小山(こやま)城の戦い

天正3年(1575)5月の長篠の合戦武田勝頼率いる軍勢に大打撃を与えて撃退した徳川家康は、7月頃までには犬居谷と称される天竜川沿いの地域を抑えることに成功した(光明城の戦い)。この犬居谷周辺は、武田方が家康の本城である遠江国浜松城を攻めるにあたって重要視していた二俣城の背後にあたり、徳川方としてはここを制圧したことで武田方が信濃国伊那地方から行う進撃や二俣城への補給を断つことができ、浜松城への圧迫が払拭されることになった。
この後の戦略にゆとりができた家康であったが、二俣城は周辺に築かせた4つの砦をもって封じ込めておき、家康自身は休む間もなく東へと軍勢を進め、8月24日には駿河国との国境に近い遠江国諏訪原城(のちの牧野原城)をも陥落させたのである(諏訪原城の戦い)。
諏訪原城に籠城していた武田方の将兵は同国の小山城へと退却し、徳川方も連戦に次ぐ連戦ではあったが、勢いに乗じて小山城への攻撃に移行したのである。

小山城の周辺では先だっての諏訪原城の攻囲と並行して苅田が行われており、これに対して武田勢も近隣の城から援兵を派遣して迎撃にあたっていた。
この頃の小山城将は、『嶽南史』では三浦義教・朝比奈秀盛・小原忠国らとし、『当代記』では岡部元信とする。いずれにしても彼らに加えて諏訪原城から入ってきた将兵もおり、徳川方に対して徹底抗戦の姿勢を示していた。
徳川軍の内部では、戦略について意見が分かれていた。多数は「武田方は長篠での敗戦による軍勢の損耗が激しいだろうから、勝頼が小山城の後詰に出てくることはないだろう」と考えたようだが、それでも「織田信長に援軍を要請したうえで攻めるべきだ」と、念を入れることを提案した者もいたようである。
しかし家康も多数派と同じ考えだったため、自軍のみで攻撃することに決した。
小山城への攻撃は8月28日から始められたといい、徳川軍の先鋒は松平康親・石川数正本多忠勝らであったが、小山城兵もよく守って徳川軍の攻撃に耐えていた。そこへ武田勝頼率いる軍勢が小山城の後詰のため、大井川の左岸(駿河国側)に出陣してきたのである。
1万3千余という救援軍が9月7日に大井川の渡河を開始すると、家康は小山城攻撃の続行を断念して撤退に取りかかった。殿軍は家康の嫡男・松平信康で、武田軍を牽制しながら大井川の右岸沿いに諏訪原城まで無事に撤退させた。
対する勝頼も小山城の救援を果たせたため深追いはせず、翌8日には駿河国島田の鎌塚原に布陣して諏訪原城を窺う構えを見せるも、この日の夜には小山城に入って城の普請を行い、次いで同国の高天神城へ軍勢を進めて兵糧を搬入し、徳川方への備えを固めるにとどまった。
武田軍が徳川軍に攻撃を仕掛けなかったのは、兵の質に問題があったためと考えられる。つまり、徳川方の見立て通り武田方の兵の損耗は甚大であったが、それでも勝頼はなんとしてでも小山城を救援すべく、質を捨てて頭数だけを揃えた軍勢で出陣してきたのである。この中には未だ12歳ほどの年少者や還俗したばかりの元僧侶などまでもが動員されていたといい、そんな寄せ集めの軍勢では徳川方に決戦を挑めなかったのであろう。
勝頼が小山城に入ったことを知った家康は、武田軍が高天神城へ移動することを予測し、諏訪原城の普請を命じたのち、自身は後退して馬伏塚城に移った。ここを攻撃されて退路を断たれることを警戒したのであろう。
しかし武田軍はそれ以上進軍せず、9月21日までに小山城に戻り、のちには撤兵している。