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金戒光明時

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の沿革
  浄土宗大本山 紫雲山・くろ谷 金戒光明寺 
  1175年(承安5) 比叡山から下山した法然が、念仏道場を構える
  1352〜70年頃  金戒光明寺と号するようになる

古都を歩く ページTOP 念仏への想い

比叡山から降りた法然が、最初に草庵を結び、念仏道場を開いたのが、黒谷。今、壮大な伽藍を構えた金戒光明寺として、地元の人には「黒谷さん」と呼ばれ、親しまれている。ここ黒谷は、東山連峰の麓にある小高い山・吉田山の南端に位置する。かっては、比叡山の寺領であった黒谷に法然は、専修念仏を唱え、道場を開いたところで、浄土宗にとっての発祥の地とも云うべき所。事実、参道の先の三門の楼上の扁額には、後小松天皇の筆といわれる「浄土真宗最初門」の文字。そんな、歴史的を持つ金戒光明寺だが、幕末時には、京都守護職に任じられた会津藩主松平容保が、約1000名の藩士を連れ入京し、宿舎となったところでもある。京都の治安維持を目的として、新撰組や藩士が幕府への忠誠を誓って活動したが、時代の流れに逆行してしまった悲劇を見る。今でも、ここ金戒光明寺には、京で倒れた会津藩士352名が眠っている。
約一万基をこえる墓碑の殆どが西向きに建てられている。それは、ここから京都盆地の西側に沈む夕陽を拝むことが出来る場所だからそうだ。西方浄土からの光が、法然の専修念仏の世界と一体となって、ここに最初の道場を開いた所以かもしれない。

三門 御影堂

三門は、1860年(万延元)に再興され、高さ約20m。
御影堂は、昭和9年に焼失したあと、昭和19年の戦時中に再建された。戦時中であっただけに、物資の調達は大変だったそうだが、昭和の模範建築物といわれる位、壮大な伽藍が再建されたのも強い信仰の力があったからかもしれない。御影堂の斜前に鎧かけの松がある。法然の弟子となった鎌倉武士、熊谷直実がこの寺で出家した折、脱いだ鎧を掛けたと云われる松だ。

真如堂

金戒光明寺を抜けると「真如堂」がある。真如堂は、比叡山延暦寺を本山とした天台宗の寺である。およそ一万坪の境内に建つ、本堂や三重塔など、静かな境内に荘厳な雰囲気をかもし出しているように感じられる。真正極楽、「真の極楽」と号するこの寺、古来から女性を救ってきた「女人の寺」でもある。
平安時代中期、一条天皇の母、東三条院の夢に比叡山の阿弥陀如来が現れ、「自分は一切衆生、とくに女人を救いたいと思うので、急いで山から下ろしてほしい」と告げた。阿弥陀如来は、また戒算上人の夢に現れ、「神楽岡に真正極楽の霊地がある」と告げる。戒算は、お告げに従い、比叡山にあった阿弥陀如来像を東三条院の離宮にある神楽岡に移し、一宇を建てたといわれている。当時は、飢饉や疫病が蔓延し、戦乱の続く社会で苦しんでいた女人を迎え入れたという。

真如堂(しんにょどう)の沿革
  天台宗 鈴聲山真正極楽寺 真如堂
  984年(永観2) 戒算上人が本尊を祀る
  990〜95年頃(正暦年間)  伽藍群が完成
            その後応仁の乱で焼失するも足利義政の命により復興
            その後寺地が移転を繰り返し、1705年(宝永2)に現在地に再建

涅槃の庭

真如堂を訪れたのは、冬の1月下旬であった。時節柄だろうか、参観する人を殆ど見かけなかった。本堂内に案内され、寺僧から説明を聞く。曇り空の日であったこともあり、本堂内は暗い。本尊の阿弥陀如来立像は、「うなずきの弥陀」と呼ばれているそうで、円仁が唐から帰国後、かやの木で如来を彫ったとき、「比叡山の修行者のための本尊になりたまえ」と願うと、如来は、三度首を振り拒否したという。そこで、「京の都に下って一切衆生を導きたまえ」と云うと、三度うなずいたそうだ。
本坊書院の「涅槃の庭」は、昭和63年に再興されたが、大文字山を借景とした枯山水庭園だ。

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