はじめに

本サイトの管理者はかつて掲載した「東京キリストの教会への提言」と「東京キリストの教会はなぜ死んだのか?」と同一人物だ。東京キリストの教会が犯した過去の罪を擁護する意図はなく、東京キリストの教会に関する誤った事実を基に「カルト」や「異端」とみなす批判を正すことを目的とする。東京キリストの教会に属する信徒、あるいは東京キリストの教会を離れて他の教派の教会に属する信徒は、神のみならず神の兄弟姉妹との関わりが不可分離(マタイ5:21‐26)という神の御心を受け入れ、早期の関係修復を図るべきと理解する。東京キリストの教会に残った人、他の教会で活躍する人、信仰を失った人などそれぞれの道を歩んでいるが、皆が現在のまま東京キリストの教会での痛みを引きずりながら命が尽きるのは神の御心ではない。東京キリストの教会での生活を経験した人は年齢を重ねた。2003年に離散してからすでに8年半以上の月日が流れたが、本サイトでは、残された人生を可能な限り、神の兄弟姉妹同士の関係修復に最善を尽くすことが神の御心と考える。  

サイト管理者は東京キリストの教会が発足時に持った、純粋で真摯な信仰の存在を認め、その信仰があったからこそ、数多くの人が洗礼を受けた事実を目撃者として証言できる。また、東京キリストの教会の数多くの洗礼は天地を創造した神の御力によって成し遂げられことを証しする。サイト管理者自身が祈りを通し、聖霊に導かれ、聖書からイエス・キリストの復活と十字架の贖いを学び、神の言葉から神に対する確信を得、罪を悔い改め、洗礼を受けた。教会を去った信徒を含め、東京キリストの教会のすべての洗礼は同様に授けられた。これは東京キリストの教会の信徒が聖書で記された、生きた神を信じ従った結果だ。洗礼の源泉は救い主であるイエス・キリストに対する信仰にほかならない。

東京キリストの教会は一世代に日本宣教を目指して失敗した、弟子運動の実験的な教会だ。わずか10年余りの間に約1,000人の信徒数に膨れ上がり、その後離散し、瓦解した。しかし、指導者たちに多くの過ちがあったものの、悪よりも善を愛し、神と人を愛し、イエスにつながれた人生を歩もうとしていたことに相違はない。信仰を利得の手段として、人を騙してお金を巻き上げようとする悪人だったわけではない。1500人以上が東京キリストの教会の礼拝堂の洗礼槽のなかで、信仰を告白し、洗礼を受けた。信徒たちは喜びに満ち溢れ、神への感謝の祈りを捧げた。その信仰は純粋なものだった。どの教会よりも純粋で、熱心に神との関係を求め、神の御心に従おうとした。宣教の面に限れば、東京キリストの教会は卓越していたといえる。教会が授けた洗礼は、偶然ではなく、信徒たちの真摯な信仰の賜物だ。

東京キリストの教会は大型書店の聖書コーナーで宣教することがよくあったが、そこでは他の教派で傷ついた多くの人と出会うことができた。傷ついた内容とは、所属する教会の指導者たちからの聖書的ではない諸言動によるものだ。そのなかには、東京キリストの教会に対して警鐘を鳴らしている教会も含まれる。それに東京キリストの教会の礼拝などの訪問者には、他の教派で傷ついた人も含まれていた。これは東京キリストの教会が意図して行ったのではなく、幅広い宣教を行った自然の結果だ。他の教派の聖職者に東京キリストの教会と同じ罪は無いのか。有るはずだ。

これまで、少なくも東京キリストの教会は、一人でも多くの人に福音が伝えるために、多大な犠牲を払ってきた。東京キリストの教会への批判者は、東京キリストの教会の信徒たちが労苦している間に何をしてきたのか。立派な行いをしてきたといえるのか。少なくとも東京キリストの教会は、不可能と思える一世代での日本宣教に挑戦した。挑戦しない人たちよりも、たとえ敗れたとしても挑戦した人たちの方は数多くのことを学んでいる。最終的には、志した「使徒言行録の教会」には成れなかった。だが、現代に日本にあって使徒言行録のような教会を実現しようと最善を尽くそうとしたことに違いはない。イエスのように成ろうと試みた人たちは、失敗から多くのことを学んでいるはずだ。少なくとも東京キリストの教会は、絶えず実践者であろうとし、批評家であろうとはしなかった。教会という光のなかで安穏とした社会生活を送ろうとはしなかった。日曜日だけ、神との時間を過ごすのではなく、すべての信徒が毎日、24時間、神と共に歩む生活を求めた。

1年、365日、24時間を仕事や勉強に没頭すれば優秀な人と称される。しかし、1年、365日、24時間を信仰に没頭すれば“カルト”と呼ばれる。仕えようとしている対象は創造主である神なのに。東京キリストの教会は悪口を浴びる覚悟を持ち、社会的な評価よりも神に喜ばれる道を選択しようとした。少なくとも東京キリストの教会の宣教は当初、強制ではなく、2コリント5:14−15の「キリストの愛が駆り立てている」ことが信仰の基本だった。すべてが強制であれば、だれも従うことはできない。あまりにも律法主義的だとの批判があるが、神が父であることを強調していたことも事実だ。少なくとも、教会の設立当初の指導者たちは、一般信徒とともに奉仕の汗を流し、ともに宣教し、宣教の苦しみと宣教の喜びを味わった。少なくとも、当初、旧い礼拝堂は木造の建物だったため、夏は蒸し暑く、皆大粒の汗を額から流していたが、多くの信徒は瞳を輝かせながら説教を聞いていた。ただ、純粋に神のことを深く知りたかったからだ。少なくとも、初めの特別献金では多くの信徒が進んで全力を尽くし、心からの善意を込め、誰もなにも不平を言う人はいなかった。献金が目標を達成したときは、皆で喜び、感謝の祈りを神に捧げた。

日本のどの教派の教会であっても、東京キリストの教会が抱えた問題が無いとはいえない。東京キリストの教会は、他の教派の教会が何十年にもかけて経験することを凝縮して経験したともいえる。人間は神が創ったにしては、不完全過ぎる存在かもしれない。一つの教会は有機体であり、いずれは死ぬ。信仰の命も衰えるのだ。賢い人であれば、勉強すれば良い成績を修めることができる。運動の素質があり適切な指導者がいて、努力を惜しまなければある程度の成績を残すことができる。しかし、宣教はそうはいかない。努力ではない。心が絶えず試される。完全な心を持つ人間など存在はしない。宣教ではその人間が心を試されるのだ。

一つの洗礼は、決して偶然に為し得ない。神の力がなければできない。強制して未信者に聖書を教えても洗礼を受けるわけではない。反発を招くだけだ。宣教ほど難しい使命はない。東京キリストの教会はその使命に果敢に挑戦し多くの人が洗礼を受けた。この事実は確認しなければならない。10年余りで約1,500人の洗礼があったが、なにも挑戦しなければこれほど多くの洗礼はなかった。しかし、その大半は教会を去った。このなかには世の中で受けたことのないほど精神的な傷を負っている人がいる。

東京キリストの教会は自らの罪によって神に裁かれた。だからといって他の教派の教会から出される「カルト」や「異端」という批判に妥当性があるわけではない。こうした外部からの批判は神学的な根拠を示さず、客観的な事実に基づいていない。東京キリストの教会に関わった信徒は離散したが可能な限り和解することが神の御心だが、他の教派からの妥当性に欠ける批判が足かせになっている。そこで、本サイトは東京キリストの教会で洗礼を受けた兄弟姉妹が自らの救いに確信を強め、神の下で互いに和解できるよう他の教派による妥当性に欠ける批判に対して反論する。

 

平成23年12月11日