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 □話し手 後藤 隆一先生 『人間主義経済学序説』著者
 □聞き手 山本 克郎 「小島志ネットワーク」代表幹事



 
 前回は「ヒューマノミックスとは何か」と、その三つの特徴について伺いましたが、第一の特徴である「近代西欧文明批判」という点は歴史的に見て重要な問題だと思います。
明治以降わが国では、欧米諸国の経済学を翻訳して導入して、大学ではこれを金科玉条として取り扱う風習がありました。戦後も大学での経済学と言えば、欧米諸国の経済学説をいち早く翻訳するのが最新の経済学研究かのように錯覚する傾向がありました。
 後藤先生の「人間主義経済学序説」の第一部は近代経済学批判―若き経済学者への手紙です。後藤先生の明晰な批判を読んで感動しました。わが国の経済学界に欠落している視点だと思います。多くの経済学者が、実態から遊離した、観念的な、思弁の議論に傾斜している中で、近代経済学の基礎となっているヨーロッパ近代文明批判という視点は大変重要な点だと思います。
 戦後わが国では、学問上も思想上も主体的に西欧文化をまともに批判し、論ずることもなく推移してきたように思います。ヒューマノミックス研究を通じて、後藤先生が取り組まれた欧米の伝統的経済学、近代経済学に対する批判をお聴かせ下さい。




 今お話の「近代経済学批判」は「人間主義経済学序説」の冒頭にあるものです。したがって、それは、人間学と社会科学の統合であるヒューマノミックスの総体にとって序文になり、そのパラダイム論に通じるものです。その要点を以下に述べてみましょう。
 近代ヨーロッパ文明を一っ跳びに跳び越えるのですから少しは難しいかもしれませんが、不可能なことではありません。目が覚めるのは、一瞬なのですから。それでははじめましょう。
経済学は、自然科学をモデルとして生まれた学問ですから、客観性を重んじ測定可能な実証性を持った経済の法則を求めるものでした。したがって、主観的なものであるとして、価値論は排除されました。その結果、経済学は抽象的思弁の体系となり、それに当てはまらないものは切り捨てる。そこで切り捨てられた最大のものは人間であった。つまり、人間不在の閉鎖的体系となり、意味も目的も見失い、現実問題の解決に役立たないだけでなく、有害な側面さへ持つものになりました。
経済学は、人間を扱う学問ですから、価値や意味を問うことは避けられません。しかし、自然科学を模倣して出発した経済学は、それを避け、むしろ隠そうとしてきました。事実、経済学は、価値判断からの自由を建前としながら、功利主義哲学と自然法思想を前提としています。しかし、欲望や目的の内容を問うことを避け、その手段の効率のみを追求してきました。しかし、隠された欲望の目的は、功利主義哲学の「営利」であり、快楽の追求と苦痛の回避ですから、経済学を根元的に批判すると功利主義の批判になります。


 もう一つの隠された前提は、自然法思想で、「市場経済では、欲望を追求する個人の行動によって自動的に社会の需要と供給は均衡する」という予定調和の思想です。この思想をめぐって、経済学のイデオロギーは、自由主義と社会主義に分かれてきたと言ってもよいほどだと思います。
古典派の理論は、この均衡のメカニズムを証明しようとするものでした。スミスやリカードによって理論化された労働価値説がそれです。労働を交換価値の源泉であり、基準とすることにより等価交換が実現し、需要と供給も均衡するという理論です。しかし、労働は、価値の基準として測定可能な実態ではありませんから、この理論は破綻します。
 新古典派の主観的効用価値説は、価値の本質を、人間の主観に依存する物の効用に求め、効用は、ものの数量が増えるに従って減少するという効用逓減の法則を仮定し、その下で、効用の総量を最大化する様な個人の選択を仮定し、その上に個人の選択の総計として社会的需要と供給の均衡を説きます。しかし、効用もまた客観的に実証することができず、測定不能ですから、「選択の決定は限界効用が等しくなる点にある」という均衡の概念も単なる思弁の産物に過ぎず、主観的効用学説もまた破綻していきます。
 価値は、主観と対象の関係を意味する関係概念であって、実態概念ではありません。価値は、人によって異なり、時と場所などの条件によって変化しますから、自然科学的客観性というカテゴリーにはなじまないのです。
しかし、客観性にこだわる経済学は、交換の媒介である貨幣によって、商品の価値が計測可能となり、社会的にもその普遍性が承認されているという現実に着目して、需要供給の均衡を価格メカニズムの理論として完成します。
 こうして、労働とともに、効用という価値概念も表面から姿を消し、貨幣が代わって、価値の基準の座に着き、自由主義経済のイデオロギーとしての均衡論だけが、価格メカニズムの理論として生き残りました。こうして、貨幣は、目的であり、支配力であり、ステータスのシンボルとなって、人間と社会に君臨するようになったのです。これがマルクスの疎外論や物象化論の生まれる背景です。
ケインズは、不況や失業の原因は、金本位制における貨幣量の不足にあるとして銀行によって作り出される信用貨幣への転換を提言し、政府がその流通量をコントロールする所謂、管理通貨制を提案しました。市場への政治の介入の理論です。コントロールの方法は金利の操作と窓口規制といわれるもので、中央銀行による政策です。物価の動向や景気の変動に対応して銀行の企業への貸し出しを調整するものでした。しかし、それが、十分機能しない場合は、国家が赤字国債を発行することにより、貨幣量を増やし需要を拡大する方法が、景気と失業対策として認められました。これがケインズ制度の主流になるのです。
 その結果、ケインズ主義とは、国家の借金の拡大による経済成長主義になるのです。その結果が、膨大な国家の借金と地球的な生態系の崩壊と富の不平等を限りなく増大し続けることになります。ケネス・ボールディングは、「経済学を超えて」という著書の中で、「無限に拡大するシステムは、必ず破綻する」といっていますが、それは持続不能なシステムなのです。
そこでは、人間の力である労働が、商品の力、貨幣の力に転化して、逆に人間を支配すると論じられます。しかし、均衡とは、思弁の産物で、虚構です。不均衡と不平等こそ、この貨幣システムの常態であり、マルクスやケインズの理論が生まれる理由がそこにありました。しかし、マルクスは未完成であり、ケインズは不完全で、ロエブルを待たなければならないと考えるのです。
 経済学の今日的課題は、そういう新しい矛盾の解決に向かうことになりますが、それは、功利主義をベースとする既往の経済学の根本的変革を意味し、欲望の追求に止まらず、更に、新たに発生した貨幣的、実物的諸矛盾を具体的に解決しなければならなくなりました。
功利主義とは幸福を人生の目的とする思想ですが、それは、具体的に快楽の追求と苦痛の減少を求める思想です。
 古典派が、労働を価値の源泉とし、尺度と考えたのは、労働を、負の価値として普遍化し、労働時間を短縮する生産性の向上や便宜性の改善を、経済の目的として万人に承認を求めたのでした。しかし、今日では、労働時間の短縮は、快楽や苦痛に関係なく、単なる貨幣的なコストの削減と競争力の強化としてしか意味を持たなくなりました。
 一方、新古典派が、効用を価値の大きさの基準としたのは、それを、快楽の量的概念とし、比較選択が可能だと考えたからです。しかし、その数量的な測定が不可能なのは、労働と同じで、自然科学的客観性に耐えないので、効用に代わる価値基準を求めねばならなくなります。
そこで、市場の自由競争によって生まれた商品価格や所得額という貨幣の数量的概念が効用の価値を示すものとして、個人の収入の集計である国民所得を社会的効用の総額と考えました。それはまた、GNP(国民総生産)に等しいものとしました。その考えを統計学と結び付けて実証性を主張しているのです。しかし、その実証性はプロバビリテー(蓋然性)であって、数学的意味の確実性ではありませんが、自然科学もまたプロバビリテーの学であるとする時代の変化により、よしとされたのでした。
 ピグーの厚生経済学も、貧困や不平等という問題の解決を目的としてスタートしたものですが、貨幣によって計測される厚生を、経済的厚生と呼んで経済学の対象としました。そこから生まれた価値観は、貨幣で表現される生産の拡大が厚生の拡大であり、GNPの拡大が国民経済の目的であると考えるようにすり替わっていったのでした。しかし、貨幣は、それ自体では、意味を持たない相対的存在なのですから、何に使うかによって価値が決まり、善にもなれば悪にもなり、貨幣的数字は何を意味するかは全く不明です。それは、虚栄的な浪費の拡大かも知れないし、自然環境の破壊かも知れないし、戦争による殺人と破壊を目的とする兵器の生産かも知れません。これらは、人間にとって負の価値ですが、正の価値と区別されません。GNP信仰は、貨幣による支配と人間の奴隷化となり、人間が目的観を喪失し、自己を疎外するという結果になります。
 これが、功利主義が行き着いた結果です。功利主義的価値は人間性の一面を表現しており、初期の経済学者達は、ありのままの自然人の価値観としましたが、快楽とか苦痛というのは、個人の感性による経験的なものですから、社会性、精神性を欠き、普遍的全体性を持たないので、人間に真の充足感を与えるものでなく、一時的なものとして、究極的意味や目的とはなりえないものです。問題は、それを、個人主義的、経験論的哲学の根底にしたことにあります。このことは、新古典派のミルやマーシャルやピグーのような創始者たちが、十分理解していたことで、快楽とか苦痛は決して感性的、生理的なものに止まらず、精神的、道徳的、宗教的なものも含まれるとして、とくに利己主義を否定しています。
 しかし、最大多数の最大幸福を社会的目的という経験論的哲学の限界を超えることが出来ず、それが多数決原理を支え、少数者や弱者の犠牲を承認することになります。こうして、功利主義がよって立つ経験論哲学が人間の自己喪失と疎外の真因となってきたということができます。
もう一つ、功利主義が理論としても、現実社会でも、消費者の行動原理を空洞化しているのは、戦前に、既に、アメリカの経済学者ヴェブレンによって、豊かな社会における虚栄の問題として論じられておりました。財の希少性を前提に造られた経済学の理論が、「豊かな社会」の実現によって妥当性を失うことを指摘されております。
 そこでは、快楽とか苦痛に基づく実需が十分満たされた社会では、需要を決定するのは、自分の欲望ではなく、他人にどう思われるかという虚栄心であるというのです。その虚栄心を扇動する広告宣伝が、生産に劣らない重要性を持つようになると指摘しております。そこでは、財産、収入、地位、名誉、権力が重要な価値ですが、貨幣が普遍的で根源的支配力となってきます。これが現代文明の特徴の一つである貨幣信仰です。しかし、貨幣はある種の手段でありますが、それ以上のものではない。貨幣信仰は、科学信仰と共に、人間不在文明の裏面であります。人々は、意味もなく貨幣を求め、虚栄を追求しますが、充足感がなく、空しさだけが残ります。そのような社会では、一方で、熾烈な競争の生み出す貧困と犯罪が再生産されます。他方で、金持ちの有閑階級の子女にも、精神異常者や自殺者も多いと言われます。このように意味も目的も見失った社会の経済学は、企業の競争だけでなく、国家の競争も組み込んだ学問になってゆく。企業も、国家も、最大で、最強を目指すが、決して、国民のため、人類のために機能するのではなく、一握りの富裕階級のために機能するシステムに組み込まれ、今やそのような戦時的体制維持のための御用学者の学問から抜け出すことが困難になっているように見えます。世界の軍事大国アメリカにとって、世界の資源と生産力と情報を最も安く、最も自由に支配できる戦時体制ともなって、そこでは、企業や国家だけでなく、大学や研究機関も体制に組み込まれ、超大国アメリカの国家的イデオローグになり果てることを危惧されるというのです。
 以上が、第一部の大要ですが、これは、当時福岡大学の経済学部長であった芹沢数雄氏の二年分の紀要論文を私が総括し、同氏の了解を得て発表したものです。後になって知ったのですが、氏は、一橋大学の理論経済学の本流である福田徳三、中山伊知郎、荒憲治郎の伝統を継ぐゼミナールで学んだ人です。その彼が私の中に同類を見出し、私も求めていたテーマだったから送られた論文を読んで私の思想の中で総括を試みたものです。私自身の意見は第一部の後半に、「人間主義経済学の方法論的特徴」で述べていますが、それは一つの結論でもあるので、次回はシューマッハー、ロエブル、小島慶三、3人の独自性と理論上の役割についてお話ししたいと思います。




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