野洲川(やすがわ)の合戦

永禄13年(=元亀元年:1570)4月、織田信長朝倉義景を攻めるために越前へと兵を向けたところ、突然に妹婿の浅井長政が叛旗を翻し、挟撃された信長はほうほうの態で京都まで逃げ帰った(朝倉征伐:金ヶ崎の退き口)。
このことにより、勢力圏と化していたはずの近江国では北部の浅井氏が敵対しただけではなく、甲賀郡に退いていたかつての南近江の領主である六角義賢義治父子が勢力を盛り返す動きを見せたのである。

信長は岐阜と京都を結ぶ通路を塞がれることを懸念し、守山に稲葉一鉄を派遣した。一鉄は六角氏に与する国人領主たちを打ち破って琵琶湖沿岸の地を制圧する働きを見せる。信長はすぐに近江国の長光寺城に柴田勝家、永原城には佐久間信盛、安土城に中川重政を配して琵琶湖南岸の通路を暫定的に確保した。
勢力回復の好機として挙兵した六角勢は、5月下旬より甲賀・伊賀の国人を中心とした数千の兵力で草津方面に進出。6月4日に義賢・義治父子は野洲川畔に兵を進め、川の西岸の笠原に布陣した。先陣は三雲三郎左衛門・高野瀬美作守・永原遠江守らである。それに続いて甲賀武士団が構えた。対する織田勢は柴田勝家・佐久間信盛も野洲川畔に兵を出し、落窪(乙窪)に布陣、川を挟んでの決戦が始められた。
この戦いは2、3時間の戦闘で織田勢の勝利に終わり、六角方では重臣の三雲・高野瀬以下8百人弱の犠牲者が出たという。
この後の6月、信長は横山城に柴田勝家、翌年の2月には佐和山城に丹羽長秀を置き、南近江の支配体制をさらに固めたのである。