越山(えつざん):その6

永禄9年(1566)3月、原胤貞の拠る下総国臼井城を攻めた上杉謙信であったが、臼井城の救援に駆けつけた北条・千葉氏の軍勢に大敗を喫し、5月には帰国した(越山:その5)。この敗退によって謙信は北条氏の圧迫に苦しむ関東諸将からの求心力を失うこととなり、帰国後の5月頃までには常陸国の小田氏治、下総国の結城晴朝、下野国の宇都宮広綱小山秀綱らが証人(人質)を差し出して北条氏に従属するに至った。

上野国新田金山城主の由良(横瀬)成繁も北条氏に降ったひとりであった。由良氏は上杉謙信が永禄3年(1560)から翌年にかけて越山(越山:その1)した際に従属してからは一貫して上杉方勢力として活動していたが、時期は不詳であるが臼井城攻めの敗退後に北条氏に降ったようである。
結城・小山・宇都宮といった諸氏が北条方になったことで、自領が上杉方と北条方の勢力圏の境界線上に位置することになったのを嫌ったのであろうか。来援を望んでも、三国山脈を越えなければならない上杉軍は遠い。
こうした情勢を受けて、謙信は8月24日に越後府内を発った。軍勢の規模は不詳である。そして閏8月中頃には越後・上野の国境に近い越後国上田荘、ついで越山して上野国の沼田に着陣している。
その後、上杉軍は金山城に由良氏を攻めたが、この後も由良氏は北条方勢力として存続している。上杉軍が金山城を落とすことができなかったのか、それとも示威行動に過ぎなかったのか。戦いの推移が史料からは窺えず、具体的なことは不詳である。
9月5日、由良成繁・国繁父子は北条氏康氏政父子連署の起請文を得ている。