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清涼寺

清涼寺(せいりょうじ)の沿革
  五台山 清涼寺(嵯峨釈迦堂) 
  987年(永延元) 東大寺の僧「然が、中国・宋から持ち帰った釈迦如来立像をもとに、建立を発願
             弟子の盛算によって創建
  1530年(享禄3) 浄土宗となる  

古都を歩く ページTOP 念仏への想い

嵯峨野にある清涼寺が、何故、法然と関係があるのだろうか。しかも、地元では嵯峨釈迦堂として親しまれている。そんな疑問があった。それは、法然24歳の時(1156年 保元元)比叡山から下り真直ぐ清涼寺を訪ね、広く人々を救うための仏教を求めて釈尊像の前に七日間のおこもりを行ったという。そこには、身分の低い武士や流浪の僧、市女笠の女など女人や下層の庶民の群れが釈迦如来に祈る姿を見て「仏の救済は、僧俗の差別を撤廃して平等に分たれている筈である。法然は、ここで真の大乗仏教とは山の僧の仏教ではなく、町の庶民生活の中の仏教でなければならないと覚めされた」という。この釈迦如来像は、インドから中国そして日本に渡ってきた三国伝来のお釈迦さまといわれている。この像は、釈迦37歳の生き姿を刻んだものといわれる。この尊像は、インドからヒマラヤを越え中国に伝わり、奈良東大寺の僧、「然上人がその尊像を模刻し、985年(寛和元)に持ち帰った。模刻したとき五人の中国尼僧により釈迦如来像体内に絹で作られた五臓六腑などが施入され、昭和28年にその五臓六腑が発見されたそうだ。この釈迦如来像は、4月19日の「お身拭式」の時と12月の仏名会の時に開帳される。
清涼寺を始めて訪ねた時、奇しくもご開帳されていたので、釈迦如来像を拝顔できた。確かに、これまで拝顔してきた釈迦如来像とは異なり、顔だちが生身の人間のようであり、日本で彫られたというイメージではなかった。
清涼寺境内には、嵯峨天皇の皇子、源融の墓がある。清涼寺が建設される前、源融はこの地に山荘を構えていて、死後遺族の手によって棲霞寺として阿弥陀三尊を祀る阿弥陀堂が建立された。その後、境内に清涼寺の前身である釈迦堂が建立されると棲霞寺は次第に衰え、今は阿弥陀堂を残すのみとなった。この源融が、源氏物語主人公、光源氏のモデルであったとも云われる。
清涼寺には、数多くの国宝を始め見るべきものが多い寺院だ。改めて、ゆっくりと訪ねたいものだと思う。
清涼寺の仁王門の東側に嵯峨豆腐で有名な「森嘉」がある。近くの湯豆腐の店などに卸しているが、豆腐を持ち帰るのが大変なので、立ち寄った時には、飛竜頭を買って帰ったことを思い出す。