京極高氏(佐々木導誉)の長男。京極秀宗・高秀の兄。通称は源三。左衛門尉・検非違使・近江守。上総守護・侍所頭人。
建武元年(1334)9月27日の後醍醐天皇の賀茂社行幸に際し、足利尊氏に随従して供奉したことが武士としての初見である。
建武2年(1335)に足利尊氏が建武政権より離脱すると、秀綱は父・高氏らとともに足利陣営(北朝方)に属し、建武4年(1337)1月に南朝軍が近江国信楽に攻め込んだ際には伊賀路の大将として一方面軍を指揮し、建武5(=暦応元):延元3年(1338)2月頃に後醍醐天皇の要請に応じた北畠顕家が陸奥国の軍勢を率いて進撃してきた際には父や六角氏頼、高師泰・師冬らとともに出陣して近江・美濃国境で迎撃し、北畠軍を伊勢国方面へと転進させるなどの功績を挙げている。
尊氏の信任厚く、暦応3:延元5(=興国元)年(1340)3月には検非違使に任じられ、同年10月に白河妙法院の御所を焼き討ちにしたことで延暦寺衆徒の強訴を招き(妙法院焼討事件)、遠流に処されることになったというが、翌暦応4:興国2年(1341)4月の賀茂祭に検非違使として参列していることから、父と同様に軽微な処分で済んだものと思われる。
康永4(=貞和元):興国6年(1345)8月の天竜寺供養に際しても検非違使として随従している。
貞和4:正平3年(1348)1月の四条畷の合戦では父や弟の秀宗らとともに高師直に属して出陣し、その後に南朝が本拠としていた大和国吉野の行宮に侵攻した際に、弟の秀宗を討ち取られて亡くしている。
観応の擾乱では高党に属し、高兄弟が殺害されたのちは足利尊氏・義詮父子に従った。
在職期間は不詳であるが、観応2:正平6年(1351)11月には上総守護に在職している。また、観応3(=文和元):正平7年(1352)の4月から8月の間には侍所頭人の職に在った。
文和2:正平8年(1353)6月、南朝方の山名時氏が京都に攻め入ると支えきれず、後光厳天皇や義詮とともに東坂本を経て美濃国を目指したが、その途次の6月13日、近江国堅田の郷民に討たれて戦死した。