岡部元信(おかべ・もとのぶ) ?〜1581

甲斐国武田氏の家臣。岡部信綱の子。通称は五郎兵衛。別称を長教・真幸とも。丹波守。
はじめ駿河国を本拠とする今川義元に仕え、織田信秀の死後に尾張国鳴海城主・山口教継が織田氏から離反して今川氏に帰順すると、鳴海城将となる。岡部氏は水軍衆との関りが深く、鳴海城将に任じられたのは、そのためだったとされる。
永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦で義元が討たれたのちも鳴海城に拠って抗戦したが、義元の首級を引き取って開城して駿河国に帰った。6月にはその奮戦ぶりを、武田信玄より賞されている。
今川氏の滅亡後は武田信玄・勝頼の2代に亘って仕え、武田氏が駿河国を制圧して水軍を強化するにあたっては、これに大きく寄与した。元亀2年(1571)に伊勢海賊衆の小浜景隆・向井正重らが武田氏の麾下となったのは、岡部氏の伝手によるものである。
元亀3年(1572)の夏には武田信玄より岡部惣領職を与えられた。
遠江国小山城将を経て、天正5年(1577)頃より遠江国の要衝である高天神城将となる。
この高天神城は、天正3年(1575)8月に支城ともいうべき諏訪原城が徳川勢によって落とされて(諏訪原城の戦い)いたこともあって兵糧や城兵を含めた戦備の維持が困難であったことに加え、天正8年(1580)10月には徳川家康に6つの付城を築かれて重厚な包囲に陥った。このため武田氏からの補給や後詰を得られず、餓死者が続出するという状況下にあってよく城を支えたが、天正9年(1581)3月22日、徳川勢の榊原康政本多忠勝鳥居元忠らの攻撃を受けて落城、元信も討死した(高天神城の戦い:その2)。