cinema / 『SAYURI』

『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る


SAYURI
原題:“Memoirs of a Geisha” / 原作:アーサー・ゴールデン(文春文庫・刊) / 監督:ロブ・マーシャル / 脚本:ロビン・スウィコード、ダグ・ライト / 製作:ルーシー・フィッシャー、ダグラス・ウィック、スティーヴン・スピルバーグ / 製作総指揮:ロジャー・バーンバウム、ゲイリー・バーバー、パトリシア・ウィッチャー、ボビー・コーエン / 共同製作:ジョン・デルーカ / 撮影監督:ディオン・ビーブ,A.C.S.,A.S.C. / 編集:ピエトロ・スカリア,A.C.E. / プロダクション・デザイン:ジョン・マイヤー / 衣装デザイン:コリーン・アトウッド / 音楽:ジョン・ウィリアムズ / 出演:チャン・ツィイー、渡辺謙、ミシェル・ヨー、役所広司、桃井かおり、工藤夕貴、コン・リー、大後寿々花、ランダル・ダク・キム、ケリー=ヒロユキ・タガワ、マコ / 配給:ブエナ ビスタ インターナショナル(ジャパン)
2005年アメリカ作品 / 上映時間:2時間26分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2005年12月10日日本公開
公式サイト : http://sayuri-movie.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/12/22)

[粗筋]
 日本のとある漁師町。貧困に喘ぎ、ついに夫人の病苦が極限に達したこともあって、主人は二人の娘を手放す決意をした。詳細を知らされぬまま、佐津と千代(大後寿々花)の姉妹は都へと送り届けられる。
 花街にある置屋「新田」の女中に引き合わされた姉妹は、しかし器量を秤にかけられた結果、千代だけが引き取られ、佐津はまたよそへと廻されてしまった。事情も解らぬまま両親と姉から引き離された千代は、悲嘆の涙に暮れる……
 置屋での暮らしは悲惨なものだった。「新田」に籍を置く、花街でもいちばんの売れっ子と評判の芸者・初桃(コン・リー)は何故か千代を目の仇にし、頻繁に嫌がらせをしては、「新田」の女将であるおかあさん(桃井かおり)の打擲を受けるように仕向ける。置屋の小母は千代に同情的であったがおかあさんと初桃との板挟みになって為す術もなく、千代と同じ境遇で置屋に囲われているおカボの慰めも、日々の苦しみを癒さない。やがて芸者となるための稽古を受けながら、千代の胸にある郷愁の念はいや増すばかりだった。
 そんなある日、千代は自分の留守中に姉の佐津が「新田」を訪ねていたことを知る。居ても立ってもいられなくなった彼女は、初桃の外出に付き添ったとき、隙をついて佐津が身売りされた女郎屋へと走った。ようやく佐津と巡り会えた千代は、そのまま一緒に逃げようと提案するが、佐津は準備が必要だと言い、翌日夕刻に眼鏡橋で落ち合おうと約束して、女郎屋へと戻っていった。
 雨の中悄然と舞い戻った千代に、追い打ちをかけるように初桃は、彼女が置屋の金を盗んで逃げようとした、とおかあさんにいつわりの告発をする。だが千代が意趣返しに、初桃が恋仲の幸市という男と落ち合っていたことを暴露したことで、おかあさんは千代ひとりを非難することを止めた――代わりに置屋に閂をかけ、誰ひとり外に出さないように小母に命じたのだ。
 いったんは諦めたものの、郷愁の念拭いきれぬ千代は屋根伝いに脱出を試みる。だが、脚を滑らせ転落した千代は怪我を負って置屋へと連れ戻された。目醒めた彼女に、おかあさんは筐底に仕舞いこんでいたものを示す。それは、千代が置屋へと売られて僅か数ヶ月で、窮乏のうちに命を落とした千代の両親の位牌だった。姉の佐津もひとりで逃げ去り、いまや千代に帰れる場所はない。この置屋を我が家とするほかに、もはや選ぶ道はないのだった……
 初桃の策略で駄目にした着物と、逃亡の際に負った傷の治療費とで「新田」での借財を増やしてしまった千代は、稽古に通わせてももらえず、端女として扱われることとなった。日々の雑事に追われながら、失望のあまりに橋のそばでひとり涙ぐんでいた千代に、通りすがりの男が声をかけた。かき氷と、ハンカチに包んだ金子を千代に与えた男は、失敗なんて珍しいことではない、べそをかかずに笑っていなさい、という言葉を残して去っていく。この瞬間から、千代の心に初めて目標が生まれた。会長と呼ばれていたあの男性(渡辺謙)の近くに辿り着き、いつかふたたび相見えるために、自分は芸者になるのだ、と。
 ――それから数年。成長したおカボ(工藤夕貴)は無事芸者見習いに成長し、初桃の妹分として御披露目の日を迎えたが、千代(チャン・ツィイー)は相変わらず端女扱いのままだった。しかし、そんな彼女のもとを、花街きっての売れっ子芸者のひとりである豆葉(ミシェル・ヨー)が訪ねてきた。かつて、初桃の奸計のせいとはいえ、大切にしていた着物を千代に駄目にされた経緯がある豆葉の来訪に「新田」は動揺するが、豆葉がおかあさんに持ちかけた提案は、まったく思いがけないものだった……

[感想]
 ハリウッドの描く日本は、当地の人間からしてみると違和感の著しいものになることが多い。『エレクトラ』における隠れ里の佇まいや武術の様式、『キル・ビル Vol.1』の和洋折衷ぶりの奇怪さ、などが目立ったところで、最近では日本で撮影し、スタッフ・キャストにもこちらの人間が多数参加していながら、随所にちぐはぐな描写の見られたスティーヴン・セガール主演作『イントゥ・ザ・サン』という顕著な例がある――尤も、あの作品には日本に対する愛着が窺えて、それはそれで微笑ましくはあったのだが。
 しかし、トム・クルーズ主演、本編にも出演している渡辺謙らが名前を連ねた大作『ラスト・サムライ』あたりを境目に、幾分流れが変わってきた。中途半端なエキゾチズムに陥らず、徹底した考証と本物の風土に精通した人々の意見を採り入れ、より真実に近い日本の姿を描写しよう、という姿勢で作られる作品が増えているようだ。本編はそういう流れのなかで、久々に強烈な光芒を放つ一本である。
『ラスト・サムライ』にしても本編にしても、和服や建築物、装飾品などを丹念に作り込む一方で、実際の歴史にはあまり拘っていない、という共通した特徴がある。『ラスト・サムライ』は幕末から文明開化あたりの史実を彷彿とさせるモチーフを用意し、大雑把な推移は現実によりながらも自由に物語を展開させているし、本編は昭和初期から終戦後の歴史を背景にしながら、描かれている花街の様子や民衆の暮らしぶりはもっと古い時代を日本人には想起させる。いずれも考証という意味では厳密さを大幅に欠くものだが、しかしそこにある空気は見事に日本である――いや、日本という風土を活かして構築された、ファンタジー的な異世界というべきか。
 そう、要するにこれらは、日本を象徴するモチーフを、極力正確な考証のもとに再現しながら、しかし史実そのものには決して囚われることなく、自在な筆致で描いたファンタジーと捉えるのがいちばん解りやすいだろう。極めて誠実に描かれた本編だが、冒頭ではきちんと日本語を話していたはずなのに、主要登場人物が頻出するくだりになった途端に会話はすべて英語に転じる。“置屋”“花街”“おかあさん”“姐さん”といった特徴のある固有名詞や、「こんにちは」「ありがとう」などの簡単な挨拶だけが英語の合間にぽんと日本語のまま挟まってくる。特に奇異なのは、千代=さゆりと同じ境遇の人間として親友になる少女の名前である。“おカボ”という、日本人にも耳馴染みのない愛称で呼ばれる彼女、どうやら正式には“カボチャ”というらしい。英語の台詞を聞くと完全に“Pumpkin”と言っているのだが、固有名詞を訳しているのかと思えば、こういう使い方は彼女ひとりにしかなされていない。違和感として捉えてしまうといつまで経ってもつきまとう。
 だがいったん日本らしいモチーフを多種多様に採り入れたファンタジーと解釈すれば、これらは寧ろ彩りとして明確な存在感を発揮する。一部の資産家を除いて民衆が基本的に和装をしていることも、芸者たちが一堂に会して芸を競う舞台の様子も、“和”のモチーフを膨らませるための方便として充分に活きているのだ。
 そのうえで、芯はしっかりと通っている。本編における軸は、日本人でもしばしば誤解しがちな“芸者”というものの本質である。娼婦ではないが、客である男達に媚び、場合によっては“旦那”たちの伽をつとめる夜だけの妻となる。奔放なようでいて心は伝統に、その身柄は置屋に束縛され、自らの行く末を選ぶ自由は基本的にない。そうした根本的な約束を、本編は逸らすことなくきちんと描き出しているのだ。
 率直に言って、ストーリー展開には奇妙な点も見受けられる。いったんは端女の地位に落ちこんでしまった千代が再度芸者の道に踏み込むきっかけはいささか強引だし、あの理由からすると関係者の行動は若干整合性に欠くきらいがある。中盤から終盤への中継点となる箇所での出来事は、あの花街の状態からするともっと大事になっていてもおかしくなかったし、そのあとの主な登場人物の行動にも疑問を覚える。“水揚げ”を巡る陰謀の推移にもかなり御都合主義的な色彩が濃い。
 しかし、日本的な描写の豪華絢爛さと、千代から芸者・さゆりへと変じた女性の変転していく運命、そして彼女に拘わる人々の心の機微の描き込みは素晴らしい。なまじ話としてこじんまりとまとめなかったことで、籠に囚われた人々の物語を、本来以上の奔放さで描き出すことに成功している。
 ドラマ構築のうえで、適材適所に配された日本人俳優たちが多大な貢献をしていることも嬉しい。三作目のハリウッド大作出演ですっかり貫禄を身に付けた渡辺謙は、彼としては珍しい受け身のキャラクターながら、その凜とした佇まいで存在感を発揮する。彼の親友にして恩人、結果的にさゆりに横恋慕する不器用な男を、『Shall we ダンス?』などで海外からも注目されていた役所広司が好演し、そんな彼に“不死身”呼ばわりされる置屋の女将を、ハリウッド初進出とは思えない堂々たる演技で桃井かおりが体現している。とりわけ注目して欲しいのは、チャン・ツィイー演じるさゆりの幼少時代を演じた大後寿々花である。あのチャン・ツィイーの洗練に至る前の、朴訥だが可憐な少女像を見事に演じきっており、印象深さではチャン・ツィイーに匹敵するレベルと言っていい。
 ほかの主要な役柄を演じた中国系の俳優や、日系アメリカ人俳優たちの演技にはさすがにところどころ違和感を覚える場面もあったが、しかしいずれも大健闘をしている。そのなかでも、伝説になる、とまで言われた芸者の美貌をきっちりと体現してみせたチャン・ツィイーはやはり賞賛に値する。
 日本の“芸者”という文化を咀嚼し、消化したうえで構築された、日本人の心にも訴える力を備えたハリウッド流幻想娯楽絵巻、である。歴史的背景の整合性や風俗描写の正確さなどに拘らず、ハリウッドの流儀で再構築された“日本の美”と割り切って堪能してほしい。

(2005/12/23)


『cinema』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る