事実無根の事例

「異端見分けハンドブック」では、異端と議論する根拠の事実関係に対し「聞いた」「も聞く」との表現が多い。これは提示された事例が単に伝聞であることを意味し当事者から確認をしていないことを示す。事実関係を確認せず「異端かどうかを議論」したことを意味する。根拠がない「噂」で特定の教会を異端と断じることは許されない。

聖書は公正な裁きに対して厳しい。申命記1:16−18では以下のように神は厳しく命じている。

わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」わたしはそのとき、これらすべてのことをあなたたちのなすべきこととして命じた。

神の意志は相手がだれであれ、等しく当事者から直接話しを聞くことを命じている。しかし、「異端見分けハンドブック」で提示された内部資料は一つだけ。また、当事者である東京キリストの教会に所属する幅広い信徒から客観的な事実確認をしていない。これは上記の聖句が示す方法ではない。
 
それに2003年、東京キリストの教会は離散状態になり、ホームページで謝罪文や悔い改めの文章を掲示したが、「異端見分けハンドブック」は2004年に2刷が出版されても改定して東京キリストの教会の激変ぶりには触れることはない。つまり、事実関係を確認する努力の形跡がないのだ。東京キリストの教会は客観的な事実関係を確かめず人を裁く傾向が強いため、様々な人を傷つけた。だからといって、客観的に確かな事実関係を確認せず、東京キリストの教会を裁くことを神は許さない。

○「ボストン・キリストの教会」
この項目名は「ボストン・キリストの教会」とあるが「国際キリストの教会」の誤りだ。名称の確認すらできていない。「異端見分けハンドブック」では世界の各都市にある国際キリストの教会について書かれ、そのなかで東京キリストの教会について言及する。東京キリストの教会やボストン・キリストの教会などの世界の教会を束ねる総称は国際キリストの教会だ。「ボストン・キリストの教会」と書くなら、米国・ボストンにある「ボストン・キリストの教会」に限ることになる。発刊された1998年の時点では国際キリストの教会が発足して5年も経っているが名称すら正確に記載されていない。
 
また、東京キリストの教会のことを「数年前までは『代々木八幡キリストの教会』と呼んでいた」とあるが、同著初版の1998年の時点では東京キリストの教会発足からすでに9年も経っている。決して「数年前」ではない。

○「マインドコントロールの恐怖」  
「異端見分けハンドブック」は「マインドコントロールの恐怖」とうい書籍でカルトと位置づけていることを紹介するが、著者のハッサン氏は東京キリストの教会の母体である国際キリストの教会を「非聖書的」と位置づけながらも基礎信仰の誤りを指摘する記述はない。さらに、東京キリストの教会をカルトとみなしカルトの定義を「非倫理的なマインドコントロールのテクニックを悪用」とあるが、国際キリストの教会のなにが「非倫理的なマインドコントロールのテクニック」が記されていない。根拠を示さないで特定の教会を公的に「カルト」扱いする行為こそ「非聖書的」な行為であり、読者は注意深く客観的な事実が示されているかどうかを見極めて読まないと著者に「マインドコントロール」される。

○「キリストの弟子づくりではない」は虚偽
「海外では、キリストの弟子づくりではなく、組織の指導者への弟子づくり」と批判し異端論を展開する論文(論文名と筆者名は記されていない)があると紹介している。論文名を明記しないので反論の仕様がないが、東京キリストの教会の初志が可能な限りキリストの弟子であろうとしたことに相違ない。教会組織の指導者の弟子になることが動機で洗礼を受けることはあり得ない。東京キリストの教会では、洗礼を受けた後でも、毎週日曜日に牧師の説教を聞くだけで牧師がいかなる人物か詳細を知らない人が多かった。当然、説教で「指導者の教え」なるものが語られるものはなく、教会内に存在しない。
 
「ボストン・キリストの教会」の項目の最後で、「『イエスのように生きる』という単純なスローガンのなかで」と記すので、少なくとも東京キリストの教会の意図が、「イエスのように生きる」にあることが明記されている。つまり、「キリストの弟子づくりではない」と結論づける論文を紹介すると同時に、「キリストの弟子づくりではない」という事実関係を否定している矛盾がある。

○「キップ・マッキーンの指導の下で絶対主義」は虚偽
同著はアラン・W・ゴメス氏の書籍 iを引用し、国際キリストの教会をカルトとみなす理由について、「第一の社会的問題は、創始者キップ・マッキーンの指導の下で絶対主義であるとする」とある。あたかもキップ氏が教祖のような表現だが、東京キリストの教会に属する信徒はキップ氏のことをほとんど知らない。国際キリストの教会の広報誌「Up Side Down」でもあまり登場しないし、同誌は日本では日本語訳がなく日本人信徒に広報されなかった。この「異端見分けハンドブック」で度々紹介されるキップ・マッキーン著「聖書回復と革命」は日本では1992年に一度だけ信徒に配布された。その後、配布されなかったので、2003年の離散時には指導者層でさえこの文書の存在すら知らない人が多かった。それに神学的な要素はほとんど無く国際キリストの教会としての宣教の方向性を示すものだ。国際キリストの教会では指導者を含め、キップ氏を思い浮かべることもどんな人物かと思案することもない。
 
キップ氏の絶対主義といっても、一般信徒にすれば従えない事項には従えないだけで、なにが絶対なのか理解できない。東京キリストの教会が未信者に教える「信仰の土台のクラス」の「教会」では、すべての信徒が神の下で平等であると教える。ゴメス氏は「社会的問題」としているが、社会的問題とはなにを想定しているのか。キップ氏が命じれば信徒が社会的問題、例えば盗みや殺人、集団自殺、武器を持って立て籠る——などを起こすとでも想定して警鐘を鳴らすのか。そうだとしたら、全く根拠のない妄想に過ぎない。
 
国際キリストの教会は2003年に体制が崩壊するまで、会衆制を基本としてその上に監督制をかぶせる組織体を採用し、その頂点にキップ氏がいた。監督制では頂点にいる人は君主のようであり、典型的な監督制のカトリック教会ではローマ法王がこれにあたる。しかし、監督制はカトリック教会や日本聖公会で採用される制度で、制度的な欠点はあるが監督制そのものが悪ではない。監督制、会衆制、長老制それぞれの制度にプラス面とマイナス面があり、そのマイナス面をもってカルトや異端となるわけではない。これは制度上の問題であり、基礎信仰が間違っているわけではない。

また、「生活のすべての面で弟子訓練者への弟子となる側面も強調されていることは否定できず」と主張する。そもそも指導者が信徒の動機や行いをすべてチェックなどできるわけがない。信徒が囚人のような生活を送っていることを意味しているのか。普通の社会人が「生活のすべての面」で特定の信徒の弟子となることなど、そもそもできない。落語家の弟子のように師匠にすべての面で仕えることなど、普通の社会人にできるわけがない。東京キリストの教会で生活のすべてを神に捧げようとしたことは事実である。そのなかで他の信徒にも仕えることも実践してきたことも事実である。可能な限り、目の前の信徒に仕えるのは神に仕えることは神の意志に沿う。東京キリストの教会がこの神の意志を目指したことが聖書に反しない。教会としてすべての信徒が生活のすべてを人生のすべてを神に捧げようにとした。これが聖書に違反するのであれば、修道院は聖書に違反しているのか。

○「教会が信徒の生活のすべてを統制」は虚偽
ゴメス氏の論文では「第二の社会的問題は、すべての個人生活がその個人の上に置かれている弟子訓練者によってコントロールされているこうした種類の弟子づくり実践の社会的問題性である。弟子訓練を受けているすべての者のうえに弟子訓練者が配置されていて、こうした弟子訓練の縦組織が頂点の指導者(創設者)につながっている。この方法を通して、その教会が会員各自の生活すべての面を統制している社会的問題性である」と指摘する。

あたかも国際キリストの教会の創設者であるキップ氏が世界中の信徒の生活のすべてをコントロールしていたかのような書き方だが、全くの虚偽だ。2003年に国際キリストの教会が離散する時点で信徒数は約13万人。この約13万人の信徒の生活を全て支配できるわけがない。できるのであれば、信徒はコンピューター付きのロボットだ。信徒が人間である限り不可能だ。1000人の教会でも、50人の教会でも不可能だ。また、10人ほどの小グループでも、一対一のディサイプリングパートナー(ゴメス氏の言う弟子訓練者)でも不可能だ。
 
一般の信徒はそれぞれ仕事を抱えている。東京キリストの教会でも礼拝、教会の行事への参加を優先するよう指導していたが、「生活のすべてを統制」などできない。確かに、東京キリストの教会が発足当初、毎日、ディサイプリングパートナーに連絡を取り合うよう努めていたが、連絡を取り合えても生活のすべてを統制などできるわけがない。それに毎日連絡を取り合うことすら容易にできない。教会関係のスケジュールで一杯になり個人の時間があまり持てなかったのは事実だし、信徒は「弟子」と定義され、教会全体が一つの宣教団のようになり、日々の生活のなかで信徒が弟子訓練を受けていた。しかし、「生活のすべてを統制」されることはない。そもそも不可能だ。

○「他教派や神学校の否定を土台」とは言い過ぎ
 「異端見分けハンドブック」はキップ・マッキーン著「聖書回復と革命」(参考資料の項目参照)から、「他教派・神学校の否定を土台として、このグループは教会革命の革命意識を持った『真の神の動き』をなしているとする」と述べる。

 「聖書回復と革命」には以下のように神学校での経験について書かれている。

イースターン・バプテスト神学校にも通ったが、そこで学部長から「聖書だけが聖霊によって書かれた神の言葉とはいえない」とチャレンジされた。恐れはあったが、信仰による確信をもって、私はその学部長に対して「もし聖書のほかに『聖なるもの』があるなら、キリスト教は儒教やイスラム教、仏教、ヒンズー教となんら変わらない一つの哲学にすぎなくなる」と反論した。私にとってキリストとその言葉は唯一の道であり、真理であり唯一のいのちである。

キップ氏は他の教派の神学校の存在を否定しているのではない。聖書が神の言葉であることに疑念を抱く神学校に対して厳しく否定しているのだ。東京キリストの教会は他の教派のなかにも救いはあると考えていたが、教会としてすべての信徒が世俗の罪と妥協せず確実に天国に行ける教会形成を目指し、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)の基準を厳格に求めた。
 
1970年代の米国の社会状況は、フリーセックスが蔓延り、ドラッグの氾濫が著しく道徳は荒廃した。そのなかにあって米国の教会が世の光となっていない現状に対して教会の変革を求め、荒廃した道徳への危機意識が主流派キリストの教会の元来有したテーゼである「使徒言行録の教会への回帰」へと駆り立てた。当時、キップ氏は説教で主流派キリストの教会の現状について、「信徒の離婚率が一般社会と同じになっている」と語り、主流派キリストの教会の信仰の腐敗振りを指摘した。また、「聖書回復と革命」では、主流派キリストの教会の大幅な信徒数の減少などが指摘されており、存続の危機にあることが紹介されている。つまり、同文章のキップ氏の意図は神学校を否定することではなく、米国の教会の、特に主流派キリストの教会の危機的状況を強調し、そこから脱却することにある。教会として信仰が衰えた現状を直視し、悔い改め、聖書の言葉に立ち返り新たなスタートを切ろうと決意を示したのだ。
 
国際キリストの教会は「神学校の否定を土台」としていないが「神学校を教会の土台」とはしない。教会には初期の頃から神学校を卒業した指導者がいた。このような指導者は主流派キリストの教会時代に神学校を卒業しているケースが多いが、東京キリストの教会でも牧師として働く傍ら、教会の教師職に就くべく米国の神学校の通信教育を受けていた人がいた。国際キリストの教会が神学校の存在を否定してはいない。明確に否定するのが牧師に就任する要件の「神学校の卒業」だ。東京キリストの教会は牧師になるために、第一義的にキリストの良き弟子あることを重視し、知識だけなら神学校でなくても身に付くと考え、神学校を教会の土台とはしなかった。
 
聖書で使用されている「弟子」という語は聖書学者を意味しない。しかし、現実の神学校では牧会の実践を学ぶことより、聖書の知識の獲得や神学論、語学の習得などに多大な時間が費やされる。「弟子」という語の意味について、「旧約新約聖書大事典」(教文館)に拠れば、以下の通りである。

イエスの弟子たちは次の点でラビの弟子たちとは異なっていた。彼らは先生(=イエスのこと)を選択したり替えたりはしないし、彼らの目的は律法の研究ではない。また、イエスの弟子であるというのはラビになるための通過地点ではない。教えの家のような一定した学びの場所があるわけではないし、またラビにとって基本的な課題である他の学者やラビとの交流や討論がない。イエスに従うとは、時としてユダヤ教の律法や律法の敬虔さに反する行為を要求し(マタイ8:21−22と出エジプト20:12参照)、また家族、所有(マルコ10:28−30)、職業(マルコ8:34)イエスと運命をともにすることをも意味した。(中略)イエスの弟子たちの課題は、神からイエスに与えられたのと同じ全権と委託とをもって、悪霊の追放と病気の癒やし、神の国の切迫と回心への呼びかけをするために、町や村を巡り歩くことにあった(マルコ6:7−13、ルカ10:1−20)。神の国の切迫は、ラビや哲学者の師弟関係のように、指導者の言葉を暗記して学んだり、幾世代にも渡る伝統を形成したりする時間的余裕を許さなかったのである。

使徒言行録の原始教会には終末が差し迫っている意識がある。基本的に弟子とは、聖書学者のように聖書を研究することではなく、イエスの福音を宣教することが目的となる。従って、使徒言行録を模範とする東京キリストの教会が「弟子」の意味を宣教と捉えていることは間違っていない。東京キリストの教会の指導者たちのほとんどは神学校に通った経験がなく、学問的な探求を嫌う傾向が強かった。神学校でギリシア語を学んでいなくても教会として重大な危機とはしなかった。知識の習得より、目睫に迫った終末に備え、一人でも多くの洗礼を授ける課題の方が重要なのだ。

東京キリストの教会は「使徒言行録の教会」を理想として教会形成を目指してきた。使徒の時代に神学校は存在しない。だから、神学校を卒業しなければ牧師として資格がないとは考えない。それに神学校を卒業したところで直ぐに立派な牧師になれるわけでない。結局、牧会の経験を積み重ね学ぶしかない。

また、長期的な一般信徒の育成段階を重視していない。宣教して洗礼を授ける段階までは、聖書の知識はそれほど必要としないからだ。基礎知識があれば、十分に宣教できる。逆に、専門的な知識を振りかざしても、人は洗礼を受けるわけではない。宣教はあくまでも信仰と聖霊の力が頼りであり、基礎的な知識があれば宣教できる。知識のみでイエスの十字架に心を砕かれる人はいない。聖霊が働き聖書の言葉が心に入りそれが成長しなければだれも洗礼を受けない。神学校に通い専門的な知識を身に付ける労力があれば信仰を持って宣教すべきと考えた。これは聖書の知識を蔑ろにする意図ではなく、「使徒言行録の教会」を教会形成の理想とし、知識の習得より宣教を重視したに過ぎない。

東京キリストの教会は一般信徒でも毎日、着実に聖書を学べばかなり高いレベルの聖書の知識に達すると教えていた。神学校で牧会や宣教の実務に直接関係ない知識の習得に時間を費やすより、牧会や宣教を実践することで学ぶほうが最優先と考えた。背景には、使徒言行録と同様の終末意識を持ち「一世代で世界中を宣教する」という国際キリストの教会のテーゼがある。傘下の東京キリストの教会にとって、宣教こそ神から与えられた最も優先度の高い崇高な使命なのだ。東京キリストの教会では、単に知識は専門書があれば十分に独学で学べると捉え、宣教や牧会を学ぶのであれば牧師見習いとして教会で働き、実践を通して学ぶしかないと認識していた。
 
確かに「聖書回復と革命」には「信仰を失ってしまった神学校」との表現がある。しかし、同文章ではキップ氏が1975年にフロリダ大学卒業後、イースターン・バプテスト神学校に通っていた経験に関する記述がある。それは学部長から「聖書だけが聖霊によって神の言葉とはいえない」と戒められ、これに対しキップ氏が「キリスト教は儒教やイスラム教、仏教、ヒンズー教となんら変わりのない一つの哲学にすぎなくなる」と反論すると、他のキリストの教会の牧師から「聖書に対する視野がせますぎる」と戒められた——とある。この神学校の学部長は正統な信仰を失っており、キップ氏は同文章で、1970年代の米国社会が道徳的に退廃していても、教会は十分に牧師を育成できず世の光となれない現状からの脱却を主張したのだ。決して、神学校の存在をすべて否定していない。

○「会員移動の教会倫理の問題で諸教会や超教派団体から弊害や被害の報告も聞く」
語尾に「も聞く」とありこれは伝聞である。確定された事実ではない。他の教派から東京キリストの教会で再洗礼を受けようとして、トラブルが生じたのは1〜3件ほど。基本的に他の教派から東京キリストの教会に転籍しないので、トラブルがない。あるとすれば、前身の代々木八幡キリストの教会から東京キリストの教会に移行したときだ。他の教派の教会から信徒を奪ったのではなく、主流派キリストの教会と袂を分かち、新たな教会としてスタートしたのだ。1989年に東京キリストの教会が正式に発足して以来、東京キリストの教会で洗礼を受けた数は1500人ほど。その大半は東京キリストの教会を去った。他の教派の教会から信徒を奪うどころか、むしろ、教会を離れた後、他の教派の教会に転籍した者が相当数存在する。

○「他の教会のクリスチャンに声をかけてこのグループの勧誘」は虚偽
この記述と同じ段落で「他のキリスト教会や神学校と自ら交わろうとしない」とし、その4行後で「YMCAの海外ワークキャンプでもこのグループの人たちも参加して、そのツアーの中で他の教会の人たちを勧誘して問題になった」とある。「自ら交わろうとしない」としながら「YMCAの海外キャンプ」になぜ参加するのか。他の教会との交わりをしているではないか。一つの段落で全く矛盾する記述がなされている。
 
それに東京キリストの教会の発足以後、YMCAの海外キャンプに東京キリストの教会所属の信徒が参加したことはない。少なくとも「教会を代表して」参加した形跡はない。あるとすれば、東京キリストの教会発足以前であり、教会以前を持ち出して批判するのは滑稽なことだ。

○「キリスト教書店の前でそこから出てくる他の教会のクリスチャンに声をかけてこのグループに勧誘」は虚偽
全くの虚偽。東京キリストの教会は非効率な宣教を避ける。キリスト教書店の前で声を掛ける宣教を教会が指導することなどありえない。東京キリストの教会のテーゼは日本宣教だ。キリストを知らない人に福音を伝えることだ。他の教派の人に宣教などしない。初版発行の1998年当時、東京キリストの教会の信徒のほとんどは首都圏在住で、大阪、名古屋の信徒数は極めて少ないので、両都市でのキリスト教書店での宣教はありえない。東京となると新宿南口のキリスト教専門書店「オアシス」はオフィスビルの6階にあり、1990年初頭まであった新宿三丁目のCLCでも1階ではない。御茶ノ水のCLCも2階にあるが、このビルから出てくる人を待ち構えて宣教したことはない。キリスト教書店から出てくる人は同じビルで働く会社員がほとんどで信徒と限らない。百歩譲って、他の教派の人の東京キリスト教会の礼拝に誘うのであれば、外ではなく書店内でするはずだ。少なくとも、このような活動を東京キリストの教会が呼びかけたことはない。あるというなら、だれかから「報告」を受けるだけでなく、著者自身が直接当事者に事実関係を確認するべきだ。
 
東京キリストの教会の信徒は紀伊国屋書店など大型書店の聖書コーナーで立ち読みしている人に声を掛けた。未信者で聖書を理解したいと願う人がいるからだ。この過程で他の教派の教会に所属する人に出会うことがある。しかし、声を掛けられた人が現在通っている教会に疑問がなければ話しは終わる。仮に教会の行事に誘って1回は参加しても、それで終わる。当然、自ら所属する教会に通い続ける。所属する教会の礼拝に喜んで出席しているからだ。それ以上なにもしないのは、ムダ骨となるからだ。

しかしなかには長年、所属する教会に通っておらず、もはや、信仰を失っている、諦めている人もいる。所属していた教会から傷を受け、やりきれない思いを抱き聖書コーナーで聖書関係の書物を立ち読みしている人とも出会う。どこか、もっと神の御心どおりの教会にめぐり会えたら、と願っている人がいる。東京キリストの教会の信徒は積極的に声を掛けたなかで、教会を探している人ならだれでも東京キリストの教会の行事や礼拝に誘った。逆に教会を探している人でなければ、誘ってもただ断られるだけだ。東京キリストの教会の宣教は神を求めているキリスト教のバックグランドのない人に対して行われ、礼拝の未信者の訪問者の99%は聖書に接したことのない人だ。東京キリストの教会からすれば分け隔てなく宣教した結果、礼拝出席者のなかには稀に他の教会の所属していた、あるいは所属している人が含まれていたに過ぎない。

i Alan W. Gomes, Unmasking the Cults, Grand Rapids :Zondervan Publishing,1995,p63

 

平成23年12月11日