保科正俊(ほしな・まさとし) 1509〜1593

信濃国の国人領主。保科正則の子。甚四郎と称す。弾正忠。
保科氏は古代より信濃国高井郡穂科(保科)御厨を本拠とする豪族であったが、長享年間(1487〜1489)頃に更級郡を本拠とする村上顕国(村上義清の父)の侵攻を受け、正俊の祖父と父にあたる保科正利・正則父子が伊那郡の高遠に移住し、高遠の領主であった高遠氏の麾下に入ったとされる。
正俊は、甲斐国の武田信玄が天文14年(1545)4月から伊那郡の高遠城(高遠城の戦い)、ついで福与城を攻撃した際(福与城の戦い:その2)、福与城の救援に赴いた小笠原信定に属して出陣している。高遠氏の陣代として従軍したものとみられる。
天文20年(1551)頃、武田氏と高遠頼継が再び不和になると武田氏からの調略を受けており、翌年に高遠氏が滅ぼされると武田氏に仕えた。信濃先方衆で騎馬120騎持で、その武勇は『槍弾正』と称された。
武田氏に仕えてからは高遠城将のひとりとして、高遠城主として赴任した武田勝頼武田信廉を支えたが、のちに嫡男の保科正直を出仕させ、正俊自身は正直の弟で内藤氏の養嗣子となった昌月が城代を務める上野国箕輪城に赴いたようである。その時期は不詳であるが、天正3年(1575)半ばから天正7年(1579)初頭の間であろう。天正7年2月には、昌月とともに主君の勝頼から「在城定書」を与えられている。
天正10年(1582)3月の武田氏滅亡後は徳川氏に仕え、文禄2年(1593)に死去した。