北条一族。北条幻庵の子(二男か)。北条三郎(宝泉寺殿)の弟。通称は新三郎。
永禄元年(1558)4月28日、古河公方・足利義氏が北条氏の本城である相模国小田原城を訪問し、城内にある北条氏当主・北条氏康の私宅に御成りした際に、兄・三郎に続いて給仕を務めていることが活動の初見である。
永禄6年(1563)、公家の西園寺公朝の娘と結婚。
永禄3年(1560)7月には武蔵国小机城主であった兄の三郎を亡くし、この小机城主の地位は、氏信が未だ若年であったためか従兄の北条氏堯が継承しているが、氏堯の死去後と思われる永禄7年(1564)1月には氏信が武蔵国河越から武蔵・下総国境で行われた国府台の合戦:その2に参陣していることから、氏信が氏堯の地位を継いで武蔵国小机城主ならびに河越城代になったとみられる。
永禄11年(1568)12月、甲斐国の武田信玄が今川氏との同盟を破って今川領の駿河国に侵攻すると(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)、北条氏は今川氏の支援を決め、氏信は先陣の大将として出陣した。
翌永禄12年(1569)に信玄が再度の駿河国侵攻を企てると(武田信玄の駿河国侵攻戦:その2)、武田軍の進軍を扼す駿河国蒲原城を守衛したが、12月6日に武田勝頼の猛攻を受けて蒲原城は陥落、氏信も戦死を遂げた(蒲原城の戦い)。