足利家臣。高師重の子。高師泰・師直の弟。大和権守・駿河守。武蔵守護。引付頭人。
元弘の乱に際しては兄の師泰・師直らとともに足利尊氏の挙兵に参加したようであり、建武2年(1335)11月に尊氏追討のために新田義貞の軍勢が関東に差し向けられると、師泰に属して三河国矢作川の合戦に従軍している。
その後の京都への進撃から九州下向にも尊氏に随行し、翌建武3:延元元年(1336)3月の菊池武敏らとの筑前国多々良浜の合戦にも従軍した。この合戦に際し、菊池方であった松浦党などが一戦も交えないうちに足利陣営に降ってきたことに尊氏が警戒感を顕わにしたところ、重茂は和漢の故実を引用して信用すべきことを説いたという(『太平記』)。
その後、尊氏の上洛に従って京都での合戦に参加しているが、建武4:延元2年(1337)4月には武蔵守護になっており、同年12月には陸奥国の大軍を率いて2度目の上洛に臨む北畠顕家の軍勢を利根川で阻もうとして敗れるも、北畠軍を追撃。翌年1月に美濃国青野原(のちの関ヶ原)で北畠軍と再び交戦したが、このときも敗れている(北畠顕家の征西:その2)。
同年、天竜寺立柱などに供奉。
康永2:興国4年(1343)に大和権守から駿河守に任官。
康永3:興国5年(1344)、高師冬と交代するかたちで関東に下って鎌倉府執事に就任したが、貞和5:正平4年(1349)10月の足利義詮の上洛に随行したと思われ、代わって翌年1月に関東に下向した師冬が再び鎌倉府執事となっている。
観応2:正平6年(1351)1月、義詮に従って足利直義軍と京都に戦う(観応2:正平6年の京都攻防戦)。
観応3(=文和元):正平7年(1352)5月頃には大高重成らとともに引付頭人に起用された。重茂は義詮下文施行状を多く発給しており、義詮の執事、あるいはそれに准ずる地位に在ったことがうかがえる。
その後の事績は不詳であるが、義詮没後の応安元:正平23年(1368)2月に武蔵国で平一揆が蜂起した際(武蔵国平一揆の乱)、6月6日に鎌倉を出奔した者に高大和入道重茂の名が見える(『古文書判鑑』)。