北条氏綱の四男。通称は竹王丸。左衛門佐。通説では北条氏康の六男または七男とされていたが、氏康嫡男の北条氏政らと比較しても明らかに年長であることから、氏康の実子ではなく養子とされたものと思われる。
活動の初見は天文24年(=弘治元年:1555)6月に上野国平井の統治に係る人事を差配したことであり、このとき34歳であったと思われる。かつ、叔父にあたる北条幻庵の後見を受けている。氏堯の活動開始が遅かった理由は不明だが、この翌月には一軍の将として安房国へ出陣している。
永禄元年(1558)4月、古河公方・足利義氏が鶴岡八幡宮への参詣を終えて小田原城内の氏康亭を訪れた際、寝殿での給仕役の筆頭として饗応した。
永禄3年(1560)7月、幻庵の子で武蔵国小机城主であった北条三郎(宝泉寺殿)が没すると、小机城主に任じられた。
同年8月末に越後国の上杉謙信が関東への侵攻(越山:その1)を開始すると、永禄4年(1561)2月頃に防衛戦の最前線となっていた武蔵国河越城へ救援に赴き、その指揮を執った。
『小田原北条記』等の軍記物語では、天正9年(1581)の駿河国戸倉城の戦いで、氏堯(ただし、官途が右衛門佐とされている)が武田氏に寝返った松田新六郎に敗れたことが記されているが、近年の研究では、氏堯の動向は永禄5年(1562)10月までしか確認できないこと、忌日が年次不詳ながらも4月8日であること、永禄7年(1564)1月の時点での河越城代が北条氏信で、この氏信は小机城主でもあり、つまりは氏堯の後任としての地位にあったことなどから勘案して、氏堯は永禄6年(1563)4月8日に没したとも考えられている。