広田直繁(ひろた・なおしげ) ?〜1570?

武蔵国の国人領主。木戸範実(正吉)の子。木戸忠朝の兄弟。武蔵国羽生城主。
父の範実は広田朝景と木戸孝範の女の間に生まれたとされており、範実や忠朝は母方の木戸姓を継承したが、直繁は祖父の広田姓を名乗ったことになる。
天文5年(1536)5月、河田谷(木戸)忠朝とともに小松神社に三宝荒神の御正体を寄進し、天文23年(1554)にはこの小松神社の社殿を父とともに修築した。
永禄3年(1560)の秋に越後国の上杉謙信が相模国小田原城主・北条氏康を討伐するために関東に出陣してくると忠朝とともに従属し(越山:その1)、11月には所領の安堵を受ける。このとき直繁・忠朝の両名に宛てて羽生城が安堵されていることからも、両名は兄弟であるとされる。
永禄4年(1561)に忠朝が上杉謙信から皿尾城の守将に任じられると、直繁が事実上の羽生城主となる。
永禄11年(1568)1月、上杉謙信より前年10月の下野国唐沢山城での戦い(越山:その8)に参陣した功を賞され、永禄12年(1569)閏5月には越相同盟交渉の進捗状況を知らされるとともに忠信を褒められており、信頼が厚かったことが窺われる。
また同年7月には武蔵国深谷城主の上杉憲盛が上杉謙信に帰属しているが、直繁・忠朝兄弟の功績が大きかった。その功績ゆえか、翌永禄13年(=元亀元年:1570)1月、両名に下野国藤岡郷を宛行われた。さらに2月には直繁に長尾顕長から奪取した上野国館林城と知行が与えられ、移住したようである。
また、かねてより足利義氏を古河公方として認めるよう謙信に具申していたが、4月にはこれを容れられた。
この後の直繁の動静は不詳となるが、同年中に館林領土橋村の善長寺で自害したとも推測されている。