(南光坊)天海(なんこうぼう・てんかい) 1536?〜1643

天台宗の僧侶。号は随風。大僧正。慈眼大師。出自を室町幕府将軍・足利義澄または義晴の子とする説もあるが、陸奥国会津の蘆名氏の一族と見られる。
幼少の頃に会津で僧になって随風と号し、比叡山の実全に師事して天台宗を学んだ。他にも三井寺や南都で倶社・三論・唯識・華厳などの諸教学をはじめとして禅や密教を修めたという。
元亀元年(1570)の織田信長による比叡山焼き討ち後は甲斐国に行き、武田氏に集まった天台僧と論議をなした。
天正17年(1589)に徳川家康の帰依を受け、天台の教えを説いた。その後は家康の厚い信任を受け、天正18年(1590)には日光山の再興、天正19年(1591)には常陸国の江戸崎不動院、慶長4年(1599)に武蔵国川越の仙波喜多院に入るなど徳川氏と密接な関係を持つに至る。関ヶ原の役ののちに徳川氏が名実共に実権を握ると、重く用いられて内外の政務に参画するようになり、江戸幕府成立の枢機に関与したともいわれる。
元和2年(1616)に大僧正となった。
同年の家康の死に臨んで本多正純(金地院)崇伝と共に遺言を聞き、家康の死後はその遺体を祀るにあたって崇伝の推す吉田神道の「明神」号に反対、仏教と神道を融合させた山王一実神道(日吉神道)の「東照大権現」の称をもって日光山に改葬した。
仏教の中心を関東に移すことに努め、寛永元年(1624)に徳川秀忠の命を受けて江戸忍岡に東叡山寛永寺を建て、その開山となる。この寛永寺は徳川家の廟所となったことなどから、関東屈指の大寺院となった。
寛永20年(1643)10月2日示叔。慶安元年(1648)に慈眼大師と諡号された。
前半生が経歴が不明瞭なこと、年代が同じことなどから、明智光秀と同一人物であるとする説もあるが、虚構であろうと思われる。