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想い出の地の歴史散策

津田山

現在での身近な駅といえばJR南武線津田山駅。かっては、津田山駅より南武線に乗り、会社への通勤でのスタート駅であった。今では、毎日乗ることもない駅だが、云わば今一つの玄関口とも云える。そんな津田山駅は、高津区下作延に位置し、北側に津田山と呼ばれる丘の上に住宅街が広がり、南側の丘陵には市営緑ヶ丘霊園が広がる、丘と丘の間の狭い平地にある。かっては、駅の南側には、日本ヒューム管鰍フ工場があったが、今は、その跡地の東側に「下作延小学校」、西側には、大手スーパー イオングループの「MAXVALUE」(その前は住宅展示場)が平成15年オープンし、大きく景観を変えてしまったが、それでも、春秋のお彼岸時や桜の時期には、多くの人出で賑う事は変わらない。

津田山駅概観

津田山駅は、昭和14年に建設され、当初は「日本ヒューム管前駅」と云われていた。この津田山の地名は、駅の北側に広がる台地を云うが、かってこの台地を、昭和15年(1940)開催予定となった「東京オリンピック」の選手村として誘致しようとしたが、日支事変の勃発により、オリンピックは中止、選手村の話も無くなってしまった。この津田山とは、元々「七面山」と云っていたが、この丘陵地帯を一大公園構想のもと再開発の計画が大正15年(1926)に計画され、玉川電気鉄道且ミ長の津田興二が自らの名をとり「津田山」と命名した。この碑が、津田山の公園内に建つ。
今は、閑静な住宅街として整備され、有名人も多く住む処になっている。

犬養揮亳氏の碑

作延城跡碑

津田山駅の南側に広がるのが、下作延上作延である。かっては、作延郷であったが江戸時代になり慶長2年(1597)に、京都の方を上とし、江戸の方を下に分けたという。
作延の地名由来は、ハッキリしていないが、「サク」は「狭間」を意味するところから、平瀬川とその谷底低地を南北から丘陵地が挟むかたちになって東西に延びていることから命名されたと考えられている。
鎌倉時代に活躍した「稲毛三郎重成」の居城が、今の緑ヶ丘霊園の東端にあったと伝えられ、その碑のみ建っていて、城址の面影はない。

江戸時代に編された「武蔵風土記稿」によると、『村内なべて山丘にして陸田多く、水田少なし、東西5町餘、南北径10町餘、民家53軒。多くは山腹に散在せり。村の中程を流れる、川2町餘、この川に堰圦(せきいり)ありて、用水とすれど当村は流末になるを以って、常に涸水』とある。この川が平瀬川であり、大雨の度氾濫していたが、普段は、殆ど水の流れない川であったようだが、それは今でも変わらない。南側の台地が霊園で、北側の台地は殆どが住宅地かされていて、その間を平瀬川が流れる様は、風土記と変わらない。

上作延

緑ヶ丘霊園の噴水広場

霊園東端より溝の口方向

参道の桜

霊園より津田山方向

緑ヶ丘霊園

緑ヶ丘霊園は、昭和18年10月に開設された公園型の霊園で、その広さは、374haという大きなもので、春の桜、秋の紅葉などの自然も楽しめる処だ。

霊園台地の東端にある赤城神社は、鎌倉時代に勧請されたといわれる。「赤城神 社由来記」によると、源頼朝が建久4年(1193)に浅間那須野で狩りをし たとき、稲毛三郎重成を同伴した。午刻になりキツネの鳴き声がして狩りの凶 を告げた。ただちに上州赤城山頂の大沼湖畔にある赤城大明神に神願し、災難 を除くことができた。帰国後に重成は、作延村に赤城大明神を勧請し、武運長 久を祈ったという。

赤城神社

延命寺

延命寺の縁起につて「武蔵風土記稿」によれば、『深大寺末寺 赤城山妙覚院と号す。村民某が先祖菩提のため僅かなる庵室を造立して 以号妙覚院と呼べりと、又 釈迦堂と号して釈迦堂橋の辺りに一宇の庵ありしを、元和元年(1615)に赤城社の麓に移し、この二つの庵を合わせて一の坊として庵主をして赤城の社務を司らしめけり、宗旨は天台宗にて時の住持を泉海と号せしとぞ、今此僧を以って開山とせり、今の如く一寺となりしは第5世栄賢の時にて、承応元年(1652)に本山及び山号寺号ともに今の如く定まりし本尊地蔵は、春日の作なりと云、是を鼻取地蔵と呼ぶ。』とある。この鼻取地蔵には、面白い話が伝わっている。

「昔、この村の里長(村長)の家に1頭の荒馬がいた。暴れ馬で人のいうこ とをなかなか聞かない。ある年の田植えのとき、その馬に農具を背負わせて田 に行かせたが、途中で暴れてどうしても前にすすまない。このとき、どこから 来たのか1人の小僧が現れ、馬の口輪をとってなだめると、不思議にも馬はお となしくなり1日中よく働いた。小僧は夕方、馬を連れて里長の家に帰って来 たが、馬小屋からどこへ行ったのか消えてしまった。 翌日、延命寺の僧が読経のときに本尊の足もとを見ると泥がついていた。こ の話をきいた里長は、昨日の小僧を思い出し、本尊が小僧に化身して難を救っ たものと知った。これより地蔵尊を鼻取り地蔵と呼ぶようになった。奥州南部 地方では、この地蔵尊の霊験があらたなることを信じ、遥拝する人が多いとい う。」

下作延

「武蔵風土記稿」によれば、『当村は、稲毛領諸山の尾さきにて、東西北に丘林ありてその間に田畑ひらけり、南の方は平なれども、その地形は高し、家数71軒所々に散在せり東西15町許、南北10町程 陸田多くして水田すくなし、用水便あしきを以って東西北に丘林ありてその間に田畑ひらけり、南の方は、平なれどもその地形は高し、家数71軒所々に散在谷川は、村内を流れること4町許にして溝の口に達す。川幅2間程当村の用水にも引用、これ以外は溜井のみにして水利はなはだ不便なところ。』とある。今や、宅地化が進み、緑ヶ丘霊園の東側や北側には、大きなマンションも建ち、急激な人口増加となっている。これには、溝の口に接しているし、南の丘陵地区は、田園都市線梶ヶ谷駅にも近いといった地の利もあるのだろう。昭和58年に開校した下作延小学校も、特別教室を普通教室にして使うなどして、生徒数の増加に対応しているとも聞く。近年、南武線沿いの道路が、溝の口駅前から小杉まで行かれるようになってからは、この道路も混むようになり、以前とは大きく異なる状況になっている。

下作延交差点から北側の丘の麓に、茅葺の山門が見える。円福寺である。
「武蔵風土記稿」によれば、『村の東、高座群遠藤村宝泉寺の末山。 古は、慧日山、今は青龍山。開基 益田駿河守満栄 大永2年(1522)当院を起立、僧 雪天(点)を以って開山。雪天 天正4年(1576)正月 80歳にて寂。満栄 永禄元年(1558)6月 卒 清沢村 能満寺に葬る。寛永11年(1634)回禄(火事)にあう。地頭戸田六郎右衛門清信、益田が子孫市郎兵衛 本尊以下造立。寛政7年(1794) 再び丙丁の災い。本尊は、釈迦木の坐像。』とあることから、相当に古い寺といえる。(益田駿河守満栄は、小田原北条時代の氏綱の家臣であり、作延の領主であったと記されている。

円福寺

松伯林天満宮

円福寺境内西側に鎮座する小さな天満宮がある。益田駿河守の発願によると伝わる。この社殿横に、円福寺第31世(鈴木)孝順大和尚が、松伯林塾を開校し、青少年の指導にあたったという碑がある。

園福寺聖観音堂

天満宮の北側に小さな観音堂があり、準西国稲毛三十三所観音霊場の31番札所になっている。

津田山弁財天

国道246号線の津田山陸橋の手前に津田山の住宅地への道がある。その道を少し進むと、北側に小さな祠があり、「津田山弁財天」としてあり、碑が立っている。その概要は、大正2年8月に旱魃があり、この社の洞に立てこもり祈願したところ雨が降ったと記してある。この弁財天が、「武蔵風土稿」にある『弁財天窟  円福寺境内丘林の下にあり、客殿の南 1町余り。神体は4寸許の坐像 洞中常に泉ありて炎暑といえども涸れることなし。』と記されている弁財天であろうか。何時か確認してみたいものだ。

神明神社

南東側の丘に神明神社があるが、その縁起は良く分かっていない。この神社も周囲は民家やマンションに囲まれ、かっての風情は無くなっているものと思われる。

身代り不動尊

国道246号線に近くにある「別挌本山大明王院」・身代り不動尊は、明治37年に移されてきたもので、新年の初詣などの厄除けに多くの人が集まる。

平瀬川の隧道

上作延・下作延の中心を流れる平瀬川は、その源は、宮前区の水沢であり、多摩川に合流する短い川である。このため、普段は水量が少ないが、一端大雨になると増水し、中・下流地域に大きな被害を与えてきた。その様子は、「田畑が一面泥沼と化し、平瀬川 の両岸の竹やぶが僅かに水面から頭を出し、梅雨空のうす陽に光っていた」という。このため治水工事が行われ、下作延から溝の口方向に流れていた流路を変え、津田山の下にトンネルを掘り、二ケ領用水と合流させ、多摩川に注ぐという大工事であった。川がトンネルを潜るという珍しい光景だが、先人の苦労が偲ばれる。
しかし、今、このトンネルの老朽化が問題になっている。一部住民の反対運動もあるようだが、対策が必要だ。

平瀬川の下作延側入り口

平瀬川久地側出口と二ケ領用水(右側)が合流

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