異なる聖書解釈の立場からの基礎信仰批判に対する反論

この項目は、かつて「東京キリストの教会への提言」のサイトで掲載した「律法主義批判に対する反論」を、多少表現を変えた内容だ。東京キリストの教会は様々な過ちを犯したものの教会の基礎信仰に誤りはなく、異なる聖書解釈の立場から東京キリストの教会の基礎信仰に対する批判に反論する。

東京キリストの教会をカルトとみなす批判は、一般的なプロテスタント系諸教会では受け入れられない聖書解釈を根拠とする。この代表的な例はジェニファー・ポーター氏が著した文章、「真実による解放」(http://www.ex-tcc.org/icc_doc/kaihou01.htm)だ。同書は東京キリストの教会離散時に影響力を持ち、混乱に拍車をかけた。教会内にポーター氏と同様の主張をする指導者たちが出現し、教会の基礎信仰を否定しようとした。離散直後の2003年10月、東京キリストの教会の「信仰の土台のクラス研究会」は研究結果として、「『弟子=クリスチャン=救われている』という教会の教えは間違いだった」と発表した。当時の指導者たちは基本的な神学を理解しておらず、教会の基礎信仰を理解できていなかったため混乱が生じたのだ。教会を去った信徒も、自らの基礎信仰に自信を持てなくなり、信仰を捨てるケースが多くみられた。東京キリストの教会で洗礼を受けた信徒、あるいは他の教会に転籍した信徒が自らの救いに確信を持つため、東京キリストの教会の基礎信仰の正しさを明らかにする必要があると判断し、この項を設けた。

同書は「政策判断」と「基礎信仰」の違いを区別できず、教会の「基礎信仰」と、教会を建てる手段として用いた「偶像礼拝的手法」とを区別しないので論じている。この「偶像的手法」が様々な過ちを犯す温床となったが、基礎信仰に特に問題があったわけではない。ポーター氏の「真実による解放」は東京キリストの教会の厳しい弟子訓練を受けて疲れきった信徒には、「教会に通う必要はない」「洗礼を受ける必要はない」「悔い改める必要なない」「罪を告白する必要はない」「一般の信徒が聖書を教えてはいけない」などの聖書解釈に魅力的に感じ、氏の主張を論拠に教会を去った。しかし、氏は一般のプロテスタントの諸教会を受け入れられない聖書解釈を「真実」として、同書では東京キリストの教会の母体となる国際キリストの教会(以下は東京キリストの教会)を批判する。

ポーター氏の聖書解釈は通常のものではない。観念的にイエスを信じるだけで救われるという信仰を基礎としており、譬えると「葬式キリスト教」だ。主要な日本のプロテスタント系諸教会の教憲・教規を調べても、この思想を持つ教派はみあたらない。一例を挙げれば、氏は洗礼の前に、信徒の規範を学ぶことは「世界中のどこにもない」と主張するが、主要な教派のすべては洗礼の前に、信徒の規範を学び、それに同意したうえで洗礼を授ける(第一部 ⑤参照)。「世界中どこにもない」と言い切られると、他の教派に通じていない一般信徒は、東京キリストの教会の基礎信仰は異常だという印象を持ってしまう。それが真実かどうか調べる術がないので、氏と同様の主張をする指導者が教会内に現れると、多くの人が東京キリストの教会の基礎信仰が異常と信じた。

ポーター氏に旧約聖書を包括した語句の正確な理解は全くない。「弟子=クリスチャン=救われる」という東京キリストの教会の基礎信仰を否定し、人が救われるために「悔い改め」「洗礼」「行い」を条件とすることを拒否する。それは信仰の概念を「観念的に信じる」と捉えことから生じている。信仰の概念のなかに「旧約の律法遵守」「悔い改め」「行い」が含まれると解釈しないのが氏の聖書解釈の特徴だ(第一部 ⑨⑩参照)。また、旧約聖書と新約聖書を分断して解釈するので、旧約聖書の律法に重きを置くファンダメンタルな信仰を基礎にする東京キリストの教会とは水と油の信仰だ。氏は旧約聖書の律法はキリストを信じる信徒には不要であって拘束性がないとみなす。通常、プロテスタント系諸教会は、イエスは律法の完成者であり、新約聖書は旧約聖書を「超克」する存在であり、新約聖書によって旧約聖書が破棄されたと考えない。

以下は、『現代に生きるための旧約律法』(グレッグ・バーセン、聖恵授産所出版)からの引用。

悲しいことですが、今日の教会は、神の律法が要求しているレベルをよく引き下げます。それは、神の恵みを強調し、自分自身の律法の行いを根拠に救われようとする「律法主義」を何としても避けようという誤った動機からです。教会は、神の救いのご計画の中に律法を正しく位置づけ、キリストの御国のなかでの律法を正しく求めずに、「安易な信仰主義」を助長することがよくあります。「安易な信仰主義」は、心からの悔い改めが必要であることを宣言せず、罪人が徹底的な罪責を持っており、救い主を必要としていることをはっきりと語らず、回心に引き続いて、正しい生活をするように勧めたり、訓練したりはしないのです。

ポーター氏の解釈に拠れば、律法とは即ち「規則」であって、神からの恵みという概念が欠如する。詩篇119編をはじめ旧約聖書全体は、律法は信仰者にとって喜びであり、神からの恵みだと示す。律法遵守は、氏が主張するような悪しき「ファリサイ派的な信仰」や「律法主義的な信仰」ではない。イエスがファリサイ派を非難しているのは、ファリサイ派は善行を積むことを根拠に救われると考えたことにある。また、律法から派生した口伝律法の遵守に心を伴わず励んでいた点にあり、律法遵守そのものを非難するのではない。ところが、氏にとって東京キリストの教会が旧約聖書の律法を基本的に遵守する信仰に対し、律法主義的な信仰に陥った“カルトの教会”というレッテルを貼るのだ。

結婚に関する批判はその典型だ。ポーター氏は「2コリント6:14を根拠に教会外の人との結婚を禁じるのは聖書解釈の誤りだ」と非難する。東京キリストの教会でも同様の主張をする指導者が現れ「聖句を誤用している」「律法主義的」だと非難し、多くの信徒がこの批判を受け入れた。この聖句は旧約聖書を基礎にパウロが教会運営について判断したものだが、一般の日本のプロテスタント系諸教会でも旧約聖書に基づき、男女の関係や結婚について厳しい規定を定めている。2コリント6:14を根拠に、信仰を持たない者との結婚を禁じる規定を設ける教派がある。その他の教派でも、聖書全体から判断して信徒間の結婚を制限する規定を設ける。しかし、プロテスタント系諸教会の現状は、若い男性が少なく信徒間で結婚することは難しい。そこで教会としては、信徒が婚期を逸することを避けるために、政策判断として信徒外の男性との結婚を許し、ある教会に至っては奨励する。

デートに関しては、東京キリストの教会でも規範事項があり、様々な罪が発覚するに従い変更を繰り返した。つまり、これも教会の政策判断から生まれた規範であって基礎信仰ではない。初期は緩やかだったが徐々に厳しくなり、やがて規則主義的になり、結果として悪い影響があった。また、東京キリストの教会が男女間の問題で個人の人権やプライバシーに関る事柄にまで介入したのは、罪として認定されるべきだ。しかし、あくまでも教会の政策判断の範疇に属する問題であり、規範を設けること自体が聖書に違反するわけではない。他の教派でも一般的に、教会が罪から信徒の信仰を守るため信徒の男女間に一定の介入することを教会の責務として考える。以下は、他教派の結婚に関する教規の抜粋。

「日本聖公会」
第一五一条
結婚しようとする信徒は、あらかじめその旨を所属教会の牧師に申し出て、結婚の予告を願わなければならない。
2
結婚する者の一方または双方が所属教会以外の教会で式を挙げる場合は、所属教会の牧師に申し出て予告をうけてうえ、予告済証明書をうけて、これを司式聖職に提出しなければならない。
第一五二条
前条の申し出を受けた牧師は、その結婚に対する故障の有無を調査し、また結婚の当事者に挙式までの間に、日本聖公会祈祷書に基づいて結婚の本義と夫婦の責務について教えなければならない。
第一五六条
信徒の結婚は配偶者の死をもって解消する。
もし、信徒が離婚し、または国法上の手続きによって結婚は解消したものとして、配偶者の生存中に他のものと再婚したときは、その信徒は懲戒に付せられる。
「日本自由メソジスト教団」
第九六条
会員は回心した者と結婚すべきである。また本教会の会員籍を有しない者との結婚を認めないものではない。

未信者と結婚して、生涯信仰の妨げを受け、信仰から離れないように、教師は、
(1)
「不信仰と、つり合わないくびきを共にするな」(コリント人への第二の手紙六…十四)との使徒訓戒を公会で強調し、(省略)
(2)
信頼する信徒に相談しないで、結婚の決定をしてはならないことを全会員に説明すべきである。

その他、日本キリスト教団の「信徒必携」にも、同趣旨のことが記載されている。さらに教会史に名を残す教会には、東京キリストの教会よりもはるかに厳しい教会の諸規則が設けていた例がある。その目的は信徒が罪から遠ざかり、受洗後の聖化を目指して信徒を教育し、敬虔な信仰生活を営むことにある。「弟子=クリスチャン=救われる」という教会の基礎信仰は、教会内外の信徒を不当に裁く温床になったが、この信仰自体が誤っているわけではない。間違っていない信仰を、当時の指導者は、教会批判者に影響され堂々と公式の場で否定したのだ。そして基礎信仰自体は間違っていないと反論する信徒に対し、「教会の現状が分かっていない」「律法主義」などと主張し受け付けなかった。

最後に、ポーター氏は一貫して、聖書に記されていないことを教会が政策判断として実施すれば、非聖書的だと主張する。これだと氏の方が教会運営に対して規則主義的であって(第一部 ⑪参照)、氏の主張では自由にその地域とその時代に適した教会運営ができない。例を挙げれば、氏は聖職者以外の一般の信徒はだれにも教えてはならないと主張する。それなら運営はかなり窮屈で聖職者の権威が極めて強く、一般信徒は聖職者からひたすら「教えられる」だけのいささか奴隷的な存在となる。

ジェニファー・ポーター著『真実による解放』への個別反論

第一部 ①

キップ・マッキーンは自らが“預言者”であると主張していています。そして、“自らを神の運動の指導者”と呼んでいます

(反論)
東京キリストの教会がキップ・マッキーン氏を旧約聖書の預言者と等しい存在と教えたことはない。信徒のほとんどは、1年間にキップ・マッキーン氏のことを頭に思い浮かべすらしない。キップ氏と個人的に話した経験や、キップ氏が話したことを文書で読むこともない。まして、キップ氏のことをモーセと等しい預言者と信じる人は皆無だ。東京キリストの教会ではキップ氏を神の代行権威としての伝道者、あるいは牧師だとは信じたが、神の権威そのものとは信じない。それにキップ氏が何かを預言していたことはない。キップ氏が自らを預言者と語ったのは、「預言者のような指導者になる」こと教えることが目的だ。キップ氏が語った同時期の1994年、東京キリストの教会でも、環太平洋の元主任牧師が同趣旨の説教をしている。ここでいう預言者とは、預言者のような指導者という比喩であり、キップ氏をモーセのごとき預言者だと信じる信徒は存在しない。また、母体の国際キリストの教会のいかなる指導者であれ、キップ氏がモーセに比類できる預言者と信じる人は存在しない。

ガラテヤ1:15でパウロは、「わたしを母の胎にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と表現し、エレミア1:5やイザヤ49:1を読者に想起させ自らを旧約の預言者の召命と重ね合わせて考えている。東京キリストの教会が教会運営の本質を愚直に使徒言行録に置く信仰を基礎とすることを鑑みても、初めに教会を設立して信仰の基礎を据えたキップ氏が、自らを使徒的役割の後継者としての伝道者を意識していたのは当然だ。さらに、使徒言行録は神の主導による宣教が大きなテーマとして流れている。パウロは自分の回心、召命、使徒職が人間ではなく神の権威に由来すると確信する。また、これはエルサレム教会の主だった人々に承認されている(ガラテヤ2:7-9)。キップ氏が自らを神の運動の指導者と呼んでも、神から与えられた代行権威の範囲を逸脱していない。宣教の本質は神の主導にあり、神の権威なくして福音宣教はできない。キップ氏が「神の指導者」と呼ぶのは、「神の代行権威として神の権威を帯びた者」という意味であり、自らを神に等しい者だと主張しているのではない。教会は神の権威を分与された存在なのだから、その指導者が神の権威の代行者であるのは当然だ。すべての教派の指導者も、自らを神の権威の代行者と捉えている。国際キリストの教会の指導者であるキップ氏が自らを“神の運動の指導者”と呼んでも異常な発言ではない。ポーター氏がキップ氏をあたかも教祖のように表現するのは可笑しなことだ。

使徒言行録に記された原始教会において、預言者の役割を果す一般信徒は数多くいたし(1コリント14:31)、預言は啓示として考えられ(1コリント14:30、ガラテヤ2:2)、教会は啓示を基礎に運営された。使徒的役割を担う伝道者であるキップ氏が自らを預言者に擬え、同様に他の指導者に対し「預言者のような指導者」に成ることを望んでも聖書に違反しない。但し、信徒数の増加につれて、キップ氏や他の指導者が傲慢になり、神の中間権威が芽生え神の権威を汚す傾向が現れ始めたことは事実(「ディサイプリング研究会によるアンケート調査」【平成15年9月21日~28日】に拠る)だが、指導者自らが「神の代行権威」ではなく「神の権威」だと主張した例は一切ない。

第一部 ②

人が救われるために一連の聖書の学びを全うすることを義務付けているのは、使徒言行録にはなく、バプテスマの前に対価を要求することは使徒言行録の慣行に反している。使徒言行録では、信じてバプテスマを授けられて救われた

(反論)
ポーター氏が述べる「一連の学び」とは『基本的な教え』(First Principal)のことで、日本では「信仰の土台のクラス」と呼ばれる未信者に聖書を教えるテキストだ。アメリカでは「御言葉」か「復活」のクラスから勉強が始まり、日本の文化では聖書のバックグランドがないために、東京キリストの教会が独自に作成した、聖書の概要を教える「イエスの1」、イエスの性格を学ぶ「イエスの2」、信仰とは何かを学ぶ「イエスの3」、さらにはイエスの復活を学ぶ「イエスの4」、神を求めることを臨機応変に学ぶ「Seeking God」のクラスがあった。アメリカでは日本よりも使用される聖句の数は多く、「ACTS」といって他教派との教えの違いを学ぶクラスあったが日本では必要性が低いので設立当初に廃止した。

東京にミッションチームが派遣された1988年には「信仰の土台のクラス」は存在せず、聖書を学ぶ未信者はヨハネの福音書を読み、イエスは神の子と信じれば直ちに「罪」と「イエスの十字架」の勉強をした。この定式のない聖書の勉強によって洗礼を受けた人もいたが、ほとんどはイエスに対する信仰が不安定で受洗後しばらくして教会を去った。安易な洗礼で信仰を混乱させた経験から、「信仰の土台のクラス」を作成した。

東京キリストの教会は万人祭司制を信じ、一人ひとりの一般信徒が聖書を未信者に教えるので、未信者に対して何を教えて何を教えるべきではないかを教会として明示する必要がある。ヨハネの福音書を読んでイエスが神の子と信じるだけでは、十分に自らの罪を神の視点から自覚し、イエスの十字架の奥義を悟ることができない。さらに、聖書のバックグランドのない日本人は、「多神教の神と聖書の神との違いは何か」「旧約と新約との違いは何か」「イエスとは誰か」など聖書の基礎的な事柄を理解していないので、それらを教える必要があった。また、聖書に精通した信徒が未信者に教えるのであれば、聖書を学ぶ人の必要に応じ自在に教えることができる。東京キリストの教会はすべての信徒が聖書を未信者に教えるので、未熟な信徒でも「信仰の土台のクラス」の定式に従えば聖書を教えることができ、福音伝播の大きな力になった。つまり、「信仰の土台のクラス」は教会の基礎信仰を表すために作成されたのではなく、教会の宣教の手段の必要に応じ「政策判断」として作成されたのだ。さらに、「信仰の土台のクラス」は未信者の必要に応じ、柔軟に運用された。要は「イエスが神の子で、自分の罪のために死んで三日目に復活した。この信仰を伴う洗礼によって自分のすべての罪が赦され賜物として聖霊を受ける」という信仰を持つことを目標にし、手段として用いられた。また、新約聖書のパウロなどの手紙には、決まり文句のような表現が多々出てくる。これは信徒教育、バプテスマのときの信仰告白について、地域間の教会群には“定式のような言葉”があったからだ。つまり、「信仰の土台のクラス」という定式を教会が義務付けることは聖書に違反していないし、使徒言行録の教会の慣行だった。現在の日本の他の教派でも、未信者を信仰に導く定式の聖書勉強が存在する。

さらに、ポーター氏は「洗礼の前に、使徒言行録では、対価を要求しておらず、人は信じて洗礼を受け救われるべきだ」と主張する。これは基礎的な知識の欠如から生じる曲解だ。使徒言行録の時代のユダヤ人は、幼い時から律法に従う生活を徹底して学び旧約聖書に熟知していた。旧約聖書に基づきメシアを待望したのでイエスがメシアである確信に至った時点で洗礼を受けるのは自然なことだ。使徒8:4-25からサマリア伝道が開始されるが、サマリアでは異なる信仰があるものの(ヨハネ4:20)、信仰は旧約聖書を土台とし、「キリストと呼ばれるメシア」を待望した(ヨハネ4:25)。パウロの宣教旅行は世界中に散在するユダヤ人を主な対象とし、各町の会堂中心に福音を伝えた。ローマ書全体を読めばパウロの宣教の優先がユダヤ人にあり異邦人に対するユダヤ人の優先性が読み取れる。使徒28:28-30で、「この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。~全く何の不自由もなく、神の福音を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」とあるが、これは福音がユダヤ人から異邦人に移ったというルカの教会史観を象徴的に示す。即ち使徒言行緑の時代でもユダヤ人への宣教が中心であり、彼らにとってイエスが約束のメシアであることを悟れば直ぐに洗礼を受けるのは当然だ。

新約聖書には異邦人改宗者が登場する。イエスはファリサイ派を非難して、「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩く」(マタイ23:15)と語っているが、これはイエスの時代には異邦人のユダヤ教改宗が常時あり(ヨハネ12:20、使徒2:11)、異邦人への宣教が盛んで、改宗する場合は浸礼と割礼を受け、律法遵守を告白していた。「『解放された奴隷の会堂』に属する人々」(使徒6:9)、聖書を朗読していた「エチオピア人の宦官」(使徒8:27)、「神を畏れる」百人隊長(使徒10:2)などは異邦人のユダヤ教改宗者で、使徒たちの世界宣教の下地になった。最も分かりやすい例は、イザヤ書を朗読していたエチオピアの宦官だ。この宦官のように改宗した異邦人は切にメシアを待望していたので、イエスがメシアである確信に至った時点で洗礼を受けるのはごく当たり前だ。

従って、使徒言行緑の回心の例を根拠に、洗礼の前に対価を要求することを誤りではない。日本人は聖書のバックグランドがないので、「信仰の土台のクラス」で慎重にイエスにつながれた生活を経験することは異常ではない。以下は、バプテスマの準備に関する参考資料として、アラン・クライダー著「初代教会の宣教」(大野和子編訳)http://anabap.tripod.com/akrider1/index.htmからの抜粋。

旧約聖書では、信仰を告白するとすぐにバプテスマを受ける記事が出ています(たとえば使徒8:26以下)。すでに聖書(旧約)を読んでおり、神の働きについてある程度の知識を持っている人たちの場合は、それでよかったのですが、ローマ帝国の異邦人に宣教する場合は、違ってきました。215年頃、ローマで書かれたヒュポリトゥスの『使徒伝承』という文書の中に、バプテスマについての記述があります。それによると、バプテスマの最初の段階は、非常に長い準備の期間でした。これは真剣な訓練の時、志願者にとっては気落ちして脱落してしまうこともあるような厳しい期間でした。ほんとうのバプテスマの志願者とそうでない人を区別する、いわば「草むしり」のような期間だったと言っている学者もいます(Robert Webber, "Ethics and Evangelism: Learning from the Third-Century Church")。

東京キリストの教会は“政策判断”として「信仰の土台のクラス」を導入した。教会の基礎信仰として「信仰の土台のクラス」を用いたのではなく、教会の福音宣教の必要性をもって教会の政策判断として、未信者の信仰育成と確認のために用いた。この政策判断が聖書に違反しているとはいえない。尚、ポーター氏が指摘する、教会が要求する対価の内容については、個別のことであり東京キリストの教会で一律に為されていない。

第一部 ③

「御言葉」の項目において、教会は2ペテロ1:19‐21の聖句をもってキップ氏の聖書解釈に従うことを求めている

(反論)
東京キリストの教会に聖句に対する一つの解釈しか存在しなかったことはない。キップ氏の解釈を一方的に押し付けられたこともなければ、キップ氏の聖書解釈がいかなるものかさえ知らない。信徒は自由に聖書解釈に関する書物を読むことができるし、読むことを指導者から禁止された例はない。聖書学び会などの小グループの集まりでは各々の確信により自由な解釈を発言し、その発言をむやみに否定する人もいない。

1990年、信徒の聖書に対する知識を深める目的で、東京キリストの教会は推薦図書を発表した。J・ガーガナス氏による推薦で「聖書ハンドブック」(ヘンリー・H・ハーレイ著)などの古典的ベストセラーの書物が多く、そのすべてが他教派の出版物だった。また、東京キリストの教会の出版物のなかで、一定の教義を示すものや聖書解釈書は存在しない。これは聖書の知識を無視しているからではなく、「使徒言行録の教会」を理想とするため、キリストの教会系の特徴として「教会の教義を敢えて明記して持たないのが教会の教義」という聖書思想があるからだ。他教派の「教憲」「教規」と比較すれば、これは明らかとなる。他教派では教義について詳細に記されているが、東京キリストの教会では唯一文書としてあるのは、「新約聖書に啓示されたイエス・キリストの福音を宣べ伝え健全なる信仰を養う使命を遂行する為の業務を行うこと」(宗教法人 『東京キリストの教会』規則 第1章 第3条 【目的】)だけで、これは宗教法人の認可を得るために長老派の教会の教規をコピーしたものだ。東京キリストの教会には教義らしい教義は存在せず、各教会は聖書を基にした自由な判断に委ねられている。

教義や聖書解釈に関する公式の文書が存在しないのは、明文化されると各教会の自由な運営の妨げになると考え、教会運営の自由さを保とうとしたからだ。会衆制の各教会が各個教会主義の下に完全自治を持ち、聖書解釈も各教会の自由なのだ。環太平洋の元主任牧師も同様の認識を示し、信徒に教えた。各教会が必要に応じて柔軟に対応できる職制を考え、聖書に違反すること以外は一定の公式や伝統から自由になることを基本とした。従って、東京キリストの教会の「政治」「行政」のあり方は、毎年のように変化を繰り返し、時々に状況に対応できる柔軟な組織体だった。

ポーター氏の「国際キリストの教会がキップ氏の解釈のままに受け入れるしかない」という主張は全く事実に反する。「信仰の土台のクラス」が聖書ではなく教会の鋳型にはめようとする意図はない。そもそも教会の鋳型といっても、鋳型自体が存在しない。ポーター氏の主張するキップ氏の私的解釈が「信仰の土台のクラス」だとするなら、市販の聖書解説書を購入して「信仰の土台のクラス」で使われる一つひとつの聖句を調べれば、私的か否かは明らかだ。「信仰の土台のクラス」を私的解釈とする理論を推し進めるなら、すべての教派の聖書解釈は私的解釈となる。これは議論すべきことではなく、実際に聖書解説書を開いて自分の目で確かめてみれば、「信仰の土台のクラス」が極めてオーソドックスな信仰であると理解できる。

第一部 ④

“弟子=クリスチャン=救われる”という図式は、誤りである

(反論)
「弟子=救われる」
以下は、日本キリスト教界のギリシア語の権威である岩隈直著の『新約聖書マタイ福音書下』(山本書店)のマタイ28:18-20の解説からの抜粋。

「洗礼を授けなさい」と「教えなさい」(*注:原文はギリシア語)・…、これは「弟子にせよ」と並列的なもの、「そして…せよ」か、あるいは従属的で、方法・手段を表すものか、その具体的行動を示すものか、「…教えながら」(塚本訳)、「弟子にせよ」は、不定過去命令で、これらは現在分詞だからそのように解するのが自然であろう。
「弟子にせよ」は「包括的責務を述べ、『洗礼を授けなさい』と『教えなさい』(*注:原文はギリシア語)はそれぞれその一部をなす」とM‘-Neilは言う。Klostermannは「弟子にせよ」(*注:原文はギリシア語)は、洗礼という一回的行為と継続的教えによって成し遂げられると言う。なお彼は、「教えなさい」は「洗礼を授けなさい」の条件としても従属されるべきかとも言う。

その他ギリシア語の解説書のすべてが上記の岩隅氏の解説と内容的にほぼ一致し、「弟子にしなさい」という語は、「洗礼を授け」と「教えなさい」を内包するとされている。つまり、人が救われて天国に行くには、イエスの「弟子」とならなければならず、その弟子となることの中に「洗礼」と「継続的に教えられる」ことが含まれる。また、ポーター氏は同じ大宣教命令のマルコ16:16-17を引用し東京キリストの教会の基礎信仰を批判する。イエスはイエスの弟子でなくても「信じて洗礼を受ける者は救われる」と語っているので、洗礼の前にイエスの弟子になることを教える教会の基礎信仰は誤りだと批判するが「信仰」する根本的な認識不足がある。以下は『旧約新約聖書大事典』(教文館)の「信仰」の項からの抜粋。

信仰を律法と関連させて、律法への遵守と解した。~一般的に新約の信仰概念の背後には強い旧約的思考の伝統があり、~ 

新約聖書の「信じる」や「信仰」という意味には「律法遵守」の意味が既に含まれており、それはコインの裏表のような関係であって、「信仰」に「行い」が従属するという意味ではない。イエスを信じるとは律法の完成者であるイエスの言葉に完全に服従することを意味する。「信じて洗礼を受ける」ー。この言葉には既に「律法遵守」、即ちイエスの言葉への完全な服従の意味が含まれる。従って、マタイとマルコの大宣教命令の本質的な意味は同一だ。観念的にイエスを信じるだけでイエスの言葉に部分的にしか従おうとしない人が、救われるわけでは決してない。さらに、パウロは「律法の実行ではなく、信仰によって義としていただく」(ガラテヤ2:16)と述べているが、この聖句は観念的にイエスを信じるだけで救われるとパウロが主張しているのではない。この聖句に対する『新約聖書注解』(日本基督教団出版局)の解釈を抜粋する。

パウロによれば、人間が<神の子・メシア>キリストに全幅の信頼を置き、自己の全てを無条件に委ね、また従順を尽くすこと、一口で言うなら、「キリストに対する全面的自己委任(帰依)に他ならず、そして、洗礼と関連し、不可分の関係にあることによって(ガラテヤ3:6‐27、コロサイ2:12など参照)人間を「キリストとのペルソナ的関係」にあるものとさせる

パウロの信仰による義とはイエスへの絶対服従の意味が含まれ、イエスの弟子となることを意味する。パウロはイエスを観念的に信じるだけで救われるとは主張していない。「律法の実行にではなく、信仰による義」とは、律法の実践で救われるのではなく、律法の完成者であるイエスにすべてを帰依することで救われるという意味にほかならない。ところが、ポーター氏は観念的にイエスを信じているだけで救われると解釈する。これは通常の福音理解ではない。氏の聖書解釈には「教会が『行い』について教えること=律法的」という図式がある。氏に拠れば、弟子訓練を実施する諸教会はすべて、律法的な教会となる。教会が信徒に霊的養育義務を持つと捉え、信徒がより聖なる者として神の御前に立てるよう努める諸教会は氏の聖書解釈は到底受け入れることでできない。氏が主張する信仰は「葬式キリスト教」のようなものだ。仏教の教えも何も知らないが葬式だけ仏教式で執り行えば天国へ行けると信じる信仰と同質だ。

ヨハネの福音書でイエスの関係において使われる「知る」という言葉は単なる知的理解を示すだけではなく、「全人格的な交わり」や「愛」と重る。「信じる」より意味が深く同福音書で中心的な役割を持つ。また、マタイ8:22の「わたしに従いなさい」という表現は元来ラビの弟子入りの用語だが、ラビの場合は律法とその解釈を習うため弟子入りをする。つまり、ラビの人格を目標とするのではなくラビの教えを覚えるため弟子入りする。一方、イエスの弟子入りは教えを習うことが中心ではない。イエス自身を生き方と生命の中心を学ぶことを目的にする。ルカ9:60「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」はエリシャがエリアに弟子入りする場面(王上19:19)と対称的に表現されており、イエスに従うことは父と家族の絆(血縁で繋がれた関係~ユダヤ教)から離れて神の国を宣教することを意味する。

イエスの弟子なら、イエスの肢体である教会の礼拝に最善を尽くして参加し、他の信徒を愛し、罪を避け、より深く聖書の御言葉を学び、愛する神に祈るはずだ。「弟子」の意味は日曜日だけでなく毎日、しかも24時間従うことだが、これは律法主義的な信仰ではない。確かにポーター氏が強調する通り、イエスの十字架による無条件の罪の贖いは人間の想像を超える圧倒的なものだが、氏は神が人間の「行い」によって罪を裁くことを無視する。イエスは「行い」によって神が裁くことを教え、マタイ16:27では「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いる」とあり、さらに、マタイ19:28は「人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」、マタイ25:45‐46は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことである。こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」ーなど、聖書で行いによって神が裁くことを示す聖句は数多い。イエスが再臨する時、行いに応じ裁きを受ける。どれほどイエスの愛を観念的に信じていても、神は行いの伴わない信仰を裁く。「イエスを信じている」とは必ず「行い」と表裏一体であり、イエスを信じていると言いつつ、罪深い生活を送ることを聖書は許していない。また、マタイ13:24‐30の「毒麦の譬え」では終わりの日に教会内の悪を裁くことを教えている。教会に所属しているだけで救われるのではない。個々の信徒がイエスに結ばれていなければ救いを得ることはできない。さらに、ヨハネ福音書8:31でイエスは「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人にたちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である』」と語る。この聖句に対する『新約聖書注解』(日本基督教団出版局)からの抜粋は以下の通り。

ヨハネ教団の信仰告白、福音理解に堅くとどまることがキリスト者としての資格だといっているのである。~省略~ 注意したいのは≪本当にわたしの弟子である≫ということの裏側には偽のわたしの弟子がいるということを予測している点である。表面的な信仰をもったユダヤ人たちは ~省略~ キリスト教にはっきりと帰属することについては動揺し、ユダヤ教にとどまろうとした。~省略~ 同時に崩壊しかかっている彼の教会を再建するために、福音を鮮明にし、その福音にとどまる者たちは本当のイエスの弟子なのであることを宣言している。ここに牧会の意図があったのである。

「とどまる」とは、「従う」「服従する」という意味だが、ヨハネの福音書にはイエスに「従う」「服従する」かどうで「闇と光に分割される」という二元論が根底にある(特に14章・15章)。観念的にイエスを信じる人が救われるのではない。イエスは終わりの日に裁きを行い、観念的にイエスを信じる人と、真実にイエスの言葉に服従する人を分割する。従って、「弟子=救われている」という東京キリストの教会の基礎信仰は聖書から判断して正しい。

「弟子=クリスチャン」
教会史においてクリスチャンの生活は「イエス・キリストに似たものとなる」(エフェソ5:1ー5)という理解が一般的だ。クリスチャンという意味はキリストの弟子となる、つまり、イエスに従うことだ(使徒11:26)。もっともクリスチャンという言葉は当初、「イエスに従う変な奴ら」という侮蔑の意味があった。また、「イエスに従う」とはイエスが救い主として神の命令に完全に従った(ヘブライ4:15)ように生きることを要求する。クリスチャンがイエスの弟子を意味するのは明確だ。故に「弟子=クリスチャン=救われる」という図式を東京キリストの教会が基礎信仰として教えることは聖書から判断して正しい。最後にポーター氏は、「マルコの福音書は、マタイの福音書より救いに関してハッキリしているのに教会ではマルコの大宣教命令を用いようとしないのは、真実を覆い隠そうとするためである」と批判するが、覆い隠すといっても、福音書の記述を覆い隠すことができるわけがない。

第一部 ⑤

「信仰の土台のクラス」では、洗礼の前に「弟子」の勉強を行い、イエスに従うように教えるのは、「行い」を洗礼の条件としている

(反論)
過去、東京キリストの教会は救いの条件に「行い」が必要とする信仰を有したことはない。実際、全く身動きができない障害者や病気の人にも洗礼を授けていた。「信仰の土台のクラス」の「弟子」の勉強は、イエスに従う人生を具体的に学ぶことを目的とし、最後にイエスに従いたいかどうかが確認される。いうまでもなく、この勉強によりイエスに従う決心をしても自動的に罪が赦され救われるわけではない。また、この勉強で学んだことをどれほど実行しても自動的に救われない。ましてこの勉強は「洗礼のための条件」ではない。その証拠に1989年に「信仰の土台のクラス」が作成され、教会で未信者の聖書の学びに使用されたたが、その当時は最後の「教会」の勉強と「イエスの十字架」の勉強の間に「弟子」の勉強が行われ、聖書の言葉の「行い」なしに洗礼が授けられた。教会設立当初、使徒言行録の洗礼について教え、洗礼を赤ちゃんが生まれることに譬え、信仰があれば直ぐに洗礼が受けられると強調した。イエスの十字架を学び、イエスの弟子となる決心があればすぐに洗礼を受けるべきと考えたからだ。

ところが1990年、受洗後の信徒に信仰生活への戸惑がみられ、教会を去る人が多かったので、「弟子」の勉強を「罪」の勉強の前に変えた。イエスに繋がれた生活を体験し、心からイエスに従う信仰を育て吟味するためだ。この変更に際して、その理由について環太平洋の元主任牧師は、「日本人のメンタリティーのことを十分に理解しておらず、アメリカ人と違う日本人の聖書的バックグランドの無さを考慮していなかった。イエスに繋がれた生活を一定期間送ることによって、受洗後の信仰生活に戸惑うことがないようにし、イエスに対する確信をより深いものにする」との趣旨を説明した。この変更は未信者の信仰の必要に応じながら確かな信仰を育てた上で洗礼を授ける方針を定めた。一時的な高揚感で洗礼を授けるのではなく、受洗する信徒に対し長期的な視点で信仰の責任を取ることになった。その結果、教会を離れる人が激減し、教会全体の信仰も強まった。さらに、イエスへの確信と愛が十分にない状態のままで罪の勉強をすることから起こる様々なトラブルも減少した。「弟子」の勉強を「罪」の勉強前に行うことにしたのは、救いの条件に「行い」があるからではなく、日本人の実情に合わせてより深い確信で洗礼を受けるためだ。

ポーター氏は東京キリストの教会の母体である国際キリストの教会で洗礼を受けた体験について「そして日曜礼拝にまだ出席もしていないのに、1996年に洗礼を受けました」と述べている。氏自身が「弟子」の勉強にある「教会に毎週通う」ことがない状態で洗礼を受けたと証言しているのだ。母体の国際キリストの教会が洗礼の条件に「行い」がなかったことは明白だ。東京キリストの教会でも基礎信仰として「行い」を洗礼の条件としたことはない。

以下の参考資料を参照すれば、ポーター氏の主張とは逆に、東京キリストの教会がかなり信仰育成の早い段階で洗礼を授け、一方、他のプロテスタント系諸教会は一定期間、を聖書に従う人生を歩んでから洗礼を授ける傾向が強いことが理解できる。他のプロテスタント系諸教会では、一年に2回、イースターとクリスマスに洗礼を授けることが多く、東京キリストの教会は初期の頃、洗礼を教会の行事にあわせて洗礼を遅らせることに批判的だった。出産と同じように、洗礼を受ける人の心が整い次第直ぐ、夜中であっても洗礼を授けるべきだと考えた。これは使徒言行録の洗礼の実例と一致する。東京キリストの教会が「行い」を救いの条件とすると批判するのであれば、他のプロテスタント系諸教会を東京キリストの教会と同様に批判するべきだ。

以下の通り、現在のプロテスタント系の諸教会でも、東京キリストの教会の「信仰の土台のクラス」における「弟子」の勉強に対する思想と一致する政策がとられている。

1)日本基督教団
教規 第135条
「信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない」
教規 第136条
「陪餐会員とは、信仰を告白してバプテスマを領した者、または未陪餐会員で堅信礼または信仰告白を了した者をいう」
2)日本基督教改革派教会
教規 政治規定 第30条
「教会員は、陪餐会員及び未陪餐会員に分けられる」
訓練規定 第8条 (成人の未陪餐会員への配慮)
「教会は彼らに契約に対する責任を軽視することの罪と危険とを警告しなければならない」
3)日本同盟基督教団
教規 第96条
「信徒は陪餐会員及び未陪餐会員に登録しなければならない」
4)日本自由メゾシスト教団
教規 第300条
一 正会員
「正会員として入会許可されるためには、次の条件を満たさなくてはならない。すなわち、一般規則に従うことによって、心の新生の証拠を示し、総会が要求する正会員となるための教育を少なくとも三ヶ月受け、バプテスマを受け」
二 准会員
「悔い改めにふさわしい実を結ぶことによって、来ようとしている怒りからのがれたく願っていることを示し、また准会員受け入れ所要の質問に賛成の答えをしなければならない」
以上のようにプロテスタント系諸教会はイエスを神の子として受け入れ信じていても受洗に至らない人と、完全にイエスを主として受け入れて洗礼を受け、イエスの言葉に従属する信徒とを区別している。これは洗礼を受ける人にイエスの繋がれた人生を歩むことを求め、歩んでいることを教会が確認することに他ならない。この基本原則を採り入れている教会は、事例を挙げた教派の外に多数存在する。聖書の勉強中にイエスの言葉の実行を求めるのは異常ではなく、プロテスタント系諸教会でも一般的な考え方で(この教規を守っているかどうかは別問題だが)あり、聖書に即している。このような区別があったほうがより健全な形での洗礼を授けられるからだ。

第一部 ⑥

ディサイプリング制度をイエスの救いの条件としている

(反論)
ポーター氏はディサイプリング制度を東京キリストの教会の教義と主張するが、これは明確な誤りだ。ディサイプリング制度は「制度」であって基礎信仰ではない。そもそもキップ氏が母体となる国際キリストの教会を創設した当初は「祈りパートナー」だった。教会の急速な発展(6年間で30人から2000人に増加)に伴い、ディサイプリング制度を導入した。しかし1991年、東京キリストの教会では同制度を一時的に止め、祈りパートナー制度に変更し、2人ではなく小グループで信仰を強め合うようにした。当時、環太平洋の元主任牧師はディサイプリング制度を止めた理由について「信徒間に上下関係等の弊害が現れ、教会内に先輩後輩の関係が現れてきたこと」と説明した。「アメリカと違い日本や韓国は儒教の影響が強くあり、上下関係を築きやすい」と強調していた。その6ヶ月後、ディサイプリング制度は復活する。環太平洋の元主任牧師は復活させた理由を、「ディサイプリング制度を止めて、かえって教会の霊性が落ちてしまった」と説明した。また、ニューヨークの教会でもディサイプリング制度を止めて教会の霊性が低下したことも報告した。つまり、教会としてディサイプリング制度を基礎信仰として絶対視していない。ディサイプリング制度が基礎信仰であるなら、教会設立当初から存在したはずだし、簡単に止めたり復活させたりしないはずだ。
ただし、信徒が神の代行権威に従うことが神に従うに繋がることだと教会として教えーこのこと自体は全く正しいーていた。これを過剰なほど強調し、ディサイプリングを実践する人のアドバイスがあたかも神の御心であるかのようになり、多くの信仰の弊害をもたらした(「ディサイプリング研究会によるアンケート調査」【平成15年9月21日~28日】に拠る)。指導者たちは次第に「ディサイプリングチェーンに繋がれていなければ信徒ではない」と教えるように変容してしまった。

確かにディサイプリングパートナーを持たなければ信徒ではないという考えは誤りだが、信徒が唯我独尊で信仰を持つことを聖書は許していない。すべての信徒はイエスの肢体としての信徒の共同体である教会が必要で、パートナーやグループ、教会全体からであれ謙虚に学ぶ必要がある。ディサイプリングの制度に合致しない人は救われないとはいえないが、信徒間同士の互いに学び合う関係が必要だと、数多くの聖句が示している。

第一部 ⑦

教会が神の国(天国)だという考えを植付けようとしている

(反論)
東京キリストの教会は教会を天国の「写し身」と捉え、「教会=神の国(天国)」という基礎信仰を持ったことはない。教会が天国に等しい存在であることを、一体だれがまともに信じるのか。人間は地上に存在する間はただの罪人であり、苦しみや悩みを抱えながらひたすら神の国に入れることに望みを置く旅人に過ぎない。教会が天国のごとき完全であると、信じている信徒は存在しない。

この批判の根拠は、東京キリストの教会が教会のことを「御国」と呼ぶことに起因している。そもそも、御国という語には様々な意味がある。以下は『旧約新約聖書大事典』(教文館)「神の国」の項からの抜粋。

しかしこの概念は新約のすべてにわたって出てくるわけではなく、またいつも同じ意味であるわけでもない。~省略~問うべきことは、当時の宗教的言葉遣いにおいて非常に多く語られていた「神の国(天の国)」という概念に対して、イエスがどのような姿勢をとったか、ということである。そう問えばおのずと、イエスの様々な発言はユダヤの概念に対する逆説的批判であることが見えてこよう.

聖書で神の国という言葉が数多く出てくるが、絶えず同じ意味で使われていない。教会を「御国」と呼んだところで聖書に違反しない。そしてポーター氏は、教会が「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)の聖句を使い、神よりも教会の活動を第一とすると批判する。しかし、神の国の写し身である教会を、世の中よりも第一に求めることは、神を第一とすることとなる。

1ヨハネ4:20‐21では「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」とあり、この聖句を教会にあてはめると、「目に見えるイエスの肢体の教会を愛さない者は、神を愛さない者」であり、「目に見えるイエスの肢体の教会を求めることは、神またはイエスをも求めること」になる。つまり、神の国の目に見える写し身である教会を第一に求めることは、目に見えない神の国を求めることになる。ポーター氏は東京キリストの教会が教会活動に信徒を駆り立てるためにマタイ6:33を濫用しているかのような書き方だが、基礎的な事実認定が間違っている。

第一部 ⑧

罪を告白することは、救いの条件ではないので、洗礼の前に罪を告白することは聖書的でない

(反論)
ポーター氏は、罪の告白が聖書的ではないと断定するが、聖書では、原始教会において信仰の最も重要な信仰の要件である。以下は、『旧約新約聖書大事典』(教文館)から「罪の告白」の項からの抜粋。

<新約聖書>では、(ex)homologeomaiというギリシア語が罪の意味で用いられていることは、さほど頻繁ではない(マルコ1:5並行ではバプテスマのヨハネの場合、使19:18、ⅠヨハネⅠ:9、ヤコ5:16)。しかし、イエスの福音と、原始キリスト教の教会生活において罪の告白は確固たる地位を占めている。(上掲箇所およびマタ6:12並行ルカ5:18、15:18、18:13、24:47、ロマ2:16、3:16、Ⅰコリ14:25、ガラ1:4、Ⅰヨハ1:8 以下省略 )

以下は、『旧約新約聖書大事典』(教文館)「神の国」の項からの抜粋。(旧約聖書では、事例が多すぎるので主だったもの例を挙げてみる)

罪の告白は贖罪の儀式(レビ16:21)、聖絶の執行(サム上15:24‐25)、神殿における召命(イザヤ6:5)、告白の場として神殿の指定(王上8:31以下など)に関連する。

洗礼の前に罪の告白をすることは聖書的な行為だ。ポーター氏が主張するように、東京キリストの教会が聖書に付け加えた行為ではない。罪の告白は贖罪と関係し、原始教会では一般的に為された。カトリックでは教会によって、礼拝堂内に懺悔する小部屋があり、神父は告白した信徒の贖罪を仲介する。

また、未信者に対する「信仰の土台のクラス」の「罪」の勉強で罪のリストを書く理由は、自分の罪を神の目から見て罪とは何かを学ぶためであり、罪のリストを書く行為は救いの条件ではない。聖書を学ぶ未信者によっては、罪のリストを書かず口頭のみの罪の告白もあった。即ちポーター氏が主張するように罪のリストを書くことは、東京キリストの教会が定めた「政策判断」で行われており、教会の「基礎信仰」の問題ではない。

例えば、ほとんどのプロテスタント系諸教会では、信徒がタバコを吸うことを禁じている。だが、カトリックの教会の神父はタバコを吸うことを許されている。タバコはイエスの時代には存在せず、必然的にタバコを禁じる掟は聖書に存在しない。プロテスタント系諸教会が信徒の喫煙を禁じるのは、神殿とみなされる信徒の肢体の健康維持を鑑みて、教会が政策判断を下した結果だ。将来、健康に良い影響を与え、中毒性の無いタバコが開発されたら、教会の政策判断として喫煙が許されるかもしれない。同様に東京キリストの教会が罪のリストを書くのは未信者の信仰に良い影響を与えると政策判断したからであって「救いの条件」としてではない。

ポーター氏が主張する通り、すべての人の罪は既に神に知られている。しかし、人間は人間の目から見た罪と、神から見た罪との区別が容易にできない。特に多神教の影響の強い日本人にとって、創造主である神の目から見た罪を自覚することは容易ではない。自らの罪とイエスの贖罪を結びつけ、イエスの十字架の奥義を悟るためには、イエスに対する揺るがない信仰と自分の罪に対する正確な認識を要するのだ。
罪を告白して明らかにすると、自らの罪を深く自覚できる。洗礼は罪をイエスの十字架につけて自らの罪を滅ぼし、イエスの復活に預かり新生し、イエスを主としてイエスに結ばれる(ローマ6:1‐11)。何が神にとって罪であるかを深く自覚しなければ、イエスの十字架により罪が滅ばされても、受洗後その罪は復活し、イエスではなく罪がその信徒を支配し始める。受洗後の信仰生活を考えれば洗礼前に罪の自覚を十分に持つこと重要だ。洗礼前に罪の自覚が十分にあれば、確信深くイエスの十字架の贖いに感謝し、洗礼によって新生を固く確信できる。このために東京キリストの教会は罪のリストを書くことを基本とし、「救いの条件」として実施していない。

第一部 ⑨

洗礼の前に罪を悔い改めることは、聖書的でない救いの条件である

(反論)
マルコ1:1は「福音の初め」として洗礼者ヨハネが登場する。彼は悔い改めの洗礼を宣べ伝え、イエスの到来までの準備をする役割を果たした。そして、イエスの福音を宣教し始めて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と語る。これはイエスの福音の要約となる。福音は洗礼者ヨハネから始まりイエスに受け継がれ(ヨハネ3:28‐29)、洗礼者ヨハネとイエスには連続性がある。洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼は、基本的にはイエスの洗礼に受け継がれる。以下は、『旧約新約聖書大事典』(教文館)「洗礼」の項からの抜粋。

福音書の報ずるところによれば、<ヨハネ>の行った洗礼は受洗者の悔い改めの表現であった(マコ1:4、ルカ3:3、マタ3:6)。これは、罪の赦しを与え、来るべき神の怒りから彼らを守るものであった(マタ3:7、ルカ3:7)。それゆえにそれは単に悔い改めた心情の抽象的表現ではなく、何よりも終末論的なサクラメントだった。

洗礼者ヨハネとイエスが宣べ伝えた福音には終末意識が強く働き、世の終わりからの救いを意味する。イエスの福音の「時は満ちる」という表現は、「一定の期間が満ちること、いわば満期の意。神の計画の中で定められている終末の救いの時」(『新約聖書注解』日本基督教団出版局)だ。イエスは終末の救いの時が近づいたからこそ、悔い改めの福音を宣べ伝えた。そして、イエスの洗礼も同様、目睫に迫った終末から救われる意味を持ち、罪による滅びから逃れるため神に悔い改めるように宣べ伝えた。
ポーター氏の根拠は使徒言行録の一部の箇所を取り上げ、洗礼の前に悔い改めていないので、「悔い改め」は救いの条件ではないとする。以下は、尾山令仁氏の著書「使徒たちの働き上」(羊群社)から使徒2:38の解説の抜粋。

さて、ペトロの説教に対して、好ましい反応を示した聴衆に向かって、まず自分の罪を「悔い改める」ことを勧めます。そして、いつもこの「悔い改める」と表裏一体をなしている「信仰」について教えています。ここでは、「イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい」という教えの中に含まれています。悔い改めのない生活は、結局のところ、自分の今までの生活を是認しているにほかなりません。~省略~悔い改めとは「ああ悪かった」という悔恨の情のことではありません。悔恨の念がどんなに深くてもイエスを主またキリストと仰ぐ方向へ方向転換をしていないのなら、その人の生活は、やがてはもとのもくあみになってしまいます。ですから、ほんとうの悔い改めには、必ず「信仰」が裏付けになっているのです。~省略~ 「イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい」とは、イエス・キリストの御名を信じた上で、バプテスマを受けてよいということです。(つまり、悔い改めとイエス・キリストを信じることが、バプテスマを受けることの前提であることが、ここで明確に説かれているわけです)

聖書の「信仰」という概念には、既に表裏一体として「悔い改め」という意味を内包し、これらを分離して考えることはできない。ところが、ポーター氏は「悔い改める」ことは救いに必要ではなく、ただ観念的にイエスを信じるだけで神はその人を救うと主張する。氏は「信仰」という言葉に対する聖書解釈は通常のものではなく、氏の主張を推し進めるとほとんどすべての日本のプロテスタント系諸教会は、洗礼の前に必要のない「悔い改め」という条件を押し付け、氏の言葉を借りれば“サタンの働き”をしていることになる。

さらに、ポーター氏は使徒2:38「罪の赦しのために」の「ために」という箇所のギリシア後の“eis”を目的ではなく、「考慮して」と解釈する。つまり、洗礼を受ける「目的をもって」悔い改めると解釈するのではなく、洗礼を受けることをも「考慮して」悔い改めなさいと解釈する。この解釈も通常のものではなく、日本で市販されているギリシア語での聖書解説本の中に氏と同じ解釈をするものはない。引き続いて、尾山氏の同書から使徒2:38の解説の抜粋。

他方、信仰がどんなに強くても、悔い改めに裏づけされていないのであるなら、それは、信じて、主を仰いでいるのではなく、自分の思いこみに過ぎず、結局は信念にほかなりません。そして、信念は信仰と違います。信仰は、たといそれが弱々しいものであっても、悔い改めによって裏付けされていますから、前進していきます。信念も後悔もなんら前進にはなりませんが、信仰と悔い改めは、前進し、神の喜ばれる実を豊かに結びます。

ポーター氏に拠れば、神が人間に為す救いを、「あなたが打ち砕かれ、罪に死んでいて、泥の中に落ち込み、“主よ、私を救ってください!わたしにはあなたが必要です!あなたを信じます!あなたはわたしの主です!おゆるしください!”ということで救われる」と解釈する。それではイスカリオテのユダは、イエスを裏切ったとき神に対する罪の心で一杯だったではないか。結局、彼が自らの命を絶つことで終わったのは、イエスに対する「信仰」と「悔い改め」が無かったからではないか。同じくイエスを裏切ったペトロは、復活したイエスのもとに真っ先に来て、イエスの復活を確信して、イエスが神の子であると信じる。そして、最後は主イエスのために殉教する。信仰と表裏一体の悔い改めは、ペトロと同様に前進し神の喜ばれる実を豊かに結び、ユダのようにはならない。この両者の違いを明らかだ。

ポーター氏の主張する「救い」の意味が正しいとすれば、氏が定義する「救い」を主張をしつつ殺人や嘘をつく等の罪を続けても救われるのか。こういう人のことを一般的に「偽善者」と呼び、決して「信仰者」とは呼ばない。本当の信仰は悔い改めが伴い、罪を悔いて主であるイエスの方に向かう。真実のイエスの信仰には「行い」が伴うが、悔い改めのない信仰は信念だけで行いはない。東京キリストの教会の悔い改めに関する聖書解釈は特異ではなく、一般的なキリスト教の通念である。氏には聖書解釈の常識から逸脱しており、その逸脱した立場から東京キリストの教会を“神の恵みを棚上げにしているサタンの仕業”と激しい言葉で教会の基礎信仰を非難するのだ。

第一部 ⑩

人がキリストを信じてバプテスマを受けるという決心を他人が吟味し、決定を下すということは、福音に反している

(反論)
繰り返しになるが、東京キリストの教会が基礎信仰として「行い」を救いの条件としたことはない。ただし洗礼の前には、受洗する未信者に対し「カウントコスト」と呼ばれるいくつかの質問をし、洗礼に相応しい信仰があるかどうかを確認した。目的は受洗後の信仰の混乱を無くし、より健全な形で末永く信仰生活を築けるようにするためで、「行い」を救いの条件にしたわけではない。離散前、「カウントコスト」に未信者の信仰を混乱させるような行き過ぎた質問があったのは事実だが、質問する行為自体が聖書に反していない。
聖書を教えたことも洗礼を授けたこともない人にとって、洗礼を授けることに対してより慎重になる意味は分らないだろう。また、ほとんど洗礼のない教会に所属する人にとって、洗礼を受けた人が直ぐに世俗の生活に染まり、信仰を失うことの苦しみは理解できないかもしれない。教会の責任として洗礼を安売りするのではなく、しっかりとイエスに根付いた信仰で洗礼を授けることは重要だ。

一人ひとりの信徒は神ではないので、聖書を学んでいる人の心の中を知ることはできない。未信者の生活の変化によって未信者の心を判断することは自体は正しい。東京キリストの教会では歪んだ形で運用されていた面があったが、バプテスマのヨハネが命じた「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)やイエスが語った「あなたがたはその実で彼らを見分ける」(マタイ7:15-20)という聖句に従い、未信者の生活の変化の結果を確認して信仰を判断することは聖書に即している。聖書を教える人は神の御前で洗礼を授ける人に対し責任を持って信仰の結果を検証する必要がある。一人の人の霊的な命がかかっているので、責任を重く受け止めるのは当然である。以下は、ヤコブの手紙からの抜粋。

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。(ヤコブ1:25)これであなたがたもわかるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。(ヤコブ2:24)

ヤコブの手紙はユダヤ教の文書と見間違えるほど律法が重要視され、「行い」が繰り返し強調される。最も際立つ特色は、「信仰」と「行い」に関する論議(2:14-26)だ。要約すると、「行いのない信仰は人を救うことができない」ということになる。一見してパウロが主張する「信仰による義」、即ちローマ3:28、ガラテヤ2:16などで述べられる「人は律法の実行ではなく、ただイエスキリストへの信仰によって義とされる」と矛盾する印象を持つが、ヤコブの著者の意図とはかけ離れている。ヤコブの手紙の趣旨は「パウロの主張した信仰による義の教えを誤解してパウロは行いを軽視したと曲解した人々が、反倫理的な行いをし、しかも自らキリスト者であることを誇ったことに対して、これを強く戒めるために本書を書いた」(『新約聖書注解』日本基督教団出版局)のだ。

この「完全な律法」とは福音自体を示し、「この福音は束縛を与えるものではなく自由をもたらすものであると主張されている。福音はそれが神の定められた生き方である限り律法であり、神の求められている最高の態度である限り完全であり、そうしてそれがわれわれを罪から解放し救うがゆえに自由の律法」(『新約聖書注解』日本基督教団出版局)と位置づけられる。そして律法である限りは「守る人」「行う人」が重んじられ、そのような人は「行いによって幸せ」(ヤコブ1:25)になる。ヤコブの手紙では、「信仰」と対立する概念として「行い」を強調するのではない。信仰とは抽象的な概念ではなく、具体的な形で現れると主張する。

つまり、イエスの「実によって木を知る」という教えと基本的に同じ意味だ。神を愛し洗礼を受けたいと願う人には、信仰の実があり、ここでいう実とは「伝道に行った」とかいう類ではなく、単純に「罪が嫌になった」「聖書によって心が変わってきた」「教会に行きたい」「聖書を読みたい」「自由と喜びを感じる」など、生活態度の変化だ。信徒は神ではないので、人の心のなかをすべて知ることはできないが、少なくとも罪に染まった生活を積極的に好み、そこから逃れたいという意志がないようでは洗礼に相応しくないといえる。

ヤコブの手紙は信仰生活に様々な啓示を与える。聖書は抽象的な概念だけで学ぶものではなく、現実の生活で実体験することを通し神について学ぶ。人は口先だけで良いことを言うことができる。しかし、実行する人は少ない。だから、「行い」によってその人の信仰を判断する必要があるのだ。聖書の信仰の父であるアブラハムは、息子イサクを捧げるよう神から命令された時、「次の朝早く」(創世記22:3)神の命令を実行に移す。他にもアブラハムの人生を通して神の御心に従う時に間髪を入れず「行い」をする。イエスは百人隊長やライ病を患う人などを多く癒すが、イエスは信仰を伴う人の「行い」を見て奇跡を行う。福音書では観念的にイエスを信じている人にはイエスの奇跡が働いていない。イエスは「行い」の伴う「信仰」を確認する(マタイ9:2など多数)。また、パウロはペトロが「福音の真理にのっとってまっすぐに歩いていない」(ガラテヤ2:14)のを見て「面と向かって」非難したのは、ペトロの「行い」がパウロの宣教した福音を実質上その本質と効果の否定に連なる行為と見て取れたからだ。この時すでにペテロは律法離れの方向に歩み出しており(使徒10:28、11:3)、愛餐のような公的に異邦人との食事を容認する信仰は持っていたが、ペトロの躊躇する「行い」に対しパウロは非難する。このとき、パウロの聖書判断は明らかに「信仰」と「行い」に区別は設けず、旧約聖書の伝統的な信仰を示す。「行い」を見て信仰を判断するのは聖書的だ。そもそも聖書の世界では「信仰」と「行い」を切り離し、「行い」を「信仰」に付随するものとする思想はない。両者はコインの表と裏のような関係であり不可分なのだ。

以下は、日本自由メソジスト教団の教規における洗礼前に信仰の結果を示すことを義務付ける規定。真実にイエスに繋がれた信仰には必ず正しい「行い」と信仰の「実」があることを示す

教規 第300条
一 正会員
「正会員として入会許可されるためには、次の条件を満たさなくてはならない。すなわち、一般規則に従うことによって、心の新生の証拠を示し、総会が要求する正会員となるための教育を少なくとも三ヶ月受け、バプテスマを受け」
二 准会員
「悔い改めにふさわしい実を結ぶことによって、来ようとしている怒りからのがれたく願っていることを示し、また准会員受け入れ所要の質問に賛成の答えをしなければならない」
 
第一部 ⑪

ディサイプリング制度におけるディサイプラーは、神の仲保者になっている

(反論)
「ディサイプリング制度におけるディサイプラーは、神の仲保者になっている」と聞くと、東京キリストの教会を知らない人はかなり異常な教会だと認識するが、このような事実は全く存在しない。以下は『旧約新約聖書大事典』(教文館)からの抜粋。

神と人間を仲介する存在で、自ら人間であるが、または神的起源を有する存在。~省略~ここではモーセが仲保者であることが否定的に評価されている。~省略~ここではイエスが「契約の仲保者」、すなわち、「救い」ないし「贖い」を仲介し、保証する者なのである。(ヘブライ7:22)

このように聖書で仲保者とは、明らかにイエス・キリストただ一人だが、なぜ東京キリストの教会において信徒が神の仲保者になるのか理解できない。東京キリストの教会では、罪の告白をディサイプラーだけではなく自由に誰にでも行うのが普通だった。それに信徒は罪を告白する相手をイエスに等しいものとみなして告白しない。ポーター氏は「イエスが使徒たちを教えられたという事実はわたしたちがイエスに成り代わって他者をイエスが教えたように教えるということを意味していません」と述べているが、この理論が正しいのなら、すべての教会の牧師、教師、伝道者、執事なども教会の信徒を教えることはできない。東京キリストの教会以外の教派でも小グループで弟子訓練を実施する教会では、聖職者として特別な訓練を受けていない小牧者の信徒が他の信徒を教える。氏にとってこれらの諸教会も極めて非聖書的な教会になる。使徒言行録の教会には、使徒、牧師、教師、伝道者、執事などの様々な神の代行権威が存在する。神の代行権威は文字通り神の権威を「代行」しているにすぎず、イエスのごとく神の権威そのものではない。氏はディサイプラーが神の権威であるとみなすのは、氏の個人的な経験からであって東京キリストの教会の基礎信仰ではない。ポーター氏は、ディサイプラーが聖書を教えることはヤコブ3:1に抵触すると主張する。この聖句の「教師」という語は聖職者という意味であって教会を代表する信徒を指す。ディサイプラーは教会を代表する信徒ではなく、東京キリストの教会を代表する聖職者を選ぶときは、教会全体の前で主任牧師が聖書を朗読し、教会全体の承認の下に任命したのでこの聖句に違反していない。教会を代表する聖職者以外の信徒が聖書を教えることを禁じる聖句はない。東京キリストの教会は聖書学び会と呼ばれた小グループ制度の下、弟子訓練の一環として小グループの指導者たちは聖書を教え、互いに学び合っていた。これが聖書に記述はないから非聖書的とはいえない。

ポーター氏は聖書に書いていないことを教会が実施すれば非聖書的と主張するが、実は氏の方が教会運営に対して規則主義的であって、氏の主張に拠ればその地域の実状とその時代にあった自由な教会運営はできない。聖職者以外の一般の信徒が誰にも教えてはならないのであれば、聖職者の権威が極めて強く、一般の信徒は聖職者に「教えられる」だけの存在であり、いささか奴隷的であるといえる。繰り返すが、教会が政策判断として聖書に書いてないことを実施しても非聖書的ではない。環太平洋の元主任牧師は牧会に関し「聖書の中で教会のリーダーシップに関する多くの役割については完全にはっきりしていません。これは聖句の弱さとは信じていない。むしろ、それぞれの時代や世界中の多様な文化によって一定の自由を与えてくださった神の知恵であると信じている」と主張し、東京キリストの教会は地域性に合せた牧会を行ったが、聖書に違反するものではない。

また、ポーター氏は「キリストは教会の構造がディサイプリングの構造のように意図されてなく、キリストが自らを神と人との間の仲保者としているだけだ」と述べる。しかし、使徒言行録には教会の構造に関する記述はない。各教派は会衆制、長老制、監督制などの制度を採り入れ、独自の組織構造を持つので、氏の主張に従えば現在のいかなる教会も聖書に違反していることになる。さらに、ディサイプリングチェーンのような制度を実施している教会は、日本でも東京キリストの教会以外の教派にも存在するので、この教派も氏によれば聖書に違反する教会になる。氏は“アナーキー(権威をもたない無政府主義的という意味)な教会”を理想としているようで、教会には一定の秩序が必要であるという認識がない。氏の教会観はパウロがコリントの教会に宛てた手紙をはじめとする聖句に反し、教会に一定の秩序をもたらすことは聖書に沿う。使徒言行録に使徒、伝道者、牧師、執事などの役職があるのは個々の信徒がただイエスを信じればいいと考えていないからだ。教会がキリストの肢体として一定の意志を決定し、一致して動くのが理解できる。一人ひとりの信徒にとって、キリストの肢体としての教会は必要だ。その教会には一定の秩序が必要であり、信徒が唯我独尊でいることは聖書の信仰ではない。

第一部 ⑫

“果実”=神に救われた魂は誤り

(反論)
ヨハネ15:16でイエスは、「あなたがたわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って、実を結び、その実が残るように」と語る。以下はこの聖句に関する「新約聖書注解」(日本基督教団出版局)からの抜粋。

選びは、任命へと繋がっていく。明らかに、ここでは、弟子たちの伝道の業と礼拝行為が言及されている。宣教が実を結び、祈りが聞かれることによってイエスの神性が明らかにされるために、イエスは弟子を選び、任命するのである。

この聖句では宣教によって洗礼を授ける行為が、悔い改めの“実”の意味として使われる。ポーター氏は「“果実”=神のために救われた魂」という解釈を裏付ける証拠が見られないと主張するは誤りだ。ヨハネ15:16は明らかに宣教による洗礼を含む悔い改めの実を示し、氏は実の定義を、ガラテヤ5:22の聖霊の実やフィリピ1:11などの聖句に求めているが、聖書における“実”の定義をこれらの聖句に限定することはできない。以下は『旧約新約聖書大事典』から、「実」の項目に関する抜粋。

また、比喩として次のものを表す際に用いられる。すなわち繁栄(聖句省略)、絶滅(聖句省略)、愛の喜び(聖句省略) ~省略~ 労働の成果(聖句省略)、行いから生じる結果(聖句省略)、知恵ある仕事への報酬(聖句省略)、正義から出る行い(聖句省略)と高慢から出る行い(聖句省略)、悔い改めにふさわしい行為(マタイ3:8.なおマタ7:16,20参照)、最後の挙げたものは、キリストと結びつくことから(ヨハ15:2以下)あるいは聖霊の恵みから(ガラ5:22。なおエペ5:9、ロマ6:22参照)生ずる。

宣教による洗礼は、聖書の実の定義では、“悔い改めによる実”の中の一つであり聖霊から生じる実といえる。また、宣教や洗礼は聖霊の賜物と考えられ、使徒言行録が別名「聖霊の働き」と呼ばれるように、使徒たちの宣教が聖霊主導であったことと符合する。「悔い改め」の概念はイエスの福音の中核であり、洗礼を受け救われるための必須条件であり、イエスへの信仰に含まれる。悔い改めの実のなかに、洗礼が含まれるのは当然だ。ポーター氏は国際キリストの教会の代表的な指導者であったロジャー・ラム氏の論文で「ヨハネ15章の約束はわれわれが弟子としてイエスにとどまるならば、弟子を生み出す」という言葉を引用し、「本当はこれが正しいということはあり得ない」と批判するが、ポーター氏の解釈こそ誤りだ。ヨハネ15:4でイエスは明確に、弟子たちが「つながっている」ことを命じている。以下は「新約聖書注解」(日本基督教団出版局)からの抜粋。

この「つながる」の原語は、メノーであり「とどまる」ということである。従って、ここでも一体性が強調されているのであり、イエスが父にとどまり、一体であるように、弟子たちも、イエスにとどまって一体性を示していかなければならない。そのことによって信仰の実を結んでいくのである。

イエスと一体となることで結ばれる実の中に、弟子づくりが含まれていることは明らかである。イエスが何のためにこの世に来たのか、信徒の存在意義をあらためて考えてみる必要がある。ヨハネ15章のイエスと一体となることで生じる信仰の実の中に、信仰の成長など様々な意味も含まれるが、少なくともヨハネ15:16の実は、宣教による実を直接意味するのは明らかだ。2003年の教会の離散時、東京キリストの教会では環太平洋の元主任牧師は公式の謝罪のなかで、「ヨハネ福音書15章にある『実を結ぶ』の意味は、キリストと結ばれキリストのようになるという、幅の広い意味で、伝道はその一部。しかし、教会では、伝道して救うことが全てになっていしまった」と述べた。この謝罪は正しいが、多くの信徒が「教義に関する謝罪」として受け止めてしまった。しかし、東京キリストの教会の基礎信仰に「信仰の実=洗礼」があったわけではない。教会では“実”を洗礼の数として強調するあまり、多くの信徒に「信仰の実=洗礼」との誤った概念を植え付けた結果、信徒の信仰に傷害をもたらしたのは確かだ。だが、教会では聖霊の実としてガラテヤ5:22のように様々な信仰の結果について教えたし、“実”の定義を洗礼に限って教えていない。従って、「信仰の実=洗礼」という考えを教会の基礎信仰の範疇として捉えることできない。
 
第二部 ①

実は、一人の人がディサイプル制度について聖書の学びを指導するとき、あるいは、単にディサイプラーの位置に身を置くときでさえ、それは裁判官の役をしているのであり、神の役を演じているのです

(反論)
ディサイプリング制度は、様々な霊的な障害を信徒に残したが、ディサイプリングの関係で教える立場にあるディサイプラーが「裁判官の役」とか「神の役」と表現するのは誇張であって事実に反する。

東京キリストの教会において実施された「ディサイプリング研究会によるアンケート調査」(平成15年9月21日~28日)拠ると、「ディサイプラーからのアドバイスが、あたかも神の御心のような言い方をされた」という問いに対して、「たくさんある」と答えた人が、「全くない」と答えた人をやや上回る結果となった。また、「ディサイプラーからのアドバイスに従わないと、不信仰等の不当な扱いを受けた」という問いに対して、「たくさんある」と答えた人と「全くない」と答えて人の指数はほぼ同数。さらに、「ディサイプラーから、自分の知らない所で憶測により罪に定められた」という問いに対して、「けっこうある」「少しある」と答えた指数は、「全くない」と答えた指数の倍ちかくにまで達した。教会の公式な謝罪要旨にも「ディサイプラーのアドバイスは律法となった。従わなければ、神に認められないような『救いの条件』にまでなってしまった」とある。このディサイプリング制度により神の権威の濫用があったことは、多くの信徒の信仰に傷害をもたらして教会の問題の根本になった。

最低限いえるのはディサイプラーが神の代行権威を持ち信仰を指導したことが、指導された側はディサイプラーのアドバイスが神の御心あるかのように感じてしまい、多くの霊的傷害もたらしたことだ。神の代行権威を持つには神に対する畏れがなければならない。ところが、ディサイプリング制度では洗礼の数が増加していくに従って、未熟な信徒がディサイプラーにならざるを得なくなった。聖書的根拠に乏しいことを口にし、神の御心を十分に求めず判断を下し、平気で人を裁く事例が多数現れ、多くの信徒に対し未だに癒えない傷を残した。しかしながら、同じ「ディサイプリング研究会によるアンケート調査」では「ディサイプリングの関係を通して、自分の信仰が成長した」とい問いに対して、「思わない」と答えた指数はかなり少なく、圧倒的多数が「本当にそう思う」「そう思う」「半々」と答え、その指数の割合はほぼ均一だった。「過去、ディサイプリング関係にあった人は、今でも親しい友人だ」という問いに対して、「思わない」「全く思わない」と答えた指数は極少数で、圧倒的多数が「本当にそう思う」「そう思う」「半々」と答え、その指数の割合もほぼ均一だった。「ディサイプラーとは、心から信仰を分かち合える」という問いに対して、「できない」と答えた指数は極少数で、圧倒的多数が「本当にそう思う」「そう思う」「半々」と答え、その指数の割合はほぼ均一だった。つまり、ディサイプリング制度における関係について、信徒の多くは「友人」あるいは「信仰のパートナー」と感じ、ディサイプラーは「裁判官の役」「神の役」を演じているとするポーター氏の主張は事実に即していない。

ポーター氏は「エチオピアの宦官でさえICC(国際キリストの教会)の基準にあてはめると真の弟子ではないでしょう。なぜなら、彼ははっきりと悔い改めを表明していたわけではないし」と主張する。しかし、第一部の⑨項に記したことだが、そもそも「信仰」の概念のなかに「悔い改め」が含まれる。それに氏は「はっきりと悔い改めを表明していたわけではない」と主張するが、どのようにして氏は「表明していない」と判断したのか。聖書に記載されていない事項について、「表明していない」となぜ明言できるのか。これでは氏が批判する「裁判官の役」とか「神の役」を、氏自身が国際キリストの教会に対して果たしているではないか。

第二部 ②

教会が“シャープな人(社会的にも精神的にもしっかりした人という意味)”たちを信仰に導くことに重点をおくことはあらゆる意味で、キリストの愛と教えに反しています

(反論)
東京キリストの教会が“シャープ”な人を導くことに精力を注いだことは事実だ。それが一般信徒に「自分は教会に必要とされていない」という劣等感を植え付け、2003年における教会の公式謝罪にもこれが含まれた。

しかしながら、この謝罪は信徒に不信仰を与えたことに対する謝罪であり、「教会が“シャープな人”たちを信仰に導くことに重点をおく」という教会の政策判断が聖書に違反したことを意味しない。譬えるなら、ある法律案(=法律は教会の政策判断)が成立し、違憲訴訟(=憲法は聖書)が出されても違憲(=聖書に違反している)と判断されない。政策判断の誤りによって多くの信徒に傷害を残しても、「政策判断の誤り」と「違憲」とは区別される。結果的に多くの信徒に不信仰を与えたのは神の意思に反することーだから教会は謝罪したーだが、「教会が“シャープな人”たちを信仰に導くことに重点をおくこと」という政策判断は聖書に違反しない。しかし、ポーター氏は「教会が“シャープな人”たちを信仰に導くことに重点をおく」という教会の政策判断が聖書に違反すると主張する。マタイ22:1-14、ルカ14:15‐24の「婚宴の譬え話」では、婚宴に招かれる人の順番が明記されている。この譬え話の趣旨は、異邦人や路地にいる障害者を含め、すべての人が救いに招待されるという意味があり、招かれる人に順番があることが分かる。イエスの福音は救済におけるユダヤ人の優先を明確に認める。以下は、マタイ15:22‐28のカナンの女の信仰に関する『新約聖書注解』(日本基督教団出版局)からの抜粋。

イエスは儀式的な清らかさとか汚れの枠をこえて行動することを示している。しかしこの物語において異教徒は無条件的に(14:36や15:30のように)救われるのではなく、救済におけるイスラエルの優先の原則を認めつつ特別な謙虚さと熱意によって救われる。

パウロもローマ11章では救いに関し異邦人に対するユダヤ人の優先に言及し、使徒言行録のパウロの宣教はこれを証明する。このユダヤ人の救いの優先は神の計画であり、少なくとも「救いに優先順位をつけようとすること」という行為自体が聖書に違反しないと理解できる。そもそも東京キリストの教会が“シャープ”な人への宣教に重きを置いた理由は、指導者不足を補うためであって、人を差別する意図ではない。小グループでの弟子訓練を実施する教会で共通して生じる制度問題だ。小グループによる弟子訓練を実践すれば、信徒数が増えるに従って、新たな小グループの指導者(いわゆる「小牧会者」)の育成が教会の急務となる。将来、教会の発展のため、環太平洋の元主任牧師はこの点を強く意識した。「“シャープな人”たちを信仰に導くことに重点をおく」という政策判断は、教会内のある信徒を蔑ろにする意図ではなく、教会の信徒が増やしていくことが目的だ。

また、ポーター氏は国際キリストの教会が障害者を軽視していると批判するが、事実と反する。東京キリストの教会では他の教派の教会と比べても、障害者の数はかなりの割合を占めた。聾唖者の信徒数は一時期10人前後程に上ったし、精神的な障害を抱える信徒数はかなりいた。他にも病気の信徒や身体の不自由な信徒も数多くいた。これらの信徒に対して多くの専従スタッフでない信徒が日々労苦を払った東京キリストの教会が障害者をはじめとする社会的弱者を軽視したとするなら、多くの障害者や病気の人、精神的障害を抱える人が信徒とならなかったはずだ。

第二部 ③

御国を強力に前進させる者だけを神は助けてくださる

(反論)
ポーター氏は東京キリストの教会が「御国を強力に前進させる者だけを神は助けてくださる」と述べるが、理解不能な事柄だ。氏によれば国際キリストの教会では信仰の中核を成していると認識するが、少なくとも東京キリストの教会では存在しない。氏はエレナ・ガルシア・マッキーン氏(キップ・マッキーン氏の妻で国際キリストの教会全体のウーマンズ・カウンセラー)が説教したマタイ11:12の解釈が誤っていると主張し、国際キリストの教会の指導者は神学校を卒業していないのでこうしたギリシア語の解釈で誤りが生じると批判する。だが、この文書を読む限りギリシア語のどの点が誤りであるか分からず読者に理解できない。因みに「新約聖書注解」(日本基督教団出版局)に拠れば、この聖句は解釈が難解であると前置きし、4つの説を併記しどの解釈が正しいとは判断しない。

第二部 ④

「特別献金と什一献金」「特別献金」「一世代による世界宣教」

(反論)
献金の目安を収入の10分の1にすることは、旧約聖書を基礎とする伝統的な思想で他の教派でもある。ポーター氏は「伝道チームを送ることをお急ぎになっておられるのでしょうか」と問いかけるが、この答えが国際キリストの教会の本質的な信仰を示す。東京キリストの教会では、「One Generation」をメインテーマに1999年にマニラのジュブリーが開催された。この「One Generation」という言葉の意味は、一世代に世界中を伝道し尽くすという国際キリストの教会の命題があり、宣教はかなり急がれているものだった。この一世代に世界中を伝道し尽くすという思想は使徒言行録の信仰で、パウロを含む使徒はこの信仰を持ち当時の世界を伝道し尽くした。新約聖書では終末は目睫に迫り、テサロニケの手紙では終末の遅延が問題となった。イエスは「神の国は近づいた」と宣教したのであり、近い将来に終末が訪れることを意識して宣教した。東京キリストの教会でもこの使徒言行録の信仰を継承し、一世代に日本中を伝道し尽くすことを信仰の目標とした。従って、早期に教会を設立する必要性があり、ミッションチーム派遣に対してかかる諸コストや宣教者養成にかかる人件費もかさんだ。

1990年の大阪ミッションチーム派遣のために為された特別献金では、学生はアルバイトをして金を貯め、社会人もかなり節約をしてこの献金を捧げ、献金額が目標を達成したときは皆で喜び祈りを捧げ神に感謝した。誰も不平を言う者はなく、自分のできる範囲でベストを捧げ、結果も信仰に溢れたものだった。
しかし時が経つと、献金に対する信仰がルーズになり、献金に対する使途も説明が不十分となった。これは2003年の教会の公式謝罪でも言及されたが、2002年の特別献金では強制的な特別献金となり、その結果多くの信徒からの反発を招いた。

 

平成23年12月11日