「異端見分けハンドブック」は東京キリストの教会に対し、「独善的になりやすい孤立路線」と警鐘を鳴らす。だが、東京キリストの教会が有した「唯一の教会」という考え方は前身の主流派キリストの教会の信仰の特質を受け継ぐものだ。東京キリストの教会の指導者は自らの所属している信徒しか天国に行けないと信じておらず、プロテスタントの他教派の教会の信徒でも天国に行けると考えていた。東京キリストの教会は公式の場で、「東京キリストの教会が唯一、救いを与える教会」と教えたことはない。未信者との聖書の勉強で一部の信徒を除き、「東京キリストの教会が唯一、神の救いを与える教会」と教えていない。明確に教えるよう指導されなかったのは、本気で信じていないからだ。当時の主任牧師(環太平洋の元主任牧師)は未信徒との聖書の勉強で、他の教派に属する信徒全員が神の救いがなく、東京キリストの教会が救いを伝える唯一の教会とは教えなかった。他の教派の信徒が救われるか否か東京キリストの教会が知る術すらないため、「唯一の教会」と主張できる根拠がない。もし、東京キリストの教会しかキリストの救いを与えられないと信じているなら、指導者が公式の場で繰り返し教えていたはずだ。実際、「唯一の教会」と公式に口にしたのは、フィリピン・マニラで開かれたジュビリー(国際会議)の一度だけ。海外の牧師の説教のみだ。この説教の後、様々な信徒から疑問の声が上がった。離散時、東京キリストの教会が発表した謝罪文で「未信徒との聖書の勉強で教会の結束を図るため唯一の教会と教えた」との旨が記されている通り、あくまでも教会の結束が目的であって、東京キリストの教会は「唯一の教会」としてイエス・キリストの救いを与えるかのように振る舞ったが指導者たちは心のなかでは信じていなかった。
この「唯一の教会」は、発祥となる主流派キリストの教会が設立時から教派の存在を否定したことに由来する。主流派キリストの教会について「信徒の諸教会」i第14章「西方(1790−1890)」では主流派キリストの教会を創設について詳しく記されている。1807年、トマス・キャンベルは長老派の分離派の牧師として渡米。そこで教派間の戦いに疲れ果て、人間同士の意見の論争のなかで安らぎを発見することに絶望し「神のみことばだけをわたしたちの基準として考えよう」と決意した。そこで教派のつながりを拒否して教会ではなく、「ワシントン・クリスチャン協会」を設立した。以下は設立時に発表した声明文の抜粋。
何人も兄弟からさばかれることはできず、また何人も兄弟をさばくことはできない。人はみな、なによりも自分で自分をさばくべき、自己を神の前に弁明しなければならない。各人はみな神の言葉にしばられているのであって、神の言葉の人間的解釈に縛られているのではない。
彼には教会形成の意図はなかった。むしろ、新しい教派へ発展することや一つの教会になることを恐れた。同協会を設立した目的を以下のように記す。
単純に福音を伝え、神の示した基準に正しくかなった儀式をとり行うことによって、クリスチャンの一致と純粋な福音主義的改革を増進するための協会の設立を目指した。
また、1809年のある集会で教会の一致は聖書の言葉によって得られると以下のように語った。
トマス・キャンベルは分裂をもたらす悪について語り、神はみことばの中にどのような時にも教会の必要のための十分な基準と道標を与えているので、分裂は不可避ではないことを明らかにした。教会間に紛争と不和が生じたのは、聖書から離れて宗教的な理論や体系を組み立てたことによる。したがって、聖書に立ち戻らなければ、真の教会の一致は得られない。
そして、トマス・キャンベルの息子、アレクザーンダ・キャンベルは父の信仰を受け継ぎ「聖書に立ち戻ることによって教会の結合をもたらす大きな目的へ、自分自身をささげること」を決意した。後に教会形成の必要に迫られ、「協会」から「教会」となったが、主流派キリストの教会の出発の原点は教派や教会ではなく、聖書に直接結ばれた信徒の集まりによって、教会の一致を図ることにほかならない。キリスト教界は教派の教会で占められる。主流派キリストの教会はその教派の存在を否定したため、必然的に教派に属しない主流派キリストの教会が「唯一の教会」となる。
同様に国際キリストの教会は主流派キリストの教会の基礎信仰を受け継ぎ、教派の存在を否定した。設立時から自らの教会は「教派ではない」と強調した。2003年の離散時には教会の罪の指摘する文章中iiでも「教派となった」あり、教派を神の意志からかけ離れたものとみなしている。また、国際キリストの教会が目標とした、聖書の言葉に完全につながれた信徒(東京キリストの教会のいう「イエスの弟子」)のみで構成された教会形成は、主流派キリストの教会設立時の声明文にある「神のみことばにしばられている」信徒のみで形成されるべきとする聖書思想がバックボーンになっている。
キップ・マッキーン著「聖書回復と革命」(「参考資料」の項目参照)では、1970年代、主流派キリストの教会のキャンパスミニストリーの学生のなかに麻薬、泥酔、不品行が蔓延り、社会人の会員でも離婚率が世の中と同じ数値を示していた点を指摘している。主流派キリストの教会が設立趣旨から離れ、聖書の言葉に結ばれていない現状を踏まえ、キップ氏は主流派キリストの教会設立の趣旨であった「神のみことばにしばられている」信徒で構成された教会を目指して主流派キリストの教会から分離し、「イエスの弟子の教会」を形成した。
同様に東京キリストの教会は、受洗後も世俗に染まり罪に浸り、教会の礼拝にも出席しない信徒が天国に行けるとは考えず、名前だけ教会に所属し、葬式と結婚式のときだけキリスト教式にする人を信徒として認めない。イエスにつながった生活をする者だけが天国に行けると考え、「イエスの弟子の教会」として明確に他教派とは分離して、葬式や結婚式のときだけ、キリスト教を信じるがそれ以外は世の中と同じ生活を送る信仰を許容しなかった。
しかし、他の教会との交流を排除していたわけではない。プロテスタントの諸教会も基本的には他の教派と頻繁には交流しない。それに他の教派との交流がなかったからといって異端の根拠になるわけではない。
東京キリストの教会の洗礼について「バプテスマを受けることができる人は、まず弟子となることを決心した者だけとする」とあり、あたかも聖書に違反しているかのような書き方だが、洗礼前に罪を悔い改め、イエスに完全に委ね、信頼し、従う決心をすることがなぜ聖書に違反しているのか。洗礼とは罪を悔い改め、イエスに完全に委ね、信頼し、従うことを受け入れることにほかならない。ガラテヤ2:16に関して「新約聖書注解」iii(日本基督教団出版局)では以下のように述べる。
パウロに拠れば、「人間が(神の子メシア)キリストに全幅の信頼を置き、自己の全てを無条件に委ね、また従順を尽くすこと、一口で言うなら、『キリストの対する全面的自己委託(帰依)』に他ならず、そして、洗礼と必然的に関連し、不可分の関係にあることによって(ガラテヤ3:26‐27、コロサイ2:12など)、人間を「キリストとのペルソナ的関係」にあるものとさせる」
洗礼を受けるためには、自己を完全に神に委ねなければならない。洗礼はイエスの十字架に預かるので、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)という信仰がなければならない。教会が洗礼を授ける前に、洗礼に相応しい信仰があるかどうかを確認することは教会の責任である。相応しくない信仰で、洗礼の安売りのごとく洗礼を授けるのは教会として神に対する罪だ。イエスの十字架の前で、“自我”が残っていれば、イエスの十字架に相応しくない。
i 「信徒の諸教会〜初代教会からの歩み〜」E・H・ブロードベント著、伝道出版社、1989年
ii 「神に正直に」ヘンリー・クリート著、2003年
iii 「新約聖書注解」日本基督教団出版局、1991年初版
平成23年12月11日