佐野房綱(さの・ふさつな) ?〜1601

佐野豊綱の子(または弟)。はじめ仏門に入り、天徳寺了伯、宝衍と号す。修理大夫。
剣術の達人だったという。下野国唐沢山城にあり、佐野昌綱・宗綱父子を補佐して佐竹氏や北条氏らと結び、上杉氏とは対抗した。
天正13年(1585)1月、同族で唐沢山城主の佐野宗綱が上野国館林城主・長尾顕長の軍勢に、下野国彦間(ひこま)で討ち取られた。宗綱には男児がなかったので、大貫越中ら老臣が北条氏政の義弟・氏忠を迎え、宗綱の息女を室として配して当主に据えることに決めたが、了伯は北条氏に家を奪われることに反対したが容れられず、佐野家を去って羽柴秀吉に仕えた。
天正18年(1590)の小田原征伐のときには唐沢山城攻めの先導を務め、旧臣を糾合して唐沢山城を抜いた。
この功によって唐沢山城3万9千石を得て房綱と名乗り、天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役に際しては肥前国名護屋城に在陣。同年9月に養子とした富田知信の子・信吉に家を譲り、6千5百石の分知を得て隠居した。
慶長6年(1601)7月2日没。
なお、信吉は慶長19年(1614)、兄の富田信高事件に連座して除封された。