曼殊院が現在の地に移ったのは、1656年(明暦2)で、桂宮智仁親王の次男(後水尾天皇の猶子)良尚親王の時である。これらの皇族間には、共通の思いがあったのではないだろうか。良尚親王の父、智仁親王は、桂離宮の創健者であり、かっては、関白を継ぐべく豊臣秀吉の養子となったが、長子鶴松の誕生により、独立させ八条宮家となった。更に、智仁親王の兄後陽成天皇からの皇位譲渡も徳川家康の猛反対にあい、挫折の果てに桂離宮の造営に打ち込んだという。桂離宮が現在の姿に完成されたのは、智仁親王の長男・智忠親王であった。更に、曼殊院近くの修学院離宮は、後水尾院によって創建されている。後水尾院は、徳川秀忠の娘和子を正室として入内させられるという政略にあい、その後も「紫衣事件」が起きたことにより、僅か34歳の若さで譲位し、修学院離宮の造営に打ち込んだ。譲位にあたり「芦原よ しげらばしげれ おのがまま とても道ある世とは思はず」なる一首に徳川幕府への強い批判が表されている。(「紫衣事件」ーー高僧が着用する紫色の法衣の勅許が朝廷の権限であったものを、1613年徳川家康が予め幕府に知らせるという法度を定めた。1626年後水尾天皇は、大徳寺・妙心寺等の僧に着用を許可したが、幕府は翌年その勅許を無効とした。この処置に抗議した大徳寺の僧沢庵らを流罪にした。)桃山時代末期から江戸時代初期の間、朝廷と幕府との対立から、諸々の権限が幕府に移されていくという流れの中に飲み込まれてしまった皇族の一人が、良尚親王であり、当然こうした身内の痛ましい思いを共有していたはずである。だからこそ、曼殊院の庭園は、ミニ桂離宮とも呼ばれている。残念ながら桂離宮も修学院離宮も訪れる事が出来なった自分ではあるので、その比較など出来ようもないが、その心中を感じる事が出来る。
修学院離宮・桂離宮そして曼殊院は、王朝文化の最後を飾る舞台となり、やがて京文化の担い手が貴族から町人などに移っていく。
そんな背景を持つ曼殊院へ、11月末の紅葉も艶やかな時期に訪れた。多くの人で溢れかえった曼殊院では、そんな思いを抱く事もなく、ただただ紅葉の美しさを愛でるだけであった。
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曼殊院(まんしゅいん)の沿革
782〜806年(延暦年間) 最澄が草創した堂が起源。比叡山西塔北谷にあった東尾坊と称した
947年(天暦元) 是算国師が菅原氏の出であったことから北野神社の別当職となる
1108〜9(天仁年間) 曼殊院と称す
1656年(明暦2) 良尚親王により現在地に移る
曼殊院への道すがら、鷲森神社であでやかな紅葉が出迎えてくれる。比叡山七ケ村の産土神を祀るという。
比叡山の南西になだらかな稜線を見せる修学院山。その山すそに拓かれた離宮が修学院離宮から、南に約1kmに曼殊院がある。参道を上っていくと曼殊院の勅使門が見えてくる。門塀の下のなだらかな斜面に紅葉したカエデの朱色が、出迎えてくれる。
曼殊院の庭園は、紅葉真っ盛りであった。白砂の中には、樹齢400年の五葉の松が立つ鶴島と地を這うような松で埋まる亀島が浮かぶ。小書院の縁に腰をおろし、大海原に漕ぎ出したかのようになり、悟りの彼岸をめざし煩悩の海を渡るという思想が込められているという。
しかし、そんな庭の思想を思うことなく、紅葉の素晴らしさに見入ってしまう。
大玄関の虎の間には、狩野永徳筆と伝えられている障壁画の「竹虎図」が出迎え、大書院へと進む。大書院から、庭園を一望でき、更に小書院へと進む。小書院内の富士の間と黄昏の間の欄間には、浮き彫りで表菊、透かし彫り裏菊が表されている。黄昏の間の奥にある「曼殊院棚」は、10種類もの寄木で作られた違い棚なや長押には富士山を象った釘隠しなど細かな所まで贅を尽くし、趣向をこらしている。