異端とみなす客観的な事実の積み重ねがなく、神学的な根拠を示さず、推論で異端だとみなすことはできない。ところが、「異端見分けハンドブック」では、十三章に「『ボストン・キリストの教会』(ボストンムーブメントのキリストの教会)」の項目が設けられ、東京キリストの教会のことを「今の段階では」と前置きしたうえで「異端かどうか議論されてきていて警戒されている団体」とする。そしてこの書物の最後、「おわりに」では以下のように述べている。
本書の願いは異端に入っている人々がそこから救われることであり、異端かどうか議論されているグループの人々が正統的教理に帰り、また独善的になりやすい孤立路線からキリスト教会と健全な交わり回復に導かれることであります。
「異端に入っている人々がそこから救われること」についてはだれも異論を挟まない。しかし、「異端かどうか議論されているグループの人々が正統的教理に帰り」とはどういうことか。「議論されている」段階とは異端か否か断定できない段階なのに、「正統的教理」に「帰る」ことを願うということは、事実上、東京キリストの教会を異端とみなしているのだ。
繰り返すが特定の教会を異端だとみなし、これを出版という形で世に問うには客観的な事実の裏付けが必要となる。異端か否かを決めるのは極めて重要な問題だ。異端とみなされた教会は自らの存立意義を問われる。軽々しく言及できないし、言及するのではれば神の権威の下で、聖書と正確で客観的な事実に基づき、神の代行権威が伴う複数の信徒により、公明正大に、長時間かけて慎重な審議が求められる。「疑わしき状態」で世に問うことは許されない。当事者からの複数の信頼できる証言と、その証言に対する反論を丹念に聞き取ったうえで判断せねばならない。決して、推測や噂に基づく一方的な情報で判断することを聖書は許していない。
牧会上の問題点の指摘と異端審判とは本質的に違う。異端を審判するなら、数多くの客観的な事実と神学的根拠を示さなければならない。明確な根拠を示さず、事実上異端とみなす行為が許されるわけがない。ところが、「異端見分けハンドブック」では、異端の根拠となる神学上の根拠は示されておらず、また、根拠となる内部資料はキップ・マッキーン著「聖書回復と革命」i(「参考資料」の項目参照)だけ。この資料は1992年に発表されたものだが、この内容をもって東京キリストの教会の神学的に判断して異端と断じることはできない。基礎的な聖書知識がある信徒が「聖書回復と革命」を読めば、直ぐに異端と判断できる資料ではないと理解できる。旧約新約聖書大事典iiに拠れば「偽りの教え(異端)」の意味とは以下の通り。
Ⅱペテ2:1における「異端」。これはしばしば「迷わす」もの、あるいは「惑わす」もの、すなわち神によって定められた道からそらすものと表現される。
同事典ではこれに加え、偽メシア運動、預言者運動、ユダヤ主義、前グノーシス主義的・熱狂主義的思潮など、聖書で語られる「異端」を例示する。東京キリストの教会はいずれの思想も該当しない。また、東京キリストの教会の基礎信仰は極めてシンプルで、「イエスを神の子と信じ自らの罪を悔い改め、イエスが自らの罪のために十字架に架かり死んで葬られ肉体をもって復活したことを信じ、父と子と聖霊の御名により洗礼を受ける」——ことだ。聖書に基づき誤りはない。これが異端と言うのであれば諸教派教会はすべて異端となる。
「異端見分けハンドブック」の「第一章 異端の見分け方」では、異端とみなす判断材料の第一として「三位一体の否定」を挙げる。当然、東京キリストの教会では三位一体を信じている。しかし、三位一体を信じない教会も存在するが、これらの教会を異端と名指して論じない。プロテスタント系の諸教会と同じ基礎信仰を持つ東京キリストの教会は事実上、異端として扱われ、基礎信仰が異なる教会は異端として論じない矛盾がある。また、カトリック教会はマリア信仰があるので異端とみなすがカトリック教会への批判はない。
第二に異端とする判断材料として「霊の違い」がある。反キリストや偽預言者、占いの霊などを挙げている。いずれも東京キリストの教会とは無縁だ。第三に「十字架の贖いの否定、行いによる救い」ともあるが、東京キリストの教会にとって十字架の救いが教会の礎石であり「行い」を救いの条件にしたことは一切ない。特に教会設立時は聖書を初めて勉強してから1か月以内に洗礼を受ける人が多く、最も早い人で3日目に洗礼を受けた例がある。第四の「聖書以外の啓示や霊の語りかけを重んじ」「聖書以外の信仰の基準や経典を持つ」——などの事柄も全くない。むしろ、これらの信仰を非常に嫌悪していた。つまり、東京キリストの教会を異端と判断する神学的な根拠が全く示されていないのだ。
だれが「(東京キリストの教会が)異端かどうか議論」しているのか。神の代行権威を持ち議論して異端と決める主体に関する記述がなく、決定する際の神学的根拠が記されていない。東京キリストの教会に所属した信徒が行う東京キリストの教会に対する「問題の指摘」と、「異端審判」とは本質的に違う。問題は悔い改めればよいが、異端であれば悔い改めても神の意志に逆らっていることに変わりない。天国への道は閉ざされるどころか、神の真理からそれ悪魔に利用されていることになる。
異端を決めるのはだれなのか。著者が所属する教会や教派なのか。それとも日本のプロテスタントの諸教会が共同で異端審理を行っているのか。どこに審理する機関があるのか。あるならその構成員にどれほど神の権威が与えられているのか。主体となる権威の所在を明確にして納得できる審理が行われたか否かを説明する必要がある。しかし、「異端見分けハンドブック」では異端か否かを議論している主体と過程が記されず、また、どういう神の権威によって議論されているのかが読者に分からない。議論する主体を示し、その主体がどれほど神の権威が有するものなのかを明らかにすべきだ。
そして、「異端見分けハンドブック」では東京キリストの教会の基礎信仰について一切触れず、基礎信仰を神学的な側面から検証していない。これでは東京キリストの教会の信仰にどのような異端性があるのか判断できない。異端と判断できる客観的で揺るぎない根拠がない状態で「正統的な教理に帰る」ことを願うのは理解が得られない。
i 「聖書回復と革命」〜エルサレムからローマへ:ボストンからモスクワへ〜 キップ・マッキーン著1992年
ii 「旧約新約聖書大事典」教文館、1989年初版
平成23年12月11日