元亀元年(1570)4月、織田信長は
越前国の朝倉義景を討滅すべく出陣した。この侵攻戦で織田勢は快進撃を続けたが、浅井長政の不意の離反にあって撤退を余儀なくされる(朝倉征伐:金ヶ崎の退き口)と、反信長勢力がにわかに活気づいたのである。
かつての南近江の領主・六角義賢もそのひとりであった。義賢は信長が永禄11年(1568)に上洛する際に居城を逐われて(箕作城の戦い)より旧領回復を目論んでいたが、この機を逃さず旧臣や一向宗徒らを糾合して挙兵に及んだのである。
六角勢は5月には稲葉一鉄の守る近江国守山城を攻め、6月には野州川畔にて織田勢との交戦(野州川の合戦)に臨んだ。この両度の合戦ともに敗れたが、なおも織田氏重臣・柴田勝家が守備する近江国長光寺城に攻めかかったのである。
8千ほどの兵を率いて来襲する六角勢に対し、織田勢は長光寺城の守兵と永原城から救援に駆けつけた佐久間信盛の軍勢を合わせても2千ほどであった。兵力に劣る勝家は長光寺城に籠城し、城を堅く守って後詰を待つ策を取った。しかし六角勢によって水の手を断ち切られたために城内は水不足に陥り、渇きで倒れる者が続出したのである。
窮した勝家は、水を入れるための甕(かめ)を自ら叩き割ってもう後がないことを将兵に思い知らせ、決死の覚悟で六角勢に挑みかかり、ついにはこれを打ち破ったのだった。
この武勇談が『甕割り柴田』の逸話として残っている。
ただしこの長光寺城の戦いは、比較的信頼度が高いとされる『信長公記』などの史書に記述のないことから、その実在を疑う意見もある。