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念仏への想い

平安末期から鎌倉時代にかけ、源平の戦いを始めとした争い、そして仏教界も本来の姿を忘れた状況であった。そんな世界で、人々は、現世の落ち着いた生活や来世への想いを持っていても、比叡山や高野山にはその救いを求められる状態ではなかったという。比叡山や高野山も、国家安泰の祈願所であったり、朝廷や貴族への奉仕を第一としていた所があり、民衆の救済という活動が為されていなかったという。そんな時に現れたの法然であった。法然は、比叡山で修行を積んだものの、人々を如何にしたら救えるのか悩み、比叡山を降り、修行をつんだ結果、ひたすら仏に助けを求める念仏を唱えることによって、成就できるという考えに至り、多くの人々が帰依するようになった。しかし、比叡山の圧力から、朝廷から四国への流罪(高弟親鸞も越後へ流罪)されたものの、やがて許され、自らの信念のもと布教を始めた。浄土宗の始まりである。やがて、高弟・親鸞が、さらに念仏を高めた教えを広め、弟子達によって浄土真宗として広まっていった。後に、浄土真宗は、戦国時代になって、時の権力者達との激しい戦いを交えることになる。信仰という強い信念が、武士ではない一般人にこのような行動をとらせた事自体驚きである。
法然43歳の時、「観無量寿経」を中国・善導が著した注釈書にて「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを生定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に」という一節により、眼が開かれたという。
能力のある人だけが救われる「自力」というこれまでの考えを、その能力にあるなしに関わらず、誰でも救われるという「他力」を説いたのは有名であるり、後に親鸞の弟子唯円が著した「歎異抄」の「善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」の一節に通じる。
法然の考え、教えは、ある意味での日本の仏教の改革と云ってもいいくらいの評価を得ているなかで、法然も一人の人間であると思わせる逸話も残っているのが、興味深い。それは、法然を慕った式士内親王の悲劇である。式士内親王は、後白河天皇の三女として生まれ、幼くして賀茂神社の斎院となり、17歳頃病を得て退いた。そんな内親王が、法然の説法を聞いているうちに、恋い慕うようになった。そんな思いを下鴨神社内の御手洗池で法然に打ち明けたという。しかし、法然がその思いを受け入れる事はできない。現世ではなく来世の浄土で結ばれる希望を懸命に話したという。そして、内親王は出家したが、心は現世のまま、やがて病魔におかされ、命尽きる前に今一度逢いたいと法然に文を送る。しかし、法然は、逢いたいという思いに必死に耐え、浄土で待つよう長い長い手紙を返したという。内親王は、ついに法然に逢う事もなく、この世を去ったという。
専修念仏・万人救済という大儀に生きる法然ではあるが、やはり、人間としての法然の姿を見る思いだ。

寺院 一言紹介 関連
法然院 哲学の道」から東に折れた閑静な所に「法然院」がある。かって、法然上人の草庵があり、弟子の住連・安楽と共に念仏修行を行ったところに建つ。 哲学の道
金戒光明寺 比叡山から降りた法然が、最初に草庵を結び、念仏道場を開いたのが、黒谷。今、壮大な伽藍を構えた金戒光明寺として、地元の人には「黒谷さん」と呼ばれ、親しまれている。 真如堂
知恩院 東大路通から知恩院道を進むと、目前の巨大な三門に圧倒される。1621年(元和7)に徳川秀忠が建立されたこの門は、高さ約24m、横幅約50mの「五間三戸」と現存する木造の寺門では我が国最大という規模である。 青連院門跡
百万遍知恩寺 バス停に「百萬遍」という所がある。面白い名前でいわれがあるのだろうと思っていた。銀閣寺から出町柳駅に向かう今出川通り沿いを歩いていたとき、百萬遍知恩寺を知った。
清涼寺 嵯峨野にある清涼寺が、何故、法然と関係があるのだろうか。しかも、地元では嵯峨釈迦堂として親しまれている。そんな疑問があった。それは、法然24歳の時(1156年 保元元)比叡山から下り真直ぐ清涼寺を訪ね、 嵯峨野
嵐山
東本願寺
西本願寺