2000年2月中旬の日常

2000年2月上旬に戻る
2000年2月下旬に進む
最近の日常を覗く


2000年2月11日(金)

 昨日の夜まで、今日が祝日であることをすっかり失念していた。休日一日儲けたような気分である。
 折角の休みなので一人でも件の蕎麦屋まで遠出するつもりだったが、ギリギリになって両親も行くようなことを言い出したので、例によって車に同乗する。その前に乗用車を一台職場の駐車場に移す必要があったので寄り道した。親父がゴルフバックなどを乗せ換えているのを後目に、昨日紛失したCDのスリーブを探す……簡単に見付かった。凡そ想像もしていなかったソファーの上、雑誌の下からちょろっと端っこを覗かせている。何故こんなとこにあるのじゃ、と首を捻りつつ安心した。ついでに本を携帯し忘れたので、仕舞ってある積読の中から一冊抜き出して車に戻る。
 蕎麦屋で帰りに何故か酒粕を頂戴する。私は飲まないからあまり関係ない。親父の希望でその近くにあるユニクロを覗いた。いいのがあれば私も何か買うつもりだったが、ジャンパーが今自分が愛着しているものと殆ど同じデザインでしかも若干質が落ちるのに気づいただけだった。
 帰宅後はひたすらパット・メセニーを聴き続ける。そして迂闊にも『ナウシカ』にチャンネルを合わせてしまい、また最後まで見てしまう。もうほぼ完璧に筋も台詞も記憶しているというのに。

 前々からやろうと思っていた企画のひとつに、『我が最愛の円盤たち』というのがある……要は私が気に入っているCDをざっと挙げてみよう、というだけのものなのだが。しかし一通り纏めるだけの時間が見繕えず、今まで手をつけずに来たのだけれど、ふと思い立ったので、暫くこの日記上で一日一枚ずつ触れてみたいと思う。一応十枚は数えるつもりだが、咄嗟に十枚分名前が出てこないのが実際なので中絶する危険もあるが、ともあれお付き合い願いたい。出揃ったところで別のhtmlに纏めて『音匣』にアップします。なお、順番はあくまで思いついたまま。

我が最愛の円盤たち
1.さだまさし『家族の肖像』  '91.7.25 TECN-28519
収録曲・春/ハックルベリーの友達/ヨシムラ/神様のくれた5分/猫に鈴/October 〜リリー・カサブランカ〜/秋の虹/戦友会/秘恋/奇跡 〜大きな愛のように〜

 やはりこの人から始めないでは。私にとっては原体験に等しいアーティストの一人である。もともと生まれた頃に母親がファンだったため、幼稚園時分には「無縁坂」を空で歌っていたような人間なのだから。ただ、それから中学頃まで繋がりが途絶え、本格的に聴き始めたのは1989年発売のアルバム『夢の吹く頃』以降であった(このアルバムは、服部家三代目隆之氏の本格デビュー作でもある)。ブランクをおいて改めて自らの意志によって聴き始めたさだまさしはしかし、かつて抱いていた印象よりも遙かに逞しく、ハードな歌を歌いこなす優れたアーティストであり、かつてとはまた違った感慨を受けた記憶がある。
 以後は欠かさず聴き続けているさだまさしだが、これ一枚を選べ、となると結構苦しむ。本心を言わせて貰えれば、ここ数年についてはその時点の最新オリジナルアルバムが常に最高傑作である、と感じているのだ。従って現在は、『季節の栖』は特例として避け、1998年発売の『心の時代』を挙げたいのが本音である。しかし、では旧盤はもう聴く必要はないかと問われれば絶対に否だし、例えば1991年の『あの頃について〜シーズン・オブ・レーズン』における円熟したグレープの演奏はかつてのファンにも聴いて戴きたいし、翌年の『ほのぼの』における巨匠・石川鷹彦との絶妙なコラボレーションはファンならずともギター愛好家ならば一度は触れてみるべきだ、と力説したくなるし、更に「修二会」「広島の空」など粒の揃った『逢ひみての』(1993)、京都ものの傑作「鳥辺山心中」と鋭利な表題作が印象的な『さよならにっぽん』(1995)、バラードの大作「流星雨」を含む『夢唄』(1997)などなど本気で挙げ始めたらきりがない。
 その中で敢えてこの一枚を指名したのは、ここ数年で一貫するさだまさしの方向性が、本編を以て確立した、と思われるからである。それまでは季節が混在していた楽曲の並びをきちんと時系列に添わせ、「家族」が形成され壊れてゆくまでを描いて見せたこと。アコースティックギターの露出を高め、剥き出しの旋律を突き付ける一方で、「猫に鈴」のようなポップ調のロック、「October」というバラードの名作、代表曲「主人公」に次ぐほどの人気を一瞬にして確立した大傑作「奇跡〜大きな愛のように〜」までをひとつ処に収め、懐の大きさを示したこと。そして何より、トータルバランスの異常なまでの確かさ。これ以前のアルバムがまとまりを欠き完成度において全く劣る、という訳ではなく、本編のクオリティが抜きん出て高いのだ。
『ほのぼの』以前の作品であるため、近年のさだ音楽に欠かすべからざる石川鷹彦のギターがまだ取り入れられていないのが今となっては惜しまれるが、既にあの柔らかなタッチを希求し始めていたかのような楽曲の組み立てをしていたことも、改めて聞き直すと興味深い点である。ともあれ、これからさだまさしを聴き始めるという方、或いはかつてのファンでありこれから改めてさだまさしを聴いてみようかと考えておられる方には、近作『続・帰郷』とともにチェックしていただきたい一枚である。いいんだから、ホントに。

2000年2月12日(土)

 はじめにひとつお断り。送信フォームなどから戴いたメールへの返信が暫く滞っております。こちらからお願いした用件についても同様の状況となっております。これは深川生来の筆無精がここにきてぶり返している所為です。時間はかかると思いますがおいおい返信させていただきますので、どうぞ気長にお待ち下さい皆様。

『ファイト・クラブ』を見に有楽町まで。途中で秋葉原のソフト屋に寄り、Pat Metheny Group Live『Travels』(ECM)を購入、ついでにGeffen時代のライブ盤『The Road To You』も注文する。――何も言わないで下さい。
 で、『ファイト・クラブ』である。時間帯が昼食の頃合いとかち合っているのでファーストフードでも見繕って劇場内で食べるつもりで小一時間ほど辺りを彷徨くがめぼしいものがなくそのまま中へ。処で、手持ちのチケットは日比谷映画と渋東シネタワー二館のみの指定だが、日比谷映画での上映は既に終っている。代わりに同じ有楽町エリア内のスカラ座で、次の週末まで上映されており、件のチケットもちゃんと通用した――何故か。日比谷映画では現在007の新作がかかっているが、その前は実はあの『シックス・センス』だった。つまり、観客動員数に合わせて小屋が入れ替わったのである。途切れずにそのまま移行したから、先の劇場指定チケットでも入場できた訳だ。上映期間最後の週末という事もあってか、思いの外客足があった。
 肝心の内容は――成る程刺激的。予め原作を読んでいたため、多分他の観客よりは冷静に見られていたとは思うが、文章と映像とでは(特に散文詩的な印象のある原作と較べれば)受ける衝撃は格段に違う。冒頭からタイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)の登場までの導入部分では盛んにCGを駆使し、神経症的な拡大映像や大胆なカメラワークを取り入れ人間や世界を嘲笑的に描写している。タイラーの登場、ファイト・クラブ誕生の辺りからはCGは脇に退き(使用されているにしても補助的に、決して目立たない手法を選んでいる)、人物のアクションを中心にカメラが追う――格闘、というよりも、勝利を目的としているのではなく殴られ生々しい傷を負うことが全てであるから、ナレーターを含め誰一人傷つき血を流すことに無頓着で、映像の暴力描写が苦手という向きにはこの上なく厭な映像が続く。カリスマと化したタイラーのアジテーションの許、クラブはその本質を先鋭化潜伏化させ、行為そのものを理想とし神聖に祀るアナーキズムへと変容させる。激変する状況に追いつけないナレーターは次第に孤立感を強めていき、やがて――とやっているとオチを割りそうなので以下略。
 その暴力的な世界観もさることながら、描写の手法が映画においてはいちいち斬新なものが取り入れられ、映画というものに郷愁や固定観念を切に求めてしまうと戸惑うだろう。次第にタイラーがカリスマ性を帯び情勢が過激化していくくだりなど、クレジットに「ナレーター」と記されたエドワード・ノートンの働きは正しくナレーターで、語義通りのメタフィクションを思わせる辺りなどその最たるものだ。だが、一通り原作をなぞっていただければ、敢えて既成を突き破ろうとするのではなく、物語がそれを望んでいるから斯様な手法を選択したのだ、と解る。血飛沫が舞い、折れた歯を平然と排水溝に流してしまうなど暴力が常態化してしまうストーリーに嫌悪感を覚える人も多い(というか、多分殆ど)と思うが、私は決して悪感情を抱かなかった。見終わり劇場をあとにした際の、奇妙な解放感といったら。
 筋書きから映像描写、ナレーションに至るまでほぼ原作を忠実になぞった本編だが、私が記憶している限り、重要なふたシーンのみ改変が為されていた。タイラー・ダーデン初登場のシーンと、結末である。登場場面は宜なるかな、と感じたが、ラストシーンははっきり「おいおい」と思った。その改変ぶりに対してではなく、展開そのものに対して一瞬戸惑ったのだ――だが、平穏無事とは言い難いまでも或る意味幸福な結末ではあったし、爽快感は格別だったから良しとしよう。少なくとも私は好きだ(やっぱりマゾだなどと言うなよ数名)。特にエドワード・ノートン。『アメリカン・ヒストリー・X』も見てみたいぞ。
 ――余談。その『アメリカン・ヒストリー・X』だが、エドワード・ノートンの弟役(たぶん)をエドワード・ファーロングが演じている。記憶違いでなければ、『ターミネーター2』に出演した子役の筈である。あーまだ健在だったんだねえ、と酷く安心した。何せ向こうの子役は老いやすく滅びやすいからって日本でも同じかそれは。ともあれ成長した姿を一目見ておきたいので、やっぱり時間があったら足を運ぶとしよう……また挫けてしまうような気もするけど。

 では、昨日に引き続き「我が最愛の円盤たち」二枚目をお届けいたします。興味のない方は読み飛ばして下さい。

我が最愛の円盤たち
2. 中島みゆき『歌でしか言えない』  '91.10.23 PCCA-00311(通常盤)・PCCA-00315(APO盤)
収録曲・C.Q./おだやかな時代/トーキョー迷子/Maybe/渚へ/永久欠番/笑ってよエンジェル/た・わ・わ/サッポロSNOWY/南三条/炎と水

 次もまた原体験アーティスト。こちらは親がファンだったのではなく、中学−高校ぐらいに行き来が頻繁だった友人の影響で聴き始めた。時期的には1990年の『夜を往け』以降となる――おお、もう十年も聴いていたか。「仮面」などによって「暗い」という従来のステレオな印象を払拭されてから、初めて真面目に聴いてみようと思ったのである。
『夜を往け』以前のものは未だに購入していないものが多く、それでも私にとってはさだまさし同様これ一枚、というのがちょっと選びにくい。結局本編を採ったのも、トータルバランスの絶妙さと現在に至る作風が確立されたから、という『家族の肖像』とほぼ同じ理由に拠る。楽曲ひとつひとつの出来で言ったら翌年の『EAST ASIA』に匹敵するものはない(『誕生』『二隻の舟』に結婚式に使える唯一のみゆき歌曲『糸』まで収録されている)し、幻と言われ続けた旧作も録音し直して収めた『時代 〜time goes around〜』、楽志さんとこのサイト名に使われたことでも著名な『パラダイス・カフェ』、またバランス感覚の確かさでは本編にも比肩しうる『私の子供になりなさい』(この題名は『Be My Baby』のもじりだとずーっと思っているのだが……?)等々、何れも無視できるような代物ではない。
 だが、たった一枚の中で旧来の作風も今後に繋がる表現手法をも包括してしまった本編こそ中島みゆきのベストだと信じて疑わない。打ち込みを最大限に活用した『C.Q.』、海外録音によって当地のアーティストを引っ張りゴスペルのようなテイストをも感じさせる『おだやかな時代』、シンプルなギターと常ながらのみゆき節が光る『トーキョー迷子』、訥々と諭すような歌詞に真骨頂の見える『永久欠番』、海外アーティストを中心としたバンド編成で歌としての説得力が圧倒的な『南三条』……のちのアルバムのように突出した出来のものはないが、水準以上の佳曲が居並びそれでいて粒が揃っている。また同時に、この一枚によって編曲担当・瀬尾一三とのコンビネーションも完璧なものとなった。
 これから初めて中島みゆきを聴くという方には、旧作の何れを選んでもいいし、単純に最新作『月』『日』を手にして貰ってもいい(ただ、この二枚は初心者にはあまり勧められないように私は思ったのだが)。しかし、何を選ぶにしても二枚以上買うのであれば必ず一枚はこれを選択して戴きたい。それ程に、トータルコンセプトとしては傑出したアルバムである。
 因みに個人的にお気に入りの一曲は先に挙げた何れでもなく、小品的な味わいのある『笑ってよエンジェル』だったりする。歌詞の語調からすると視点は男の側にあるのだが、何故だか中島みゆきの歌いぶりが妙に可愛い。

 唐突ですが探してます鏡明『不確定世界の探偵物語』(トクマノベルス)。以前謎宮会での葉山響さんの記事を拝見して読んでみたいと漠然と思ってはいたのですが、ちょっと訳あって早めに読む必要を感じております。初版重版汚れや帯の有無など気にしませんので、ダブっている方情報をお持ちの方、送信フォームなどからご連絡いただければ有り難いです。自分でも探すつもりですが、手前の古書の探究能力には大いに疑問がありますので……。

 ……あ、まだ東野圭吾『むかし僕が死んだ家』の書評書いてなかった……。


2000年2月13日(日)

 怠惰。堕落。昼飯カップ麺。読書もした覚えなし。延々とPat Metheny Group『Imaginary Day』を聴き続ける。『the roots of coincidence』が好きだー。攻撃的なギターのリフレインといい多用された打ち込みといい殆どハウスミュージックのリミックス版の存在といい、ジャズという括りもフュージョンという定義も当てはまらないような気はするが。

 ……で終らせるのも非常にあれなので、先ず宿題になっていた東野圭吾『むかし僕が死んだ家』(講談社文庫)の書評を仕上げ、更に一昨日からのシリーズ「我が最愛の円盤たち」も何となく続けてみる。

我が最愛の円盤たち

3. THE ALFEE『U.K. Breakfast』
 原体験アーティストその三。アイドル時代(最初はそーいうふうに売られていたのだ)を含めると実に26年のキャリアを持つ、ニューミュージック界の雄……という呼び方は当たらない。殆どのアーティストがそうである以上に、彼等の音楽はカテゴライズが困難である。アイドルとしての挫折からライブ時代を経て、再デビュー後暫くはアコースティックサウンドを基調としたフォークスタイル、のちにシンセと高見沢のエレキギターをフィーチャーしたロックサウンドに移行し、このアルバムに次ぐ『DNA Communication』からはプログレッシブへと変遷を重ねている。では一ジャンルに定住しない浮ついたサウンドなのかというと、ちゃんと芯は一本通っているのだ。その「芯」を説明するには、やはり「彼等の音楽は彼等にしか為し得ない」――THE ALFEEの属するジャンルはTHE ALFEEである、と言うしかない訳だ。
 今回彼等のアルバムから一枚選ぶことにして、本盤と『夢幻の果てに』の何れを採るかでかなり迷った。『夢幻の果てに』は1995年発売、THE ALFEE流プログレッシヴの頂点に達した傑作であり、1969年をテーマにした作品の最高傑作『幻夜祭』やジャズの風味も添えた『冒険者たち』など聴き応えのある一枚である。そこまで誉めておいてこっちを採ったのは、一曲一曲の精度で優れていること、それ以前のスタイルを総括し次の方向性を示唆する内容になっていること、あと一番大きいのは、私が初めて聴いたアルバムであり色々と思い出深い一枚であることだ。
 題名通り全曲ミックスダウンをロンドンで行い、楽曲のイメージも全体にシックな色合いを伴っている――と言っても『Stand Up, Baby』や『クリスティーナ』のように弾けまくった曲も当然あるんだけど。ともあれ作風の安定とそれまでの積み重ねが生んだ貫禄で、安心して聴ける作りになっている。楽曲単位では『Far Away』、『1月の雨を忘れない』、『It's Alright』、『My Truth』辺りがいい。『ROCKDOM』から連綿と続く1969サーガ(調べてみたら、このフレーズが初めて現れたのは『ジェネレーション・ダイナマイト』でした)に連なる一曲・『終わりなきメッセージ』も、例によって歌詞は直接的に過ぎるのだが、恐らくキャリア中で一番声質の安定した時期に入っていたであろう高見沢のヴォーカル、外部コーラス(坂崎の後輩だ)を取り入れながらも押しつけがましさがない演奏とアレンジなど、侮りがたい佳品に仕上がっている。アルフィー流プログレの魅力を満喫したいのであれば『夢幻の果て』か最新の『orb』をお薦めするが、サウンド全般の安定感ではこれに勝る出来のものはないし、恐らく今後こうしたアルバムを出すことは先ず有り得ないと思う。アルフィーの一時代を画す音源として貴重な一枚、と断言しよう。

THE ALFEE HOME PAGEはこちら


2000年2月14日(月)

 届けられるデータの体裁が一貫していないのはどうにかならんもんだろうか。どっちにしても写真のデータはすべてこちらでスキャンしたものに貼り替えたが。

 今月から『Jazz Life』(立東社)の定期購読を始めた。初っ端から表紙がPat Methenyである。 ……にしても、本当にむさい親父なんだよな、こうして見ると。
 記事そのものは、今月23日に日本盤が発売されるPatのギター・トリオ・アルバム『トリオ99>00』を中心に、パット自身のギター・トリオの変遷や各ジャンルのギタートリオの歴史について触れたもの。パットはこれまでにデビューアルバム『Bright Size Life』、『Rejoicing』、Geffen時代の『Question and Answer』と三枚のギター・トリオアルバムを発売している――あ、念のために説明しておきますと、ギター・トリオとはギター・ベース・ドラムという編成を主に言います――のだが、一枚一枚に時間的な隔たりがあり、メンバーも一貫していない。プレイヤー同士のコラボレーションが多いジャズの世界では珍しくないことだが、その辺りの事情や意図をパットが仔細に語っている。詳しく書いてもファン以外には面白くないだろうから、あとは省略。興味があったら記事そのものを御覧下さい。しかし専門誌を買い始めるとパット以外のものも際限なく聴きたくなってくるな。

 帰途にバイト先に寄ると、社長の姿はなく代わりに奥さんがレジに立っている。慣れないものだから常に他の誰かが一緒にいるのだけれど。しかし、これはいよいよ辞めづらくなってしまったかも知れない、と思う。買ったのはハードカバーで買いそびれた二階堂黎人『名探偵 水乃サトルの大冒険』(トクマノベルズ)と漫画一冊――はっきり書きます種村有菜『神風怪盗ジャンヌ(5)』だ。正直かなり痛くなってきたのだが読むのを止めるほどではないしある種の才能は未だに感じるので継続してます。ちゃんと着地してくれるのか、まるで子を見守る親のような心境で。

『屍鬼』『四十七人の刺客』『どすこい(仮)』と順序の決まった読書、今月内に仕上げると決意してしまった某仕事、そして某所のトップページ及び受け持ち部分の製作など、気懸かりが山積みのため当分日記が淡泊になるであろうことを予期し、その埋め草代わりに反響がないにも関わらず続けている「我が最愛の円盤たち」シリーズの第四弾。一応何を挙げるかは予め決めてあるのだが、データになるべく正確を期そうとサイトを探したり手持ちのCDや資料を当たったりしていると却って時間を食ってしまっているような気がする。また自滅してないか私。――まあ、好きなものを人に薦めるのはなかなか楽しいので(嫌いなものを徹底的に論理的に貶すのも楽しいが)、可能な限り最後まで続ける所存です。お付き合い下さい。

我が最愛の円盤たち
4. 桑田佳祐『Keisuke Kuwata』
 いきなり趣味的である。サザンオールスターズは1985年のアルバム『KAMAKURA』及びそれを軸としたコンサートツアー終了と共に休養に入り、1990年の復帰まではメンバー各自がソロ活動を活発に行っている。桑田佳祐も翌年KUWATA BANDを結成、七月に発売された「助平」もとい「SKIPPED BEAT」をヒットさせている。KUWATA BANDは更にその翌年には解散、渡米を経て今度は単独名義になるシングル『悲しい気持ち』をリリースした。本盤はそれと『いつか何処かで』の二枚のシングルをベースに製作された、桑田佳祐初のソロアルバムである。
 サザン名義の楽曲に見られるような卑猥さ、躁的な表現は確かにあるのだが、英語詞を大幅に取り入れ、ジャズにも似た色気を漂わせる楽曲、のちにMr, Childrenのプロデュース及びアレンジで一躍有名となる小林武史を中心としたバンド編成に捕らわれない編曲など、意識的なのかはたまたグループという軛が外れた所為なのか、羽目を外したと形容したくなるサザンでの楽曲と比しても更に(当時としては)趣味的な印象が濃い。当時テレビ番組で桑田自らが発言したところに拠ると、このアルバムはかなりの難産で収録に長い時間を費やし、桑田はタイムカードを作って貰ってスタジオへの出入りを管理されていたという――今思うと多分に冗談交じりではあったが、苦心作であったことは間違いない。実際の売れ行きがいかほどだったのか私は知らないが、少なくともここに一人熱心なファンを生むほどには優れたアルバムである。発売当時にカセットで購入し擦り切れるまで聴き込み、数年を隔ててCDで買い直したほどなのだ。
 収録曲にお気に入りは多い――というより殆どの楽曲が好きなので、やや劣る、というものを挙げた方が手っ取り早い。先行発売されたシングル二枚(この二枚はカップリングの英語曲も絶品。後年発売されたソロベストアルバム「フロム・イエスタディ」に収められているので気が向いたらどうぞ)は無論のこと、シングルカットの噂があったのに結局流れたらしい「Blue 〜こんな夜には踊れない」「遠い街角(The wonderin' street)」もムーディでいいし、ストレートなロックぶりが頼もしい「哀しみのプリズナー」「ハートに無礼美人(Get out of my Chevvy)」も聴き応えがある。奇妙な味わいのある「路傍の家にて」「Dear Boys」「Big Blonde Boy」、後年の幾つかのシングルにおける諧謔性を予告する「愛撫と殺意の交差点」、そして「今でも君を愛してる」「誰かの風の跡」という真っ向切ったバラードも捨てがたい――ほら結局全部挙げることになってしまった。全曲に遊び心を讃えながら作りとしては僅かにも忽せにしたものがない。流石にしょっちゅうは聴かないが、毎年夏頃になると思い出したようにラックから取り出し、何年経とうと印象が古びることがないという希有な一枚。

 Southern All Stars公式サイト「STANDOOH! AREEENA!! C'MOOOOON!!!」はここ。


2000年2月15日(火)

 パット熱意未だ冷めやらず。仕事中も待機中も休むことなくパット・メセニー漬け。今日はバイトの時間まで延々と『Still Life (Talking)』を聴き続ける。ジャコのベース目当てだった『Bright Size Life』、勢いで買った『Jim Hall & Pat Metheny』を例外として、凝り始める最初に買ったCDがこれだったので、気分は原点に戻ったようなもの。いつものようなスピーカーやヘッドフォンではなくイヤフォンで聴いていたのだが、だからなのか或いは普段より集中力が高まっていた所為なのか、今まで気づかなかった細やかな工夫や音の構成に気づき、改めてその完全無欠な麗しさに打ちのめされる。冒頭の「ミヌワノ(68)」のイントロはてっきりピアノとベースのみで演奏しているのかと思っていた(その後暫くして男声のコーラスが加わる)のだが、実際にはパットのナイロン弦ギターがピアノと同じ旋律を奏でていて、目立たないながら微妙なアクセントを添えているといった具合に。そう気づいてから注意深く聴くと、『Still Life』というアルバムは全編に於いてナイロン弦ギター(多分フラメンコではなくクラシックだと思う)が主旋律や伴奏の背後で微かに鳴り、独特の味付けを施しているのである。Pat Metheny Groupでは大半の楽曲がパットのフルアコを前に押し出した構成となっており、彼等がダビングを繰り返して重厚な音作りをしているのは解っていたけれど、よもやメインである筈のパットのギターを細かなアクセントとして利用しているなどとは思ってもみなかった――所詮思い込みであり、彼等の完全主義ぶりを見れば子供じみた自己主張のみで編曲する筈などないと理解できるのだけれど。新しい発見は、例え自分の不見識の発覚であったとしてもそれなりに嬉しいものらしい。

 やはりバイト先の社長は療養生活に入ったらしい。随分前から明らかに体調を崩されていたので、こちらとしては漸く観念したかと一安心しているのだが、大きな一人分の人手が当分の間欠けることになり、店ではローテーションや仕入れの車の移動についてなど、様々な問題が噴出しているらしい――気懸かりは気懸かりだが、最早週一回きりの便利使いアルバイトと化した私にあれこれ口を挟む権限はない。取り敢えず私にとって差し迫った問題といえば、代わりに店番などに加わるようになった社長の奥方がどのくらいで仕事に慣れてくれるか、ということだ――慣れてくれなきゃ疲れるのは廻りにいる私達の方な訳で。
 という訳で久しぶりに疲労困憊。早めに寝ます。文章を組み立てる時間がなかったので、今日は「円盤」もお休みさせて下さい……眠いぞ畜生。


2000年2月16日(水)

 ――昨晩の疲れが尾を引いた。未だに引いている。ねむねむ。

 パット・メセニーに『Question and Answer』という名曲がある。ディスクを入れ換え差し替え聴き続けている所為で、レベルの高い曲はぼちぼちリフレイン辺りがふとした拍子に耳の底で鳴り響くような状態になってきたが、この『Question and Answer』という曲は手持ちのCDの中に二つのテイクが存在し、どちらも名演なのだが、頭の中で鳴らすときはどうしても一方に制限されてしまう――というのも、一方はパット(g)にデイヴ・ホランド(b)、ロイ・ヘインズ(ds)というギタートリオ編成であるのに対し、もう一方はこの三名にゲイリー・バートン(vib)、チック・コリア(pf)という二人のオフェンス的スタープレイヤーを加えたカルテットで演奏している。トリオ編成での演奏は終始パットが演奏を引っ張り、渋い味わいがあるのだが、カルテットでは冒頭から主旋律をゲイリー・チック・パットの三者が奏で、入れ替わり立ち替わりリード及びソロを担当しており、その絢爛ぶりは演奏技術の確かさと相俟ってアコースティック五重奏というシンプルな編成であることを失念させるぐらいの迫力に満ちているのだ。困るのは、基本的にパットは双方のテイクで同じようなフレーズを奏でており(表現の仕方は違う。不確かだが恐らく使用しているギターも別のものだろう)、だからトリオの方の演奏を思い出そうとしても、気づくとエレキギターが奏でるイントロのリフレインの向こう側で、ゲイリーのビブラフォンが、チックのピアノが鳴り響いている始末。一旦両者の伴奏が聴こえてしまうと、自然と暫く先にあるビブラフォンのソロパートに突入してしまい、クインテットによる演奏が耳の奥で続いてしまう。お陰でトリオ版の『Question and Answer』でパットがどんなフレーズを奏でていたのが、実際に聴くまで思い出せなくて結構困る。
 しかしここで一番問題なのは、聴き始めてふた月程度でそこまで入れ込んでしまった自分がいることだとも思えるのだけれど。ミステリは何処に行った。今日もPat Metheny『80/81』Pat Metheny Group『First Circle』(ともにECM)を購入してしまう。帰宅し、冷静に考えて漸く気づいた。あと一枚でECM時代のリーダーアルバム完全制覇だ(単独名義のトリオ・アルバム『Rejoicing』のみ)。しかも、買い物に行ったのは午前中のことなのだが、そのあとになって注文しておいたGeffen時代のライブ盤も入荷したらしい。私の記憶に間違いがなければ、Geffen時代のものも件のライブ盤を含めてあと四枚しかない(オーネット・コールマンとのセッション『Song X』と未だに読み方のよく解らないサントラ『Passaggio per il Paradiso』、ゲフィン最後のスタジオ録音『Quartet』、そして注文しておいた『The Road to You』――コラボレーション等で他のレーベルから出たものは省く)。……莫迦か私は。
 処で『First Circle』というアルバムは、PMG(Pat Metheny Groupの略。公式に使われてます)現行メンバー四名が初めて揃って製作したアルバムであり、また一連のヴォイス担当アーティストの中でも異様に評価の高いペドロ・アスナールが参加した作品でもある。多分ペドロのヴォイスを聴くのはこれが初めてだが、確かに噂に違わぬ美声と表現力である。その後のマーク・レッドフォードやマイク・ブレイマイヤーズがいけないと言っているのではない。だが、二人があくまでもグループの変化し続ける音楽性を丁寧にサポートしているのに対し、このアルバムはペドロのヴォイスがなければ為し得なかったであろうとすら感じられる作り方をしており、マークらにはない圧倒的な存在感が漂っているのだ。しかしペドロはその後、ECMとGeffenとの過渡期に発表された映画サントラにのみ参加しただけで、以後はソロ活動に専念している――レコーディングにおける参加期間は非常に短い。勿体ない、という口調で語る評論家が少なくないのも宜なるかな、という気がした。

 ……しかしこんなことを長々と書くから「濃い」と言われるのかな。いいけど楽しいから。

 たまにはミステリの話――というかMYSCONの話題である。本大会では参加者が各自一冊ずつお薦めの本を持ち寄り、それを十名程度のグループを組んで交換する、というイベントがあるのだが、これに持ち寄る本の選択で今かなり迷わされている。誰も読んでいないようなもの、というのは設定自体に無理があるので既に考えてはいない(つまりちょっとは考えたのだが)。だが、いざこれ一冊、と選ぶ段になるとどうしたって迷う。元々読むことが好きでミステリファンをやっているような人間なのだ、好きな作品が一作や二作で済む筈がない。また好きな本=人に自信を持って薦められる本、という訳でもなく、その辺りの匙加減がこれまた難しい。加えて私は「なるべく新刊書店で入手できるもの」を絶対条件にしているので(だって折角薦めるのだから綺麗な本で読んでいただきたいじゃないですか――私自身は新刊でも古本でも頓着しませんが)、過去のレアな作品は採用出来ない。
 それでも試行錯誤を繰り返しているうちにある程度は絞れてくるのだが、所詮ある程度であって一冊に決まる訳もない。候補作品を書き手の名前のみ挙げていくと、宮部みゆき、綾辻行人、土屋隆夫、岡嶋二人、井上夢人、島田荘司、鮎川哲也――メジャーどころが並ぶのは仕方がないにしても、まだこれ一冊、には遙か遠いという現状。特に綾辻、島田、鮎川で選んだ一冊なんか、かなりの方が読んでいそうだしなー。悩む。

 ――しまった、今日も「円盤」のテキスト、用意し損ねました。明日以降です。『屍鬼』の続きが気になってきたので本読みます。まだ500頁近くあるぞう。


2000年2月17日(木)

 まず昨日の記述について一点訂正。PMGのアルバムにおけるペドロ・アスナール参加作品は他にもありました。『Letter from Home』(1989)とライブ盤『The Road To You』(1993)。前者にはペドロが詞を付けた『Dream of Return』という名曲があるとゆーのに何故失念していたのやら。

 10時半までにはデータ入稿があるというので彷徨もせず黙々と読書を続けていたら気づけば11時半。一時間は一体何処に行った。昼前に届いたデータをさっさと出力し、あとはひたすら頁を繰り続ける。他のことは目に入らずと言うか意識の蚊帳の外に置いた。相変わらず散発的に入ってくる仕事を片付けながら漸く小野不由美『屍鬼』(新潮社・上下巻)を読み終える。登場人物一人一人を綿密に組み立て物語上に配し、ちゃんとクライマックスですべてを回収して見せた手管はお見事。色々考えさせられたことはありますが詳しくは後日、「書斎」の方で扱うつもりです。ちょっとだけ個人的な感慨を吐きますと、……これ、映画化するなんて言い出す奴居るだろうな絶対。その場合の楽しみ方は、制作者がエピソードの何れに的を絞りどの程度の尺で構成するかだろう。誰を中心に持ってきて誰をカットして、などと想像を逞しくすると暫く遊べます。

 読書を終えた段階で職場は閉まっていたのでとっととて帰宅。常のようにバイト先によって漫画数冊と折原 一『耳すます部屋』(講談社)を購入し、自宅に荷物を置いて再び外出、またもCDを買い込む。注文してあったPat Metheny Group『The Road To You』Pat Metheny & Ornette Coleman『Song X』(ともにGeffen)、そしてJohn Scofield & Pat Metheny『I Can See Your House From Here』(Blue Note/東芝EMI)以上三枚。ECM時代で唯一未購入の『Rejoicing』は輸入盤のみ置いてあったのだが、ここまで日本盤で揃えてしまった意地があるので回避した。
 先日人の薦めに従って入手した雑誌『ジャズ批評』のパット・メセニー特集号によると、パットと彼にとって往年のアイドルであるオーネット・コールマンの競演作『Song X』はかなり渋い出来のように書かれていて不安を覚えながらトレイに載せたのだが――そうでもない。まだ三曲しか聴いていないが、評者が問題にしていたであろう長尺のフリー擬き『Endangered Species』は三曲目であり、確かにプレイヤー各々が感情の赴くまま掻き鳴らし吹き飛ばし叩き出す様はかなり暴力的だが、どれ程熱狂的に聴こえようと守るべき線は守り通している辺りはスリリングで、それだけでも聴き応えは充分にあると思った……少なくともこないだのあれよりはずっと楽に聴けるって。
 真面目にテレビを見てしまったため未だ一枚半しか聴いてません。明日じっくり。そして今日も「円盤」を用意し損なう。

 ――パット日記かこれ。


2000年2月18日(金)

 昨日まで棚卸し及び内部整備で休館していた某ファッションビルを訪れ、ジェフリー・ディーヴァー『静寂の叫び(上)(下)』(ハヤカワ文庫HM)田中芳樹他『チャイナ・ストーリーズ 黄土の虹』(祥伝社)を買う。後者は芦辺さんの短編目当てである。現在のノルマが消化でき次第芦辺作品のコンプリートを目指すつもりなので、その終わり頃に読む予定。もう無理に新刊のうちに読もうとするのは止めた、というか端から出来ねぇよというか。そのあとバイト先に寄って漫画本ばかり数冊、更に行きつけのCD屋で、遂に、とうとう、Pat Metheny『Rejoicing』を注文してしまう。間もなくECM時代のディスクが揃ってしまう。どひゃああ。但し、懸案だったPMGによるサントラ『The Falcon and The Snowman』は、どうやら国内版は発売されていないらしいと判明した。明日にでも別の店でもう一度確認してみるつもりだが、最終的には輸入盤で我慢するしかあるまい。

 ……あれ? 色々ネタがあったような気がしたのだが、小野不由美『屍鬼(上)(下)』(新潮社)の感想と「円盤」の原稿を書いているうちにすっかり忘却の彼方に消えてしまった。ま、いいけど。明日思い出したら書くことにします。ともあれ久々の「円盤」、気が向いたら御一読下さい。そのうち全部別ファイルに移します。

我が最愛の円盤たち
5. 矢野顕子『LOVE LIFE』

これでいいのだ
〜「BAKABON」より〜

 丁度この当時はFMの深夜番組などをよく聴いていた。漠然と聞き流していたCMの中で、ふと奇妙に耳を惹くメロディーとフレーズに出会ったのである。
 バカボンのママ、バカボンのパパ、たかめられたしあわせ、バカボンのパパ、バカボンのママ、つよめられた約束……
 それは矢野顕子のライブに関するCMであり、問題の歌詞は当時最新のアルバムであった本編から採られていたことを知った私は、翌日直ぐさまレコード屋に馳せ参じ、明らかに問題のBGMと思しいタイトルを含んだディスクを見つけ、迷わず購入した。これが私とやの音楽との出会いであり、同時に目下極端な填り方をしているパット・メセニー音楽との初めての邂逅でもあった――今にして思えば。

 アルバムの内容に触れる前に矢野顕子について簡単に紹介しておく。三歳の頃からピアノを習い始め、高校初期からジャズに親しむようになり、その頃からバーやジャズ喫茶で仕事としてピアノを弾いていたという。風評を聞きつけた本職に誘われてレコーディングやライブにも参加するようになり、編曲家・矢野誠と結婚(1979年に離婚、1982年に坂本龍一と再婚)・長男を出産後にソロアルバムを制作、1976年にデビューの運びとなった。活動は多岐に渉り、YMOのワールドツアーにも参加している。1988年に主婦業専念のための休養を挟み(復帰後初のアルバム『Welcome Back』がPat Methenyとの初共演だった)、1990年にアメリカ移住、ほぼ同時期にレコード会社を従来のMIDIからEpic/Sonyに移した。移籍後初めて、本格的なNY録音によって制作されたのがこの『LOVE LIFE』である。
 何枚も聴くようになってよく解ったことだが、矢野顕子の楽曲は日本のポップスと呼ばれるジャンルの中にあって異様にレベルが高い。メロディラインにしてもアレンジにしても、演奏にしてもそう。洋楽至上主義という訳ではないが、現実に日本のポップスは未だ海外のスタイルを模倣・或いは踏襲しているに過ぎず、それを是とするならば矢野顕子ぐらい完成されているアーティストは稀だ。先述の『Welcome Back』以降はその傾向が顕著となり、拠点をNYに移した本作ではより研ぎ澄まされた。『Welcome Back』に引き続きPat Methenyが後半の三曲に参加し、変幻自在のギタープレイを披露している(特に「愛はたくさん」の演奏は彼のアルバム曲と較べても遜色がない)他、Will Lee(b)、Nana Vasconcelos(per)、Steve Ferrone(ds)らのジャズプレイヤーが参加、技術面での底上げが図られている(単純に演奏技術のみで言えば、先んじる『Welcome Back』の方がハイレベルではあったが)。他にもホーン・アレンジをピアニストのGil Goldstein(のちにシングル「すばらしい日々」などで演奏にも加わり、コンサートツアーでもキーボードを担当した)が行ったり、近年のアルバムではよきパートナーとなるプロデューサーのJeff Bovaがパーカッション部分の編曲を請け負ったりと、後年の活動への布石とも感じられる配役ぶりが垣間見える。
 お薦めの楽曲は、深川の購入の契機ともなった「BAKABON」に、のちに続編の作られた「湖のふもとでねこと暮らしている」、そしてパット・メセニーが参加した後半の三曲「いいこ いいこ」「愛はたくさん」「LOVE LIFE」。このうち「いいこ いいこ」はのちに発売されたベストアルバムにも、本盤から唯一収録されている。但し、個人的に一番のお気に入りは「スナオになりたい。」だ。「春咲小紅」以降作詞面で矢野と名コンビになっている糸井重里の詞が素直ながら侮り難く、メロディラインの淡い切なさや甘酸っぱさが絶妙。ベストアルバムに採られなかったときは軽くやさぐれたが、いいもん一人で堪能してるから。
 因みにPat Methenyファンとしては、本文で何度も名前を挙げた前作『Welcome Back』収録の「"It's For You"」も強くプッシュしておきたい。パットと相方のLyle Mays両名併記で発売されたアルバム『As Falls Wichita, So Falls Wichita Falls』に含まれる同名曲のカバーだが、主旋律を矢野顕子がスキャットで歌い、矢野自らのピアノにパットとCharlie Haden(b)、Peter Erskine(ds)という豪華な面々がバックを固め、一同のハイレベルな演奏によるオリジナルにない疾走感が快い上質のテイクである。後半でのパットのソロ演奏もECM時代の瑞々しさを漂わせて美しい。矢野・坂本龍一コンビの編曲センスの確かさ、また矢野顕子の表現力の凄まじさをもこの曲で体感していただきたい。

 ロエ蔵さんの『ミステリ系BBS更新されてるぜ!リンク』が不調の模様。多分サーバーが過負荷か何かで動作不良を起こしてCGIが巧く動かなくなったからではないかと思うのだが。いちいちチェックして廻るのが手間な時はとても御世話になっていたため、ちょっと不便な想いをする。早い復旧をお祈りいたしましょう。


2000年2月19日(土)

ECM Days:
 Pat Metheny 『Bright Size Life』 1976
 Pat Metheny 『Watercolors』 1977
 Pat Metheny Group 『Pat Metheny Group (邦題:想い出のサン・ロレンツォ)』 1978
 Pat Metheny 『New Chautauqua』 1979
 Pat Metheny Group 『American Garage』 1979
 Pat Metheny 『80/81』 1980
 Pat Metheny & Lyle Mays 『As Falls wichita, So Falls Wichita Falls (邦題:ウィチタ・フォールズ)』 1981
 Pat Metheny Group 『Offramp』 1982
 Pat Metheny Group 『Travels』 1983
 Pat Metheny Group 『First Circle』 1984

Geffen Days:
 Pat Metheny & Ornette Coleman 『Song X』 1986
 Pat Metheny Group 『Still Life (Talking)』 1987
 Pat Metheny Group 『Letter from Home』 1989
 Pat Metheny with Dave Holland & Roy Haynes 『Question and Answer』 1990
 Pat Metheny 『Secret Story』 1991
 Pat Metheny Group 『The Road to You』 1993
 Pat Metheny 『Zero Tolerance for Silence』 1994
 John Scofield & Pat Metheny 『I Can See Your House From Here』 (BLUE NOTE/EMI) 1994
 Pat Metheny Group 『We Live Here』 1995

Warner Bros. Days:
 Pat Metheny Group 『Imaginary Day』 1997
 Gary Burton with Chick Corea / Pat Metheny / Roy Haynes / Dave Holland 『Like Minds』 (Concord Records/Universal Victor) 1998
 Jim Hall & Pat Metheny 『Jim Hall & Pat Metheny』 (TELARC/Polydor) 1999
 Pat Metheny 『A Map of the world』 1999
 Michael Brecker 『Time is of the Essence』 (impulse!/Universal Victor) 1999

 …………何だと思います? お解りでしょうが、私がパット・メセニーに填ってから購入した彼絡みのCD全部(厳密には『Bright Size Life』と『Jim Hall & Pat Metheny』は例外ですが)。今、机上にずずいと並べてあります。壮観です。先日も記したとおり、ECM Daysはあと一枚、注文した『Rejoicing』の入荷を以て、パットのリーダー作についてはコンプリートとなります。Geffen Daysについても、サイドメン作品をカウントするときりがありませんが、リーダー作はあと三、四枚しか残っていない筈です。もう、何と申しましょうか、もう……

 ははは、PS2注文してしまった、インターネットで。混雑の中悩みに悩んだ挙句、注文ボタンを押す。ちゃんと商品を用意してくれるなら当日に着きます。これで四日心置きなく大阪に行……くのか? 大丈夫なのか? 何にしても、これでDVDを見るためにいちいちPCを起動する必要も、ドライブを開ける必要もなくなるのである。――ゲームは、きっと当分先のことだ。

 日中は買い物に出掛けた。行きつけの店が駅前に置いていた売場を建物老朽化のために閉鎖していたことを初めて知る。まあ確かに突っついたら崩れそうな気はずっとしていたけれど、まさかこうもいきなり閉店するとは。その元店舗から100m足らずの処にある店舗に商品を移したため、今まで二分されていた客層が詰めかけて午前中にもかかわらずかなり混み合っていた。人いきれの中をあちらへこちらへと動き回ってゲームを物色するが決定打に欠き、時間制限に縛られて結局何も買わぬまま帰宅した。『ときメモ2』、やるだけはやってみたいような気がするんだけど、……むー。

 休日をどうも無為に過ごしがちである。まずはとにかく『四十七人の刺客』を読み終えて、『どすこい(仮)』に着手できる状況を作っておきたい。その後はペースを見極めながら、懸案に取り掛かる。明日開催の「UNCHARTED SPACE」10万Hit記念オフに参加するか否か随分迷ったが、今月中はもう遊んでいられる状況でもなさそうなので結局辞退した。そもそももうあまし金ないねんもん(日中のあれはポイント蓄積分で何か買うつもりだったのです)。


2000年2月20日(日)

 今日の『特命リサーチ200X』で扱っていた幼児虐待の連鎖現象に関するリサーチは、東野圭吾『むかし僕が死んだ家』で触れていたのと殆ど同じだった。つまりあのデータはそんな目新しいものではなかった、という訳やね。例によって脳内現象から解明しようとしていた辺りが着眼と言おうかいつも通りと言おうか。最近毎週脳味噌のCG見せられているような気がしますが。

 小林亜星氏の敗訴はそもそも自明のことだった、と言うより、仮に勝訴してしまった方が音楽業界に与える影響は甚大ではないか、と思う。音楽、取り分け作曲というものは基本的にドレミファソラシの七つしかない音階を基本に楽譜を組み立てていくことであり、そのバリエーションの乏しさは言語の比ではない。差違はオクターブの変化や長調短調の切替などでしか付けられず、それで幾ら増やしたところで日々何処かで新しいものを生み出そうとする人間がいる限り必ずバリエーションは枯渇し似たような旋律が量産されることになる。そもそも旋律には心地よく聴こえる基礎というべきものが存在してしまっているのだから、多くの人間がそれをなぞってしまうのはごく当たり前であると言えよう。
 加えて、小林亜星氏はCMソングやアニメ主題歌などの作曲が仕事の主であり、それらに要求される条件と言えば「歌い易さ」や「親しみやすさ」である筈。一方、小林氏が盗作の疑いをかけた服部克久氏の楽曲「記念樹」は、学校をモチーフにした子供主体のバラエティ番組の中で、レギュラーの子供達が卒業式をイメージして歌うために作られたものだと記憶している。その場合楽曲として望まれるのは「歌い易さ」と「親しみやすさ」――創作上の精神が同一なら似たような旋律が生まれてしまう可能性も高まろう、というものである。作曲というものの制約の厳しさを念頭に置かず、ただ一部の旋律が似ているだけで安易に自身の作品を模倣したと非難するのは、音楽というものの難しさに無理解であるばかりか、作曲という表現手法がまるで自分のみに許された特権であると主張するかのような傲慢さを伴った愚行ではないか、と思えるのだ。仮に小林氏が勝訴してしまうと、今後同様な大同小異の突っつき合いが続発し、自由な音楽表現に枷がかかって業界そのものが衰退する危険を孕む。それが解っていて小林氏に軍配を挙げる裁判官がいるとは、正直とても思えないのだけれど。
 以上の論はどちらかと言えば服部氏を弁護するためのものであるが、仮に服部氏が意図的に小林氏の楽曲を模倣したにしても、或いはかつて漠然と耳にした小林氏の楽曲を知らず知らずなぞってしまったにしても、だからいけないというものではあるまい、と思う――問題の楽曲は、小林氏は自らがいつもと全く同じ調子で歌っており目新しさが窺われないのに対し、服部氏の方は番組レギュラーの子供達がハーモニーを付けて合唱し、卒業式というムードを醸成するために実に丁寧に作られている。それぞれ意図が異なるのに優劣を付けるのは本来馬鹿げたことだが、敢えて一リスナーとして裁くなら、明らかに後者の方が音楽的に優れていると断言する。そこに込められた明白な「創意」のみを評価したとしても、服部氏の楽曲はやはり模倣と呼ぶに当たらない、と思う――或いはその出来の違いと知名度の差に嫉妬したから、と意地の悪い見方もできるが、流石にそれは小林氏に失礼だろう。
 ただ、一連の行為から私は小林氏に対して不快を禁じ得ず、お陰で「東京電話」にも蟠りとささやかな悪感情を抱くに至ってしまっている。決して嫌いな人物ではないのだが、こんな「無神経」な行いを「ライフワーク」として続行しようという心境は全く理解できない。お願いだから早く止めてくれ。
 ついでに言えば、音楽に於いて最も重んじられるべきなのは作曲者でも編曲家でもなく演奏者ではないかと思う――権利権利と唱うなら先ず彼等のそれをもう少し熱心に保護して欲しいものだ。

 ――ちょっと採り上げるのが遅くなったのは、どうも論調が厳しくなるのが押さえられそうにもなかったからである。しかし結局腹に据えかねてそのまま吐き出してしまった。これをミステリにおけるトリックの扱いと絡めることも可能だが、その辺りの読み替えは皆様にお任せします。


「若おやじの日々」への感想はこちらからお寄せ下さい。深川が空を飛びます(飛ばねえって)
ここは本当にミステリ系のサイトなんでしょうか。

お名前:  e-mailアドレス:
内容を本文で引用しても宜しいですか?: Yes No

 


2000年2月上旬に戻る
2000年2月下旬に進む
最近の日常を覗く