実であれば、一編のストリーが出来そうな面白い話だが、反徳川の地でもある京都という事を思えば、このような逸話が残る理由も納得できる。
現在詩仙堂と呼ばれているが、正しくは凹凸窠であり、その一室を詩仙堂と呼ぶそうで、詩仙堂の由来は、中国の漢・晋・唐・宋の詩家36人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた「詩仙の間」からきている。
庭園は、傾斜地に上下二段に造られており、谷川の流水が各階の庭園を一つの空間にまとめあげている。又、流水を利用して鹿おどしが設けられ、サツキの大刈り込みや紅葉、山茶花の植栽と呼応する清々しい庭園の要素になっている。
詩仙堂入り口では、観光客の行列をつくっていたのには驚く。しばらく並んでから、建屋の中に入る事ができた。
庭園へは、降りることができ、上下に分かれた庭園を散策する。艶やかな紅葉が、身近にせまり、晩秋の昼下がりのなか、多くの人々と静かに歩を進めた。

圓光寺


圓光寺(えんこうじ)の沿革
  瑞巌山 圓光寺(臨済宗南禅寺派)
  1601年(慶長6)  徳川家康の命で、学校を兼ねた寺として伏見に創建
              一時相国寺山内に移る
  1667年(寛文7)  現在地に移転

徳川家康が足利学校に匹敵する学校を創ることを目的とし、足利学校第九代の学頭・三要元佶禅師を招き、圓光寺が創建された。このため、多くの書籍も刊行され、これらの木活字が残っている。
そんないわれのある寺院であるが、庭園の紅葉は素晴らしいものがあり、紅葉を十分堪能できた。

金福寺


金福寺(こんぷくじ)の沿革
  佛日山 金福寺(臨済宗 南禅寺派)
  864年(貞観6)  円仁の遺志により安慧僧都が創建
            その後一時退廃
  元禄時代に鉄船和尚により再興

金福寺の再興を図った鉄船和尚は、芭蕉との親交があり、芭蕉が寄宿した庵が「芭蕉庵」として名付けられたが、約70年後与謝蕪村が訪れた時には、寺が荒廃していた。蕪村は、「芭蕉庵」を再建し、以降度々この庵を訪ねたという。又、金福寺には幕末時代、井伊直弼を影で支え、井伊直弼が暗殺された2年後、天誅組によって捕らえられ、三条大橋のたもとに生き晒しされた村山たかのが隠棲した地でもある。俳諧の世界と幕末動乱の夫々の時代がしみ込んでいる庭には、今でも侘びた佇まいを見せる「芭蕉庵」が静かに庭を見下ろしている。

野仏庵


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詩仙堂そばに野仏庵があった。詩仙堂を観覧したあとの余韻を、野仏庵でのお茶で心を休めた。この庵は、湯豆腐の老舗「順正」の創立者の上田堪庵の設立したもので、茶席や不動明王んどが祀られている。玄関への道脇の紅葉が艶やかであった。