須々万沼(すすまぬま)城の戦い

天文24年(=弘治元年:1555)10月の厳島の合戦に勝利し、大内氏の実権を握る陶晴賢を討った毛利元就は、即座に大内氏の領国である周防・長門両国の制圧に着手し、同月初旬には周防国東部の岩国にまで進出。玖珂郡を中心に、着実に勢力を浸透させていった。その一方で陶晴賢という柱石を失った大内氏では、椙森・杉・右田といった有力武将の寝返りや一揆衆が鎮圧されたことにより、戦力を削がれていったのである。
毛利氏が目標に据えたのは陶氏の本拠である富田若山城であったが、その経路を扼す須々万の沼城の攻略にとりかかる。

須々万沼城は須々万盆地の低丘陵地に築かれ、その名のとおり周囲の三方を沼に囲まれた天然の要害を擁していた。城主は山崎興盛父子であるが、これに大内義長から派遣された江良賢宣・宮川伊豆守らの援軍、さらには先に鎮圧された一揆衆の残党なども加わり、その兵力は1万ともされている。
毛利隆元を総大将とする毛利勢は弘治2年(1556)4月19日に岩国の永興寺を出発、翌20日より須々万沼城への攻撃を開始した。しかし城の守りは固く、加えて大内氏に心を寄せる諸郷村の百姓らによる一揆に退路を断たれることを恐れ、翌日には岩国の本陣まで撤退した。
9月22日にも隆元率いる毛利軍は再び攻め寄せ、城下の町野口で戦ったが、このときも攻めきれずに退却している。
このため、翌弘治3年(1557)2月末には元就自ら総大将になり、隆元・小早川隆景・平賀広相ら1万余の軍勢と鉄砲を用いての総攻撃を敢行した。この攻撃に、山口から来援していた江良賢宣・宮川伊豆守らは3月3日に至って降伏、城主の山崎興盛父子が自害したことによって須々万沼城は陥落したのである。