筧次郎氏 講演録 「本当の豊かさと自立の生き方とは〜百姓暮らしのススメ〜」
<目次> <レジュメ> <講演1> <講演2> <講演3> <質疑応答>
講演3
それで、物を増やすのではない、別の豊かさ、私はそれを本当の豊かさってあえて言ってますが、別の豊かさがあることがだんだんわかってきました。これはやっぱり、言葉で一生懸命説明しても、本当は経験していただかないとわからないことなんです。経験して初めて納得していただけるようなことなんですけども、あえて、今日は言葉でなんとかいくつか説明してみたいと思うんだけど。一つは、自然のリズムに合った健康な暮らしということです。健康っていうのは、あとでマハトマ・ガンジーのことをいいますが、ガンジーさんは、健康とは何かということをずっと追及した人でもありまして、健康っていうのは単に病気がないことじゃないんだと、人間が目標として求めるべき理想の状態、それがガンジーとしての健康なんです。だから、ガンジーさんの定義は非常に厳しい。太りすぎもせず、やせすぎもせずといってる(笑)。もう、太ってる人はみんな初めから健康じゃない、やせてる人も健康じゃないって(笑)。それから、感覚の抑制が出来なくちゃいけない。もっとすごい定義は、死ぬことが恐ろしい人はみんな健康でない証拠だと、本当に健康人、本当の健康人っていうのは死も恐れない。そういうふうにも言っています。そういう健康、私は今そういう健康を手に入れているとは言いませんけど、でもそれは、私が百姓暮らしをやる前は、何か理想論を言っているに過ぎないと思ったが、今は理想論じゃなくて、それは現実に我々が求められる目標だというふうに感じられるぐらいには、健康になったと思いますね。これはガンジーさんもいってますが、食い物にいくら注意しても健康にならない。健康食品なんて大流行ですけど、でもどんな生活をする人も同じものを食ってていい訳はないんですね。例えば、減塩で塩を減らして食べなさいというけど、それは、デスクワークしてる人の減塩とね、僕らみたいに毎日毎日汗だくになって働く人の減塩とではおのずから違う。減塩なんてほとんど気にしないでいい、そういう暮らしですよ。塩のように汗が噴出しますから(笑)。そういう暮らしとはまた違うはずです。だから、どんな生活をするかということが、やはり非常に重要である。何を食うかってことももちろん重要ですけど。実はガンジーさんも健康になるためには百姓でなくちゃいかんと言っています。私も実はそう思う。つまり、百姓の暮らしというのは自然のリズムにあった暮らしだから。動物もね、冬はじーっとしてましょう。春になると活動を開始して、夏は食べ物を得るために一所懸命動き回るでしょう。秋になると肥え太って、また冬はじーっとしてるでしょう。百姓の暮らしというのはそれと似てるんですよ。実は今今頃から3月くらいまでがね、いつも身体の節々が痛い。それは冬の間なまってる身体を動かすからですね。でも、だんだんエンジンがかかってきまして、4、5、6月あたりはもう無我夢中で働きます。雨が降る日以外は、しかも大雨の日以外は一日も休み無し。まぁ、小雨だったら田んぼの草取りくらいは出来ますから、田んぼに入ってます。おそらくその暮らしが1年続いたら、まず過労で死ぬでしょうね。でも、そういう暮らし、つまり、夜風呂に入ってご飯を食べてバタンキューというような暮らしです。そういう暮らしはね、梅雨明けで終わりです。梅雨が明けると、日本だったら7月の20日頃ですけど、毎年ね。そうすると、日中は本当にかんかん照りで、働くことが出来ない。スワラジ学園もそうですが、朝4時半に起きて作業を始めます。朝、目いっぱい8時まで働きます。朝の8時頃で全身汗びっしょりになります。日中は帰って休みです。夕方4時頃まで昼寝をしてのんびり休む。4時頃からまた7時半頃まで、日の暮れまでずっと明るいうちは働きます。実はその時期っていうのは日中ゆっくりするので、実は百姓にとっては夏休みなんです。朝の仕事っていうのはそんなに辛いもんじゃないの。時間的に全体的としては少ないので、だから4、5、6、7月の中ごろまでが本当に農繁期でめちゃくちゃ忙しい。夏休みが来ます。その後今度、9月10月はまた刈り入れで、採り入れ、米が出来、そして豆が出来、芋が出来っていうふうにね、たくさんのものを収穫して蓄えなくちゃいけない。それで、結構忙しいんです。11月のはじめ頃に、冬を越す小麦とかを蒔いたり、豆を蒔いたりして、大体基本的な農作業は終わり。後、ずっと収穫はありますけどね。でも、もう後は種を蒔いても芽が出ない寒い時期なので、11月になると本当にのんびりゆっくりします。今は学園なのでちょっと時間帯が規則的になっていますが、家内と二人で百姓暮らしをしていた時は、冬はもう本当に朝の8時頃起きて、夏は4時半(笑)。冬は8時頃起きてのんびりゆっくり日向ぼっこしながら食事をしたり、そういう暮らしです。まあ、冬篭りの季節ですね。だから、そういうメリハリがあるっていうか、自然のリズムにあった。一言で言うとやはり動物と同じような暮らしですよ。動物と同じように人間も生きている。それがどうも身体には一番いいみたいです。ずーっと冬のようなのんびりとした暮らしでは、多分また神経が苛立って困ると思いますね。やっぱり、やるぞと思って一生懸命働く期間も必要だし、ゆっくり身体を休める期間も必要だしっていうような感じですね。そういうリズムが、現代人の生活では失われてしまった。今は、どうしてもやっぱり一週間のリズムで、週末になると休み、冬も夏も変わらない、そういう暮らしをしてますでしょう。ですからその点では、やはり健康を得るためには、なかなか難しい生活を現代人は強いられているというふうに思います。

それからもう一つは、美味しい食べ物ということでこう書きましたが、美味しいというのはね、人によって違いますよね。でもこれもね、20年間自給自足の暮らしをやってきて、都会人の味覚は狂ってると思います。本当の味覚っていうは身体にいいものは美味しいって感じる、身体に悪いものをまずいって感じる。それが本当の味覚です。ちゃんとしたものずっと食べてると、そういう味覚が回復される。添加物が入ってたり、味の素が入っていたりすると、私は「ウッ」となります。吐きたい気持ちになります。そういうふうに身体が出来てきます。で、じゃあ何が美味しいか、それはね旬のものの「ばっかり食」と言ってるんだけど、旬のもの、その季節に露地で採れる、その季節にあったものばかりを食べるというのが一番美味しい、一番身体にいい食べ方ですね。何で旬のものがいいかっていうとね、実は食べる野菜も、我々も、同じ生き物なんですね。だから、野菜のほうもその季節を生きようと思って、その季節にあった身体になっている。例えば、きゅうりを我々は夏、食べます。それは、きゅうりはかんかん照りのところでね、生きるわけですよ。だから身体を冷やして、身体にいっぱい水分を蓄えて生きてるんです。間違えて、草取りながら、きゅうりのつるをぷつんと切ってしまうことがある。そうするとね、ものの10秒くらいで、きゅうりは全体がぺしゃーってなります。つまり、毎秒毎秒土の中から水を吸い上げて、そして、きゅうりは、自分の命を作ってる。つまり、身体を冷やさないと、かんかん照りにきゅうり自身が耐えていかない。そのきゅうりを我々は頂くんですね。それは、我々が身体を冷やして、水分を補給して、そして夏という季節を生き抜くために非常に上手く出来ている。やっぱ、同じ生き物だから、きゅうりの命の営みを我々ももらうと、そういうことなんですよ。ところが今は、真冬でもきゅうり作ってるんですね。どうやってきゅうりを作ってるかというと、温室の中で夏だ夏だって、だましてきゅうりを作るわけです。きゅうりはだまくらかされて、水分を蓄えて、身体を冷やしてやっぱり作るんです。でも、一度市場に流通したら、我々は寒い冬にそのきゅうりを食うことになる。生理と全く正反対のものを食っている。それは身体にいいわけは無い。反対に冬は何を食うかっていうとね、根菜類を食うんですよ。いつだったかね、冬に人参がすごく不作で採れないときがあったの。家内が風邪ひいちゃったの。それで、私にこう言うんだね。今年は人参が不作だから風邪をひいてしまったと(笑)。つまり、人参が身体をあっためてくれるのに、その人参が不作だから風邪ひいちゃった、冷たくなってと言ってるんですね。これはね、確かにその通りなんです。人参やごぼうはね、これはもう本当に寒い冬、今年の真冬でも畑の中で生きている。寒さに耐えてね。それは自分が一生懸命熱をだして、暖かくして、それで耐えている。人参だけじゃなくて、ほうれん草とかそういう菜っ葉もそうですよ。だから皆さん雪が降った後ね、畑に行って見てごらん。どこが一番先に雪が消えるか、作物が出来てない畑はいつまで経っても消えません。作物がある畑は、まず、ほうれん草の上の雪が消える。それはほうれん草の熱が溶かすんです、雪を。つまり彼らもね、凍ってしまっては死んじゃうから。だから、一生懸命熱を出して暖めてる、身体をね。その熱を、我々は食べて頂くんです。だから、冬は根菜をいっぱい食べて、菜っ葉をいっぱい食べて、そして身体を暖めるのがいい。今は簡単に、夏と冬だけ言いましたけど、細かく言うとね、あらゆる季節が言えるんです。あらゆる季節がその季節を生きている。しかも露地で。変なハウスなんかで作ったのはダメです。それは、だまくらかして作ってるわけだから。そうじゃなくて、露地で作ったもの。そういうものはあらゆる季節の、我々の生理的な要求にぴったり合ったものが出来ている。しかもね、それだけじゃないんですよ。例えばね、かんかん照りで雨がよく降らない時は、きゅうりがよく採れます。だから身体をよく冷やします。今度は冷夏の年、雨ばっかり降ってる冷夏の年は、きゅうりは採れないけど、さやいんげんがよく採れます。つまり、そういう年は身体を冷やすきゅうりはあんまり要らない。だからきゅうり出来ない。そういう年は、むしろ豆でもってたんぱく質摂って、生きないといけない。だから豆が出来るの。そういうふうに、自然というのはもう本当によく出来てる。それは単純なことなんだよ、よく考えてみると。忘れてることがある。つまり、食べられるものも、食べる我々も、同じ生き物だって言うこと。つまりそれは、同じ季節を生き抜こうっていう、共通の要求を持っているっていうこと。だから、そういう一致が起こるんです。それにさえ気がつけばね、なんだ当たり前じゃないのという話なんだけれど。でもみんなそれに気づかないから、その話を聞いてみんなびっくりするし、そしてその話を聞いて、今食ってるものがなんておかしいかっていうことになるんですね。実際は単純なことなんですよ。それからもう一つですね、もう一つって言う前に、最後の結論を言うの忘れた。皆さんもですね、味覚を鍛えるということを、ぜひやっていただきたい。子供さんがいる方は、もうぜひそれをやっていただきたい。味覚というのは、欲望に負けるとどんどんゆがんでいきます。欲望に負けて甘いものばっかり食ってる人は、甘いものしか感じなくなる。激辛ばっかり食ってる人は激辛しか感じなくなりますよ。要するに、欲望にどんどんどんどん負けていきますよ。それで、ゆがんだ味覚になっていきます。だからそうじゃなくて、要するに身体に悪いものが入った時は、まずいって感じるような味覚、身体にいいものが入った時は美味しいって感じるような味覚を、小さい時から自分を鍛えて作っていかなくちゃいけないと思いますね。まあ、偉そうなこと言っていますが、僕も百姓になるまでは本当にひどい味覚だった。学生の頃はコカ・コーラが大好きでね、今も売ってるかどうかわかりませんが、大瓶サイズというのがあってね、毎日買って飲んでました。あれは中毒になるからね。まあ、恥ずかしい話です。近頃はたまに農家に行くとコカ・コーラを出されるときがある。大抵は断るんだけどね、いつも断ると「お前は付き合いが悪いなあ」といわれるんですよ。我慢してぐっと一口飲むんだけど、「うっ」と本当に吐き気がします。それは私自身の人体実験からだけど、駄目になるのも早いし、良くなるときは良くなるしということですね。ですからぜひ味覚を鍛える、特に子どもさんの味覚を鍛えてほしいというふうに思います。

それからもう一つは、働く喜び。“働く喜び”というと、まず機械より手仕事の方が喜びです。機械がなぜ喜びじゃないかというと、スピードが速すぎるからなんですね。農業機械もそうですけど、スピードが速いから効率はいいけど、スピードが速いということはそのスピードに自分が一生懸命くっついていかなければいけない。くっついていかないと危険ですらあるわけです。だから神経をいつも張りつめて、機械のスピードについていこうとします。耕運機でさえも細かな振動がいつでも体を伝わってきて、それは本当にいやなリズム、自然じゃないリズムを自分で引き受けなきゃいけない。でも手仕事の場合は、鍬や鎌があたかも手の延長になるときがある。そうするとそれは手足の自然のリズムでもって働ける、それが喜びにつながる。

それからもう一つ、工業社会の仕事というのは誰がやってもできる。素人がやってもできるようにつくられている。言葉を換えるとマニュアル化されている。だからマニュアルを覚えてるかどうかは別として、マニュアルどおりにやれば誰がやってもできる労働ですね。これが労働をつまらなくしている。喜びを失っている。でも、昔の手仕事というのはマニュアルをいくら覚えてもできないんです。熟練が必要。その熟練が働く喜びを作っていくと思います。今は仕事と労働が乖離している。会社に勤める人は、朝出かけて行って会社の門をくぐって、出て行くまでが労働です。一歩会社から出たら今度は、私生活とかいっていますけど、生活が始まる。労働というのは生活を楽しくするために仕方なしにやるものだというふうに考える。そうするとどうしても労働は効率よくできるだけ少ない時間でやった方がいい。あわよくばやらない方がいいという話になるでしょう。それは労働と生活が乖離しているからです。でも百姓暮らしはね、労働と生活が一枚なんですね。1年中労働だといってもいいし、1年中生活だといってもいい。だから、いかに労働を楽しくやるかということが非常に重要なことになってきます。その場合は、手仕事で熟練をすることによってだんだん労働が楽しい、そういう労働を選択してやっていくべきだというふうに思います。まぁ、そんなこと言っても、私自身も多少の機械は使っているんですよ。そうしないと必要なお金が得られないからです、はっきり言うと。現代の生活ですから、月に10万20万というお金はどうしてもいるので、そのために機械を使わざるをえないということがあります。だけれど、これ以上機械を使って大規模にやろうとは思わない。必要最低限の機械を使って、なるべく労働の楽しさの方を求めたいというふうに思います。

それから4番目に上げたのは、ストレスのない心ということです。現代人にはストレスがつきものですが、そのストレスというのは競争社会、競争に打ち勝たないと生きていけないという現代社会のしくみがストレスの大元にあると思っています。競争は人間社会に必然的だという人がいるけれども、「工業社会だけではない、ずっと大昔から競争というものがあって、競争が人間を進歩させてきた」という言い方をする人がいますね。私はそれはNOだと思います。競争は人間社会に必然的なんじゃなくて、工業社会に必然的な価値だと思っています。たとえばね、私はトマトをつくります。トマトのじょうずなつくり方を私が発見したとします。昔の社会だったら私は当然隣近所の人に教えますね。「こうやればよくできるよ」と、誰が聞きに来ても教えます。そのことが、みんなが豊かになることだから。でも今はどうかというと、企業秘密にしなくてはいけない。トマトのじょうずなつくり方は人に教えると私の利益にならない。競争社会だからなんですね。だから、そのことを1つとっても、農業社会とはちょっと違う。現に今の社会に働いているという人にはお分かり頂けると思うが、大量生産をして、売れなくなるまで売り続けるという機械制工業のしくみ。それと工業というのは初めは必需品をつくっていました。綿工業から始まって、衣類だ、建物だ、あるいは農業機械だというふうに必需品をつくってきましたが、だんだん必需品が行き渡っていくと、欲望を開拓して、必需品じゃないものの世界に入っていきますね。さっき言ったテレビなんかはなくても困るものじゃない。そういう欲望を開拓して商品化していくというレベルにだんだん突き進んでいくわけですね。そうすると不必要なもの、いらないものを売らなくちゃならないです。だから競争が起きる。いるものだったら、競争しないでも売れる。そういうゲーム的な工業社会のしくみみたいなのがあるんですね。ですから競争というのは工業社会に宿命的なもので、工業社会である限りはやはりストレスは決してなくならないと思うんだけれど、百姓暮らしならかなりのストレスがなくなります。

まあ、今上げたようなこと、他にも上げればいろいろあるんですが、そういう豊かさをだんだん感じてきて、それは今から次の世代の人に伝えるべきじゃないかなと思った。それがスワラジ学園という学園をつくった大きな理由です。おそらく、理念だけでやるべきだということでは、スワラジ学園はやらなかったと思います。やるべきだというんじゃなくて、これは豊かだと、この豊かさを見直してほしいという思いがあって、それで学園をつくる気になったわけです。スワラジというのはですね、実はマハトマ・ガンジーの『ヒンドゥー・スワラジ』という本からとりました。ヒンドゥー・スワラジというのはインドの自治とか自立と訳されます。ガンジーさんが一番最初に書いた本。植民地のインドがどういう国になるべきかということを論じた本ですね。植民地だったインドの独立運動の中心的指導者の一人がガンジーさんです。一般的にはインドを近代化してイギリスのように強くなる、富国強兵策ですね、そうしてイギリスを追い出せと、近代化を主張する人が圧倒的に多かった。これは日本にも当てはまりまして、明治維新の頃、黒船がやってきて日本は非常に危機的な時代だったわけですね。日本もへたをすれば西洋の植民地になる。そういう時代です。そういう時代に日本の指導者は、簡単に言うと西洋の支配国になるか支配される植民地になるか、二者択一を迫られた。勝手にしといてということはできなかったわけですね。鎖国は勝手にしといてという政策でしたけど、強引に門をこじ開けられて、どっちかを選べということになったわけですよ。その時に日本の指導者は富国強兵策をとって、最終的に今の、西洋の一員であるような支配国になった。でもガンジーは違う道をとりました。イギリスのようになってもインドの自治は得られないということをその本の中で主張しています。それは自治ということばのイメージが普通の考え方と違うんですね。普通は自治というのは虐げられている人が抑圧を跳ね返して、自分らが自立する。それが自治。“地方自治”という場合も、中央の権力にがんじがらめにされているのに対して、その中央の権力を跳ね返して自分らである部分を営むというのが地方自治でしょう。そういうふうに、自治というのはいつも虐げられている人がそれを跳ね返して、自立して営むというイメージなんだけど、ガンジーは支配者たちも自治を得ていないという認識です。なぜかというと、支配者たちは他人の労働に頼らないと生きられない、自立して生きていないじゃないかと。だから、ガンジーにとって自治というのは収奪されることがない、奪われることがない、支配されることがないけど、反対に収奪することもない、奪うこともない、支配することもない。自分の肉体労働で自立的に生きること、それがガンジーにとっての自治なんです。そういう自治はイギリスのようになっても得られないということです。おそらく重労働に耐えていける体力と、それから自分の働きだけで生きていける、いわば質素に生きていける気力、そういうものがないと自治は得られないと言っているんです。私はガンジーがいったのと反対の道を選んできた日本人を責めようとは思わない。日本の明治維新の指導者はみんな立派な人だと思いますね。つまり、植民地にならないで何とかして西洋の一員となって支配者になる道を選んでやってきた。すごい努力とすごい犠牲が必要だったと思います。そういう意味でせめようとは思いませんが、しかし一方で、今の日本を見ると、ガンジーの言ったことの正しさを実感せざるを得ない。つまり、今の日本人は自立して生きていく体力や気力を持っているだろうかというと、ノーといわざるを得ないです。昔の日本人は素晴らしい体力と気力を持っていたんですね。一人前とよく言うでしょう。「あの男も一人前になったな」とか「彼はもう一人前だ」とかいいます。その一人前というのは、今は抽象的に大人になったとかいう意味で使われるけど、江戸時代には具体的な内容があったんですよ。つまり、親から受け継いだ技術や体力を鍛えて、具体的にできなきゃなんないことがあった。1人前といわれるには、まずは一俵の米を担げること。一俵は60キロですよ。40升ですね。60キロの米を担ぐというのはちょっと大変ですよ。担ぐというのは1回担ぐならみなさんもできると思う。1回かつぐのはかつぐことにならないですね。つまり、担いで何十キロも移動してそれができるということが担げるということです。だから、そうだとするとほとんど一俵の米を担げる人は現代人にいません。今はだからかつげるひとがいないから、米は30キロの袋で流通してますけど、30キロの米を担げる人も少なくなって、この頃はフォークリフトが必要なんです。そういう時代になっちゃってるんです(笑)。それからもうひとつは、鍬1本で田んぼだったら1日に1反分耕す。万能鍬という鍬を使います。それを一本で、朝から晩まで10アールの田んぼを耕せると一人前といわれています。貧しい農家の子弟は賃労働で他の地主のところを耕しました。そういうところは朝から1反分やると解放されて、その後自分の畑をやったといっている。だから彼らは1日1反以上やったんですけど。それはどんなイメージかみなさんわからないでしょうけど、私は百姓初めて間もない頃、やってみたことがあります。そうしたら2畝分、5分の1が精一杯だった。僕はなんと5分の1人前だった。恥ずかしながら(笑)。その後ずいぶん慣れてきましたから、今は半人前くらいにはなってると思いますが、今でも半人前。それから田植えとか稲刈りの作業は1日に5畝分できるというのが一人前の資格だった。ですから、こいつは半人前というのは、半分しかできないという具体的な内容があったんですよ。私は残念ながら今も半人前ですね。20年やってきても半人前。だけど、学園生に比べたら私は2倍ですよ。学園生は若者が多いんですけど、学園生は私の半人前。それほど日本人の体力あるいは気力、辛抱できる気力、そういうものが衰えてしまった。ということは言わざるを得ないですね。特に私は気力のことが気がかりです。20年前に村の老農たちに百姓を習いました。その時に技術を習ったのはもちろんなんですが、百姓の心というのかなあ、自然と彼らがはっきりことばでもって私にそれを教えてくれたわけではないんだけど、彼らとの付き合いの中で百姓の心のようなものを学んだ。それは百姓魂と呼んでいるんですが、それは彼らが持っている自信と誇りです。自信というのは、親から受け継いだ技術と子どものときから鍛えた体力があって、鍬と鎌さえあればどこへいってもどんな時代でも生きていけるぞという自信、自然から恵を引き出して生きていけるんだぞという自信、それが古い百姓たちにはありました。それから、もう一つは誇りですね。それは、自分たちは毎日ぼろを着て汗にまみれて働いているけど、他人の労働に頼って生きているんじゃない。自分の労働で、自分の働きで、生きているんだぞという自信、誇りにあふれていたと思うんです。決してそういう言葉で私がいわれたわけではありませんよ。でも、節々にそういうものを感じました。この精神が、ガンジーがスワラジとよんだ精神と一緒だと思うんですよ。自立して生きていくという心。それが国とかいうものを支えてきたもので、それが今の日本人は高度成長期を経て失ってしまったんじゃないかと。農業を切り捨てて工業工業に走ってきて、いつのまにか農業と一緒に百姓魂まで切り捨ててきちゃったんじゃないかという思いが非常に強いんです。それで、少しでも百姓魂というものをなんとか若い人に伝えられないかと思って、スワラジ学園を開きました。学園は18歳以上なら年齢制限なしに受け入れています。だから18歳から60歳まで老若男女います。残念ながらこの1〜2年入学する人が非常に少なくて、ちょっと運営的にまいっているところがあるんですけども、そういうかたちで細々とでも続けていきたいなあというふうに思っています。

最後にまとめとして、今はやはり豊かさ=消費財が多い。ものが満ちあふれている、そういう価値観を見直してほしい。そういう価値観を見直すことが大切だということをお話ししたい。工業社会というものは、欲望を次々に開拓して満たすことを目標にしてきました。それが社会の進歩のようにいわれてきたわけですけど、私はそれは決して進歩じゃない、むしろものに振り回されて心が貧しがっている、そういう社会だったんじゃないかなというふうに思うのです。欲望を開拓していっても決して満足は得られない。なぜかというと欲望は無限だからですね。そして、欲望というのは満たされないうちは魅力的。満たされると当たり前になってしまって魅力を失うんですね。

ひとつ、メイテル・リンクの「青い鳥」という童話劇を紹介したいんですけど、たぶんみんな知っているでしょう。チルチルとミチルという兄妹が青い鳥を求めて旅をする話。実はメイテル・リンクも哲学者でして、彼は哲学的な問題をテーマを決めて作品を書いています。「青い鳥」は幸せとは何か、幸福は何かをテーマに書いている。チルチルとミチルは青い鳥、つまり幸福を求めていろんな国を旅するわけですよ。未来の王国とか思い出の国、夜の御殿、そういうところを旅します。これは我々が幸せを求める場所ですよね。未来の王国というのは、若い人は未来になったら幸せがあると思って生きるわけでしょう。年をとると思い出の国、「若い頃は良かったな」と思い出の中に幸せを求めるでしょう。あるいは夜な夜な夜の御殿に幸せを求める人がいるわけですよ。そういうところにチルチルとミチルが青い鳥を求めて旅します。青い鳥はいないかというと、いるんですよね。でも、捕まらないんです。捕まえたはいいけど、捕まえると死んでしまったり、捕まえると青い鳥が黒い鳥になってしまったり。結局青い鳥を持ち帰ることができない。これは何の例えかというと、やっぱり欲望をいろいろ開拓しても手に入れたときには魅力を失う。そして、幸せでなくなってしまうということだと思います。
ものを求める人はそういう宿命にありますね。私が若い頃は金持ちのステイタスシンボルは3Cといわれていました。カラーテレビ、クーラー、カーですね。今の若い人たちに3Cはみんな当たり前でしょう。カラーテレビ、クーラー、カーもみんな当たり前に誰でも持っているからなんの魅力もないはずですよ。それは当たり前にあるもので、もっと別なものを求めなければいけないわけでしょう。次から次へと求めていくんですね。だけど、絶対に満足は得られない。

これは農業のしかたなんかもそうでして。1年中ナスやトマトを食う人は、ナスやトマトの魅力を失うんです。最初に冬にトマトを食ったときは、「いやあ、冬にトマトが食えた」ってすごい喜びだったに違いない。だけど、今は1年中食っているから新鮮な喜びが何もないんです。でも、我々は旬のものしかありませんから、初めて食べるナスというのを一つ二つもいでくるわけですけど、それがなんとおいしいことか。半年待ったわけですから。そういうふうに、満たされると喜びを逆に失ってしまうということですね。やっぱり感じなくちゃいけない。

労働の形態もそうなんですよ。私は米の脱穀をするのに、最初足踏み脱穀機を使っていました。それはもう大変な作業でね、一日中足で踏んでいると、終わってからでも足が動いてますから(笑)。そういう感じです。それを見かねて近所の農家の人が昭和30年代の機械、自動脱穀機と名前がついているんだけど、それをプレゼントしてくれたの。「こんなのが倉庫に眠っていたから、お前、これを使え」と「足踏み脱穀機よりずっと楽だぞ」と。それを使ったときは楽でしたね。地獄から天国に行ったくらい楽だったの。でも、今農家の人はそれなんかとても使えませんよ。それは、その後にハーベスターの時代があり、コンバインの時代がありというふうにどんどん楽をする方にきたからです。極端なことをいうと今コンバインでも、近所の農家がコンバインを持っているんだけど、その方は兼業農家じゃなくて日曜農業やってる米作り農家ですけど、コンバインを持っているんだけれど、収穫は人に頼んでる。なぜならそのコンバインは旧式なんですよ。だから、収穫したものは袋に入って、その袋を担いで田んぼの外に出さなければならない。その労力がつらい。今の改良型のコンバインは全部腹の中に米を入れて、車のトラックにじゃーっと吐き出すんですよ。だから、袋で移動する手間がない。それだけでもう、前の機械は使えないんですよ。何百万円もかけて買った機械がね。

欲望というのは、楽をしたいという欲望でも、追求していくとエスカレートしてきりがない。満たされるとそのときは嬉しいんだけど、次のときから当たり前で、なんの喜びも失っちゃう。それをよく考えていただきたいなと思う。だから、もっと別のところに幸せを求めないと、多分この社会がいつまで進歩しても、いつまでも満たされないという異常な社会になっていくというふうに思います。


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