総論

東京キリストの教会に対する事実無根で不適切な批判を記載した書物がある。東京キリストの教会を「カルト」もしくは「異端」と批判するが、聖書では客観的な事実関係を正確に掴めないままで、公的存在である東京キリストの教会を出版という形で公的に裁く行為を義としない。

「異端見分けハンドブック」iは東京キリストの教会を「第一章 異端の見分け方」で「異端ではないかと議論されてきていて警戒されている団体」と分類し、最後の「おわりに」の項目では、「異端かどうか議論されているグループの人々が正統的教理に帰り」と願う。つまり、東京キリストの教会を異端の疑いを投げかけ、宗教法人として社会的に認められた教会を事実上、「異端」として扱っている。しかし、同著は神学的な根拠と客観的な事実による裏付けを示さず、列挙された事例はあまりにも事実に反し、東京キリストの教会に所属する者のみならず、教会を去り東京キリストの教会に批判的な立場にいる者でさえ、同著を荒唐無稽とみなしている。公的な存在である東京キリストの教会を出版という形で公的に事実上、「異端扱い」するのなら神学的な根拠と相応の客観的な事実の裏付けを示さねばならない。「異端扱い」は牧会に関する問題点の指摘とは本質的に異なる。「異端扱い」で社会的な被害を受ける人が存在するからだ。東京キリストの教会で多くの信徒が洗礼を受け、2003年に教会が離散した後、数多くの信徒が他の教派の教会で信仰生活を送っている。これらの信徒は社会人として働き、子供は学校に通う。「異端扱い」によって東京キリストの教会で洗礼を受けた信徒は一生涯、「異端の信仰者」「異端の信仰者だった」という疑いの下で信仰生活を送らなければならない。東京キリストの教会を去った信徒は転籍した教会内の信徒から「異端」云々という事実無根の噂話をたてられ、自らの信仰に対して誤解を持たれる。

教会は人間の力で組織されて誕生するのではなく、神によって生まれる。東京キリストの教会が神によって生まれていないとすれば、東京キリストの教会を去った信徒の信仰は偽物である。もし、神によって生まれておらず、異端者なら、東京キリストの教会を去った信徒たちは天国へ行く資格がないどころか、悪魔に利用され、偽りの教えによって多くの人を惑わしたことになる。また、東京キリストの教会を去り、他の教派の教会で信仰生活を営む者は教会内で「警戒される」存在となり、健全な信仰生活の障害となる。

東京キリストの教会は「カルト」ではない。まして「異端」ではない。東京キリストの教会は設立時から、信徒を「弟子」と定義した。一世代で日本宣教を目指し、すべての信徒は「人間をとる漁師」になることが求められ、教会全体が宣教団となった。すべての信徒は全生活を宣教に捧げた。教会として宣教に明け暮れる生活を求めた。未信徒が洗礼を受ける前、教会として人生を通して宣教に捧げる意思を確認したうえで洗礼を授けたが、受洗後しばらくして宣教生活に疑問を抱き、様々な不信を持って教会を去った人が大勢いた。また、時が経つにつれ指導者層に非聖書的な言動が目立ち始め、多くの信徒を傷つけたのは事実だ。
 
だが、牧会上の過ちと基礎信仰を混同してはいけない。東京キリストの教会の牧会上の過ちはどの教派の教会でもある。過ちのなかに新聞を賑わすような暴力や性的な問題など、反社会的な行為があったわけではない。1989年の設立時、信徒80人が一世代で日本中に教会を建てるという大きすぎる目標があったので、個々の信徒に信仰・肉体の両面で過大なストレスが掛り、牧会上の問題が極端に表れた。この点を心理学的な立場から指摘して「カルト」と断じる人がいるが、基礎信仰が聖書に反していたわけではない。

2000年間にわたる教会史を振り返ると、諸教会は様々な過ちを犯した。完全な教会は存在しない。だが、神、イエス、聖霊に対する基礎信仰に問題があったわけではない。神、イエス、聖霊に聖書通り従うことができなかった人間の側に問題があったに過ぎない。また、歴史を紐解くと、正しい基礎信仰を持つ教会が他の教派の教会から迫害されて大勢の信徒が殉教した。今日、迫害した側の教派は迫害の過ちを悔い改めているが、たとえ教会として人を殺すほど牧会上の過ちがあっても、迫害した教会の基礎信仰をすべて否定するべきではない。教会の基礎信仰と信徒による牧会の過ちは区別されるからだ。基礎信仰に問題があったのではなく、基礎信仰に基づかない信徒の側に問題があるからだ。

確かに東京キリストの教会ではディサイプリング制度を神の御心として神格化する傾向があった。これは神以外を神格化するのであって、偶像礼拝信仰に通じる罪だ。こうした過ちがあったとしても、東京キリストの教会の信仰のすべてを否定できない。かつて、異端とみなされた教会の信徒を殺すことを許容する教えがあり、その誤った信仰が神の御心と認識してしまい迫害が是とされた時代があった。しかし、その一部の過ちを根拠に教会の基礎信仰のすべての信仰を否定できない。

教会に対する真偽は「基礎信仰」を基準に判断すべきだ。今日、東京キリストの教会を「カルト」と批判する人が聖書の時代に洗礼者ヨハネを見たら、「カルト」と位置づけるだろう。しかし、通常、洗礼者ヨハネを「カルト」とみなさないのは外見やその宣教に人生を捧げる生活からではく、彼が語った言葉が神に依拠すると信じるからだ。イエスの公生涯は絶えずユダヤ人社会から反発を買い、ユダヤ人指導者たちの手によって十字架に架けられた。同様に原始教会は社会から迫害されることが多かった。イエスもイエスに従う信徒たちも当時の社会からは異質の存在だった。だが今日、彼らが伝えた神の言葉が世界中の教会の土台となっている。それはイエスが神の子であり、イエスの言葉は神の言葉だからだ。教会を判断する基準は神であって社会ではない。東京キリストの教会を判断するとき、基準は基礎信仰が神の言葉からきているか否かであり、東京キリストの教会に対する社会的な評判や噂話ではない。
 
イエスは、弟子たちに自分の人生を捧げるように求めており、「信仰生活が熱心だと危険」「聖書は道徳的規準で十分」などの考えを聖書では受け入れない。以下はルカ14:26−27を抜粋。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないのなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

その他の聖句でも、人間の罪を贖うため十字架に架かったイエスは信徒たちにも自分の命、人生を捧げることを求めている。また、パウロは2コリント5:13−15で自らの宣教する動機について以下のように語る。

わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

パウロの信仰にはイエス・キリストへの深い感謝があり、イエスの福音を宣教せずにはおれないから、命を懸けて宣教した。東京キリストの教会でもパウロと同じ信仰を持とうと努めた。未信者との聖書の勉強でも、罪の告白や十字架、復活に重点を置いたのも、イエスの十字架による罪の赦しの確信を強くするためだった。だからこそ礼拝は活気に溢れていた。もし、東京キリストの教会の信徒にイエス・キリストの十字架の贖いの業に対する感謝がなければ、指導者たちがどれほど信徒に宣教を呼びかけても反応しない。それどころかだれも教会に足を運ばなくなっていたはずだ。個々の信徒の信仰にイエス・キリストへの深い感謝があったから、自分の人生を宣教に捧げようとした。根が浅い面があったが、イエス・キリストの十字架によって罪が贖われた感謝と賛美があったことは紛れもない事実だ。

東京キリストの教会に投げかけられる「カルト」という言葉には「狂信的な」という意味が含まれる。一般的にすべての生活を捧げる、熱心な宗教団体は「カルト」と称されが、そもそもイエス・キリストを信じることは趣味の一つではない。人生のすべて、また、命でさえ捧げるべきものだ。東京キリストの教会が目指した理想の教会像は、現代の日本で使徒言行録の諸教会を愚直なまでに実現することにある。東京キリストの教会が宣教に明け暮れて「カルト」とみなされるなら、迫害に耐え、命を賭して宣教した使徒言行録に記された諸教会はカルトと位置づけられてしまう。一方、東京キリストの教会の信徒は人生を捧げようとしたが、少なくともすべての信徒が命を捧げるほどの信仰を持てなかった。一般的に使われる「カルト」という言葉を適用するなら、東京キリストの教会の信徒よりも使徒言行録の諸教会の方が正真正銘の「カルト」となる。

まして、東京キリストの教会は「異端」ではない。だが、「異端見分けハンドブック」では事実上、東京キリストの教会を「異端扱い」する。無論、「言わずもがな」の態度で特定の教会を「異端扱い」することは許されない。判断には社会的な責任が伴う。東京キリストの教会を「異端扱い」とするなら、他の教派を含めて多数の日本の信徒から理解を得られる判断基準を公に示し、客観的な事実関係を基づき慎重に判断すべきだ。ところが、同著の「第一章 異端の見分け方」で異端の定義には「三位一体の否定」がある。これでは三位一体を認めないプロテスタント系の諸教会は異端となる。三位一体を認めない教会群がこの基準に納得するはずがない。さらに、同章では「ローマ・カトリックには、三位一体は否定しないが、マリア崇拝を行い、無原罪の聖母マリアを信じ、いつの間にかマリアを神の位置に置いている場合もある」と述べ、カトリック教会も異端とみなす。全世界のカトリック教会がこれを認めるわけがない。同著の著者は、離散前でも1000人程度の規模の東京キリストの教会を論じる前に10億人以上の信徒数を誇るカトリック教会を「異端」として追及すべきだ。
 
著者は教会を去った一部の声だけでなく、東京キリストの教会に関わった当事者から様々な声を聴く必要があるが、「異端見分けハンドブック」には幅広く事実確認を行った形跡がない。国際キリストの教会を「ボストン・キリストの教会」と誤記しており、肝心の名称すら正確ではない。いかなる場合でも、断片的にしか事実を把握できない第三者による「異端審判」は慎まねばならない。いかなる牧師、宣教者、長老であれ、他の教会を単独で「異端審判」にかける権威を神から授かっていない。単独でないとするなら、どの機関でどのような人がどのような事実関係を基に判断したのかを公開するべきだ。

また、「マインドコントロールの恐怖」iiとうい書物では、東京キリストの教会の母体である国際キリストの教会をカルトと位置づけ論じるが、基礎信仰の誤りを指摘する記述はない。「カルト」と判断する根拠となる基礎信仰の誤りを明示せず、出版という公的な形で「カルト」の教会として読者に警戒を呼び掛ける行為は社会的に許されない。著者の主張は総じて、特定の信仰を熱心に信じ、人生のなかでその教えを実践し、所属する教会が示す活動方針(どの教会でも信徒に示す)に従う人はマインドコントロールを受けているのだ。東京キリストの教会は会衆制を基礎にしてその上に監督制をかぶせた。会衆制は個々の信徒の自立した信仰が基本となるので信仰が活性化する反面、教会全体がバラバラになり分裂しやすい。そこで監督制によって一つの方向に教会を向かわせるための努力を惜しまなかった。この過程で強制的に感じる教会の活動が多々あり、個々の信徒に様々な傷を残す結果となった。繰り返すが、東京キリストの教会は会衆制と監督制の両方を採用したのであり、会衆制が持つ個々の自主性が強い側面と、監督制が持つ全体主義的な側面の両方が教会内混在する。信徒数が増えれば増えるほど相反する両者を満たすため、牧会に歪が生じた。しかし、これは牧会上の問題点であり、マインドコントロールというような洗脳的な行為とは種類を異にする。

同著は国際キリストの教会の聖書解釈について「非聖書的」と表現し、その「非聖書的」な教会である国際キリストの教会を去る意義を強調するが、どの教えが聖書に反するのか明示されない。教会を判断する基準は社会ではなく神の言葉だ。いかなる場合でも神の言葉を通し、「非聖書的」か否かを立証すべきだ。この世のいかなる権力を持つ組織でも特定の教会を裁くことは許されない。「非聖書的」と主張するなら神の言葉から根拠を明確に示してから国際キリストの教会を批判すべきだ。また、「的」が付いているので「完全に聖書に反していない」という意味なら、聖書ではなく国際キリストの教会の牧会上の問題となるが、どの牧会上の行為が聖書に反していたかを示すべきだ。牧会上の問題点なら、すべての教会が絶えず抱えている。完全な牧会はいかなる教派のいかなる教会にも存在しない。敢えて、書物にして公的に訴えねばならない牧会上の問題点があるなら、客観的な事実に即して記述しなければならない。
 
また、「破壊的カルト」の定義について、「非倫理的なマインドコントロールのテクニックを悪用」とあるが、東京キリストの教会でいかなるテクニックがあったのか、全く明示されていない。つまり、何も根拠を示さいないまま、「カルト」扱いしたえうで論じているのだ。いずれにせよ、読者がこれらの書物の不確かな情報によって「マインドコントロール」される可能性がある。

i 「異端見分けハンドブック」」尾形守著、プレイズ出版、1998年初版、2004年2刷
ii 「マインドコントロールの恐怖」スティーブ・ハッサン著、恒友出版、1993年