海外の技術者育成(平成11年)
いい仕事だったのに、風当たりは強かった

バブルの頃、労働者不足が顕在化した。
3K職場(きつい、きけん、きたない・・・etc)という言葉もできた。製造業で、大幅な従業員不足が発生していた。
(本来なら、この頃から、日本のものづくりの将来について、真剣に考えるべきだった)。

社会的な要請を受けて、東京都では、海外からの研修員を募り、これを民間企業に託して、技術研修を行うという事業を始めた。これが「海外人材育成協力事業」である。
システム担当を離れた私は、今度は、外国人担当になった。
コンピュータが使えないのにシステム担当、今度は、英語も話せないのに国際交流か・・・、思えばミスマッチばかりだ。

************

事業はもう何年間もの実績があった。
都でも、当初の事業実施にあたっては、何かとトラブルが生じたもようだ。

受入れ先の中小企業の本音は、きつい仕事も嫌がらずにやる外国人労働力を確保することだった。
しかし、都がこの事業に求めたのは、技術先進国の首都「東京」において外国の若者が技術を学ぶことによって、両国の信頼を高めることだった。

事実、そうした成果の実例も散見された。
帰国してから開業した研修員が、会社の名前を「MURASAKI」サービスとした。MURASAKIとは、東京都の色である江戸紫のことだ。
受け入れた研修員を軸にして、海外に支社を立ち上げた会社もある。

************

選ばれてくる研修員は、国の名誉を背負っての技術研修という認識になる。
日本の首都・東京の地方政府自らが仲介をして、企業研修に招いてくれる。これはかなりの厚遇ということになる。
研修員の中には、かなり上流階級の育ちもいる。プライドも高い。
このため、企業側の思惑と、研修員の希望との間の乖離は大きかった。当然、会社との間にトラブルも生じる。
ホームシックにかかって病気になったり、悪い同国人に騙される者も出た。

************

受け入れ先企業の負担も大きかった。
生活費(12万円)は東京都が出すが、住むところは企業が用意することになっていた。
企業では「住み込みで働く」というスタイルが縮小されつつあった。だから寮なども空室が生じ、それを利用させてもらうことにしていた。
マンションなどを借り上げてくれた企業もあった。専任の担当者を付けてくれた企業もあった。
東京では技術面での研修ができないと言って、遠く離れた製造工場での技術研修を取り入れてくれる企業もあった。

この条件で、よくぞ受けてくれる会社があると思ったが、こんな負担の重い事業を、企業の善意に頼ってやること自体、無理があると思う。

お世話になった多くの企業に、こころから感謝したい。
すべての企業名は書けないが、4回以上の受入をしていた会社は、以下の通りである――日野自動車、八幡鍍金工業、東亜設備工業、東急コミュニティ、国際エンジニアリング、日立製作所、エアコンサービス、東京ビジネスサービス、関電工、中川電機、山九重機工、住友建設、明輝、大成建設、文栄社、JESCO、横山表面工業、ジェイ・エイ・ティ・シー設計、大氣社、鹿島建設、富士通、日立製作所、松田金型工業、美八重ドレス。

大企業だけでなく、町中の製造工業なども含まれている。
小さな会社では、ほんとうに家族同様の扱いをしてくれたところも、多い。
せめてものお礼として、後日、私はマンションを買う際に、「管理会社は東急コミュニティーにしてください」と頼んだ。エアコンを買い換える際には、「エアコンサービス」にお願いした。

************

その後、国が「技能実習生制度」を始めた。
おそらくこの制度には、都の「海外人材育成協力事業」が参考にして作られている。
民間企業はすぐに、使い勝手のいい国の制度を利用するようになっていった。
都の制度は、正味半年で、仕事を覚える前に終了してしまう。
国は最大3年間、しかも後半は労働力として活用することも認められている。
国の制度は何かと評判が悪いようだが、「日本を学びたいという海外の青年を招いて、働きながら勉強させる」ことは、ちっとも悪いことではない。彼らを安い労働力としてめいっぱい利用しようとする人たちがいるのが問題なのだ。

国が事業を始めると、東京都としては、自前で事業を実施する意義が問われるようになる。
担当になって「また、リストラかぁ・・・」、と思った。

************

相手先の都市は、姉妹都市である、北京、ジャカルタ、ハノイである。
その頃の記録は、本サイトにも、何本か掲載した(今は出していないが興味のある方があればこちらに載せてある)

鏡に映った日本の姿 ***外国人技術者の研修窓口から***
海の向こうから来た38人~研修員雑感(平成11年度)~
ジャカルタの指導員候補者を迎えて
海外の若き技術者に夢を託して・・・

ここでは、多くを語らない。

************

仕事は大変だったが、幸いなことに、ここで私は、たいへん人に恵まれて仕事をすることになった。

研修員と、ほんとうに一体となって面倒を見てくれたK主査。
気配りの良さでは定評で、その後、都知事の秘書にもなったK主事。
その後任で帰国子女にして語学堪能、今では、管理職として活躍しているK主任(こうしてみると、みんなKさんだな・・・)。
そして、いろいろとご苦労をかけたH副参事。

各人それぞれ対する謝辞を書くことはできるが、ウソっぽくなるので、やめておく。
本当に、ありがとうございました。

************

さて、この仕事で一番の綱渡りというと、オリンピックセンターで行う、開講式と終了式だ。

担当者は4名+アルバイト1名。
この数で、3か国を回す。
式典に出るために、各市の要人が合わせて来日するが、事業の打合せや東京各地の視察などもある。
したがって、3か国×2組=6種類の日程が、同時に動く。

部の応援を求めながら5名で回す。
数日間は、かなりアクロバット的できわどい展開になる。

式典そのものの運営について、担当職員が直接指示する余地はほとんどない(下記の日程表を見ればわかる)。このため、式典自体は、応援係員に全面的に依存する。

かなり詳細な運営プラン、例えば、○月○日○時○分に、応援職員Aは、会場のどこそこにいて、何々をする、といったマニュアルが必要である。このマニュアル作りは大変であった。

************

平成12年6月の受入時の、私の日程を見てみよう。

――第1日―― 成田でお出迎え

夜20:00までに成田に出向き、ハノイを待つ。もちろん日中は都庁で仕事をしている。
20:20 ハノイの代表団と研修員が成田に到着 21:40に送迎バス乗車 22:50オリンピックセンター着
部屋の割り振りと、当座の説明をK主査が行い、23:50客室に移動。
これを確認して帰宅すると、am1:00頃になる。シャワーを浴びて一眠り(実際には、あまりよく眠れない)。

――第2日―― 成田でお出迎え

5:00起床 7:45には成田に出向き、ジャカルタを待つ(気が張っているので、眠いとは思わない)。
8:30 ジャカルタの代表団と研修員が成田に到着 9:30にに送迎バス乗車 11:45オリンピックセンター着 昼食後、当面の日程説明 
13:50 代表団といっしょに、インドネシア大使館を表敬。表敬後、ホテルでチェックインの手続。代表団との意見交換など、この時間帯で行う。
同時進行で別の担当者が、北京の団体をエスコートしている。
18:00 部に担当者が戻った時点で、情報交換、翌日以降の日程確認後、帰宅(ようやく一息つく)

――第3日―― 開講式

8:30出勤。簡単な打合せの後、係員が時間差で、ホテルに向け出発(ホテルは都庁のすぐそばの京王プラザホテル)。私は最後発。
10:00 ホテルのロビーでハノイの代表団と落ち合う。
10:10 代表団が都庁で、労働経済局を表敬。事業の調印式。3つの国はそれぞれ時間をずらして局長と歓談、署名などを行う。その後、生活文化局を表敬。上司と交代して、オリンピックセンターへ急行。
13:30 オリンピックセンターで、担当職員に最終確認。
14:10~16:50 3都市の代表団、研修員が集合して、開講式(研修員はかなり緊張している)。
その後、代表団とホテルに戻り、会食。

――第4日―― 代表団の東京視察に同行。

担当者は3か国に分かれる。
私たちはツアーコンダクターのようなものだ。各国別々にアテンドするので、他の係員がどういう状況にあるのか、まったく分からなくなる。 携帯電話で連絡を取り合うも、だからといって、どうにかなるものでもない。
9:15 ホテルロビーでジャカルタ代表団と合流
11:00~12:00 江戸川技術専門校を見学
14:00~15:00 江戸博を見学
15:00~16:00 浅草を見学
16:00~17:00 秋葉原を見学(お土産を買う。秋葉原はどこの国にも有名)
18:00 新宿に戻り、代表団と会食(代表団も年配なので、かなり疲れている)。

――第5日―― 代表団の帰国。

6:00 ホテルのロビーでハノイの代表者と合流
8:00 成田で朝食
10:00 ハノイの代表団を出国ゲートへ送る
11:00 ジャカルタの代表団を出国ゲートへ送る
15:00 北京の代表団を出国ゲートへ送る。その後、帰庁。

――第6日―― 研修員の研修開始。

9:00 オリンピックセンターで研修員と合流
10:30 研修会場(この年は大磯だった)に向け、研修員といっしょにバスで出発。

担当者は皆、こんな日程で、開講式・終了式をこなした。
終わると、グッタリだった。
でも、仕事は容赦なく、その後も続く。

************

帰国の際も、ほぼ同じような日程でイベントが続く。

来日前に、代表団には日本で何がしたいか、希望を聞く。

「話では、日本に行ったならば、桜を見てこなくてはいけないということだ」という、伝言が入った。
こりゃ、まいった。代表団来日は3月19日、帰国は3月23日。まだ、桜には早い。
代表団来日直前の日曜日、私と担当のK主事は、東京で桜が咲いているところを探し回った。
幸いにも京成上野駅の正面の階段脇の桜が咲いていた。
そこで、代表団の見学コースを迂回させて、わざわざそこで一休みさせ、写真を撮ることにした。
(後になって、都庁の隣の新宿中央公園の桜も、けっこう早く咲くということを知った。まさしく、灯台もと暗しである)

**********

帰国時には、合間を見て、次回の研修員候補者の情報をもらう。
私はインドネシア語がわからないが、その中にある会社の名前を見て、息ができなくなった。受け入れ予定の会社とはライバル関係の企業の現地法人だった。そこで働く従業員が研修を希望している。
急遽、企業の担当に連絡を入れ、「明日までに、それでも受け入れられるか、判断してほしい」と、連絡する。結果は、「難しい」だった。
そして、今度は通訳を介して、そのことを相手国の代表団に伝える。
つらい仕事だった。

**********

研修の途中で病気になる研修員も出る。
インドネシアの研修員が病気で倒れて、飯田橋の警察病院に入院した。
担当のK主査と交代で、徹夜の見守りとなった。
元気になった後に研修員の話だと、「最初に覚えた日本語は“テンテキ(点滴)”」だったそうだ。
帰国の際、見送る私に手を振り、彼は号泣していた。
今も元気でいるだろうか・・・。

**********

研修期間中は、定期的に受け入れ先の企業を訪問した。

また、翌年、受け入れてくれる企業探しに奔走した。
年を追う毎に、受け入れてくれる企業は少なくなった。当たり前だ。
「この事業に協力すれば、都庁から仕事が来るのですか」と、にらまれた。
何年も受け入れてくれる企業が、急に断ってきた。
「どうしてですか」と聞くと、「担当の私は続けたいのですが、上に相談したら、『ウチの生産ラインにはイチョウのマークが並んでいないぞ』と言われてしまった」という。
私の代でこの仕事も最後だな、と覚悟した。

しかし、事業の意義については予算当局も理解を示してくれて、「アジア青年技術者育成事業」として表札を変え、内容も一部リニューアルして残った。
都市間の国際交流よりも、技術者養成という意味合いが強くなった。
このため、企業誘致がさらに難しくなった。その後も2年ほど事業は続いたが、いろいろとトラブルもあって、終了となる。
本当なら、私の代で事業終了とした方がよかったのかもしれない。

わずか2年間だったが、ほんとうにいろんなことがあった。
このとき、企業と研修員の間に挟まれて思い悩んだ経験が、その後、労働相談をやる上で、ずいぶん参考になった。

次のページへ→

自分年代史に戻る→

トップページに戻る→