内藤昌月(ないとう・まさあき) ?〜1588

武田家臣。保科正俊の子。保科正直の実弟。武田氏の重臣で上野国箕輪城代・内藤昌豊(昌秀)の養子となり、内藤源三と称す。修理亮・大和守。
養父の昌豊が天正3年(1575)5月の長篠の合戦に従軍して戦死すると、その跡目を相続して武田勝頼に仕えた。
天正5年(1577)頃に修理亮を称し、天正8年(1580)には大和守を称している。
天正7年(1579)2月、上野国箕輪城代に就任。同年8月には、前年の上杉謙信死去による越後国上杉氏の分裂抗争(御館の乱)勃発を受けて去就に迷う上野国厩橋城主・北条高広(芳林)の調略を担当し、武田陣営に引き入れる功績を挙げている。
天正10年(1582)3月の武田氏の滅亡に伴い、その直後は関東地方の雄・北条氏に従属したが、5月頃には上野国の国主として厩橋城に入部した織田氏重臣・滝川一益の傘下に入った。
天正16年(1588)に没した。