河野教通(こうの・のりみち) 1435?〜1500

河野氏惣領家・河野通久の子。幼名は犬正丸。通称は九郎。室町幕府第6代将軍・足利義教より一字を与えられて教通と名乗り、のちには通直と改名。刑部大輔。
永享7年(1435)6月に父・通久が豊後国で大友持直と戦って戦死したのちに生まれたとされることから、生年は同年または永享8年(1436)となる。通久のあとを継いで伊予守護となる。
永享10年(1438)11月より幕府に出仕するため上洛、翌11年(1439)閏1月には関東で激化していた足利持氏の討伐(永享の乱)に出陣するため、美濃国まで下向するよう命じられている。また同年には将軍の命を受けて主に大和国で転戦(大和永享の乱)するなど、12年(1440)に帰京するまで忠勤を重ねた。
河野氏では父・通久の頃より惣領家の地位をめぐって「予州家」と呼ばれる分家との対立が続いていたが、この紛争が嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱ののちは細川氏と畠山氏の両管領家による管領職をめぐる政争と連動して結びつき、教通は畠山氏、予州家は細川氏より支援を受けることになる。
しかし享徳4年(1454)に畠山持国が死去したことによって教通は後ろ楯を失い、伊予守護職が細川勝元の手に移ったことをはじめとして、領主としての主導権を予州家の河野通春に握られるなど、伊予国内の紛争においても苦しい展開となった。
しかし勝元は伊予国の直接支配を目論み、寛正年間初期より中国地方の守護大名や伊予国の国人領主らを動かして伊予国の征服に乗り出した。これに反発した予州家は惣領家と歩み寄りを見せ、情勢は河野氏と管領である細川氏の対決という転換をみせることとなる。さらに寛正6年(1465)に周防・長門・豊前・筑前の守護職を兼帯する大内教弘が細川氏に反発して河野氏に加勢したことにより、辛うじて命脈を保った(寛正伊予の乱)。
文正2年(=応仁元年:1467)より始まる応仁の乱において、はじめは大内氏との提携関係から予州家とともに西軍に与していたが、のちに東軍に転じた。西軍に在り続けて在京する予州家に対し、教通は文明元年(1469)5月頃までには帰国して国内での勢力拡充に努め、勝元が没したのちの文明5年(1473)11月には伊予守護に返り咲いている。この頃には予州家を凌ぐ勢力を扶持していたようだが、長年に亘る予州家との対立によって守護大名としての勢力は弱体化していた。
文明18年(1486)までには出家して道治と称し、ついで道基と改める。明応9年(1550)1月20日死去(2月20日とする説もある)。法号は後善応院殿洪山道基大禅定門。