大和国興福寺の衆徒。興福寺大乗院門跡御坊人筆頭・古市胤仙の二男。古市胤栄の弟。
興福寺発心院に入り、寛正6年(1465)に14歳で出家して倫勧房澄胤と称す。興福寺大乗院門跡の六方(中位の僧侶)衆であったが、衆徒であった兄・胤栄の隠退を受け、文明7年(1475)7月に興福寺を出て家督を相続した。
文明9年(1477)9月には畠山義就に属し、畠山政長を攻めるために河内国に出陣。
文明10年(1478)1月、興福寺大乗院門主の尋尊より官符衆徒の棟梁に任じられる。従来、この棟梁には複数人が任命されるが、澄胤は単独での就任を望んだといい、大和国でも侵攻を恐れられた畠山義就とのつながりが強かったことが窺える。同年6月には興福寺一条院門跡方の国民・越智家栄の娘を娶ってさらに権勢を高めた。
当時の大和国の衆徒や国民らは畠山義就・政長の抗争に際してそのどちらかに加担するようになっており、義就方の代表格が越智氏や古市氏、政長方が筒井氏であったが、澄胤は越智氏と結んで筒井氏を圧倒し、文明13年(1481)7月には筒井順尊らを没落させた。
明応2年(1493)9月に幕府の政所執事で山城守護も兼ねていた伊勢貞陸から山城国南域の相楽・綴喜郡の守護代に任じられると、その命を受けて山城国一揆残党の鎮圧に乗り出すが思うように進まず、これに介入してきた細川政元の武将・赤沢朝経(宗益)が明応6年(1497)に南山城3郡(久世・相楽・綴喜)の守護代となり、澄胤は更迭される。さらに同年9月には畠山尚順が紀伊国から進出し、これに呼応して筒井・十市氏らが大和国で蜂起したため敗走した。
その後は赤沢朝経の麾下に属したが、澄胤を除く衆徒・国民30名以上が赤沢軍の大和国侵攻を警戒して明応8年(1499)10月頃に結束したため、澄胤は孤立した。同年12月には赤沢軍を先導して奈良に侵攻させたため、衆徒・国民らから一層の反発を招くこととなる。
永正4年(1507)6月に朝経が戦死したのちはその養子の赤沢長経に従い、翌永正5年(1508)7月には赤沢軍に属して畠山尚順を河内国高屋城に攻めたが、敗れて自害した。帰国の道中で同月25日に斬られたともいわれる。享年57。