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 □話し手 後藤 隆一先生 『人間主義経済学序説』著者
 □聞き手 山本 克郎 「小島志ネットワーク」代表幹事



 
 近代経済学批判に立って、1970年代という時代を背景に出現したヒューマノミックスは、どのような理論的な形成過程を辿ったのでしょうか、その先駆者であったシューマッハー、ロエブル、小島の三人の思想の要点について、後藤先生のお考えをお話して頂けませんか。




  シューマッハーについて言えば、70年代、経済成長主義が失業の問題さえ解決できず再び世界を脅かし始めた危機とケインズ経済学に対する批判です。彼は、ケインズが、南北の所得格差、先進国内の階級格差、そして自然環境の破壊と資源の枯渇などの問題が、人類の生存基盤を食いつぶしていることに気がついていない。そして教育における価値観、人間観の欠如などの課題は現代の根本問題だと言っています。
 シューマッハーの思想は、これらの問題群の克服のための問題提起でした。彼は、経済学は、人間とは何か、とか、幸福と平和はいかにして実現出来るとか、という根本問題を問うことのない二次的な学問であると言い、価値観、人間観のパラダイムを問うことから出発し直さなければならないと指摘しています。
 彼が、差別や格差の生まれる最大の原因として取り上げたのは、近代技術の性格でした。それは、大きいことはよいことだとし、ひたすら貨幣的利潤を求めるシステムでした。その上、この技術は有限で汚染的な化石燃料に依存する巨大技術です。彼は、技術論においては、近代技術と土着の伝統技術を合成した中間技術を提唱しましたが、それは大量生産の技術ではなく、大衆のための技術であり、輸出のための技術ではなく、大衆の生活のための技術であると言っています。そこでは、所有権の問題について、巨大企業における不在所有を寄生虫的存在に過ぎなく、自由な改革の阻害要因であると批判しています。
 シューマッハーの「スモール」の思想は、高度成長によって、一切の矛盾が解決するかのような錯覚に落ち、近代技術文明の万能と、ヨーロッパ文明の普遍性を信じていた当時の欧米人に強い衝撃を与えましたが、それは、文明の転換期を告げる予言者であったのかも知れません。

 ロエブルの特徴は、パラダイム論から始まって、システム論に展開して行くことです。
パラダイムとはものの考え方の基本的特徴であり、枠組みですが、伝統的経済学は自然科学的法則を真似て、経済法則を求める機械論的学問でした。しかし、経済は、人間によって創造される多様性、特殊性の世界であるとして、経済法則という概念を排除しています。したがって、システムという概念も、単なる客体の論理でなく、人間によってつくられ、操作される道具のようなものとなります。その点、マルクスの客体の論理から見るなら、ウェーバーの主体の論理へ近づいたものになります。
 しかし、ロエブルには、主体の論理であるパラダイム論と共に、客体の論理である社会システム論があります。彼のパラダイムは、労働価値説を否定し「応用科学による生産が支配的となる現代社会では、富の源泉は労働ではなく、社会の知的水準と社会の総合システムである」と言います。そこからスミス、マルクス以来の労働価値説を否定しています。
したがって、私的所有権のみならず、その総計である国有ということも、根拠を失います。
 ロエブルは、自由主義経済学も社会主義経済学も、所有という概念の上に建てられた建築物であると言います。ここで、社会的総合システムは、巨大な変電所のようなもので、一方から自然エネルギーをインプットすると、他方から人間に役立つ電気エネルギーが、アウトプットしてくるようなもので、そこで生まれくる富は、個々の生産主体を分析してみても無意味であるような社会的ゲインとでも呼ぶべきものであるという。
 そこでは、経済は、社会的に目標を設定し、コントロールし、分配と循環を実現すべきもので、貨幣は、その手段として再開発されるべきものでした。現代は、市場システムの内部では解決不能なマクロの次元の問題が多発し、政府などの公的機関による解決が不可避となりますが、その手段が貨幣であり、新しい貨幣哲学に基づく新しい貨幣システムが彼の理論の要になります。

 小島慶三は、現代社会の危機の内実として、1)社会システムの機能不全。2)自然環境における生態系の崩壊。3)主体である人間の道徳的退廃。の三つを上げていますが、その特徴は、生態系の「共存と循環」という生存のシステムを人間社会の原理とすべきことを主張しています。
 それは、経済学が切り捨ててきた人間の回復でした。そのためには、無機的な工業生産を主体とする経済から有機的な農業とバイオテクノロジーを主体とする経済へ転換する、つまり生命系の産業に未来を託すべきだと主張しています。
 工業と農業では、生産の性格を異にしており、工業がなくても人類は生存しえたが、農業がなくては生存できないとも言っています。これは、当時では、一種の予言だったかも知れませんが、今日のバイオエネルギーへの移行が必然視され、バイオテクノロジーが第三の文明と哲学を開く鍵となる時代では極めてリアルなのとなったのです。



 時代背景に関連して、シューマッハー、ロエブルの所論の特徴と後藤先生の見解をお話頂けませんでしょうか。



 3人の先駆者の目的としていることは同じで、それぞれ「ヒューマノミックスの理論」の柱をなしていると私は、考えています。つまり、近代ヨーロッパ文明の矛盾と行き詰まりの批判、もう少し近づけると、ケインズの管理通貨制の下での環境破壊と財政赤字の生まれるシステムの批判です。もう一つの共通点は、パラダイム論から出発していることです。
パラダイムとは、ものの考え方ですが、既往の経済学は、自然科学的方法の客観主義で、価値観を排除するのですが、その点、この3人は反対で、価値観、人間観を中心に理論をくみ上げてゆこうとするのです。
 シューマッハーは、資源論で、最も重要な資源は人間だと言い、現代文明が危機にあるのは科学技術のノウハウが不足なためでなく、価値観がないためだと言います。
 価値観は、人間の存在の在り方のレベルにより、大小、上下の秩序があるとして、近代科学の価値観の排除を非難します。下は無機物の無意識の段階から、植物の段階、動物の段階、人間の段階とあり、人間は、精神的レベルの存在だと言います。しかし、価値の問題は、自然科学の教えるものではなく、哲学や宗教の教える形而上学であるとも言います。しかし、仏教的価値観には、最近の生命科学の教える生命論と接点のあるものが見受けられるようです。ともに、経験論的、実証主義的側面があるからでしょうか。

 シューマッハーの「仏教経済学」について言えば、ミヤンマーの小乗仏教で、空仮中の三つの真理観より見れば、空観に属するものですが、彼の教育論において、全体人間を教育できなければ成功したと言えないと語り、全体人間とは、あらゆる問題をそこから発信し、そこへ帰る生命の中心に触れた人であると言う。これは法華経の一念三千論の発想に外ならないから、彼は、法華経の体得者でもあったように見えます。
 ロエブルについて言えば、彼の貨幣哲学と貨幣システムは、法華経の空仮中の三の真理観なしには、発想できなかったろうと思います。根底的で、問題解決学としては徹底しています。
 シューマッハーの方は、具体的で、感覚的で、理解しやすいのですが、実践論としては、中間技術論止まりです。これに対し、ロエブルの方は、貨幣システムの変革から、所有権の問題にまで及びます。
 端的に言うならば、ロエブルの理論は、ケインズの貨幣論の欠点を克服する理論があり、その貨幣システムの欠陥を克服する問題解決学は、ロエブルにはあるがシューマッハーにはないと言うのが相違点です。
 シューマッハーが仏教思想の影響を受けたことは明瞭ですが、哲学的には小乗仏教の段階のものが主です。ロエブルは、直接的には仏教思想と接触がないにも拘わらず,11年間の獄中の体験とその思索が彼を仏教的自覚の深部にまで近づけたのかと思います。
 そして、さらに、私が、今気がつくのは、小島先生の初期ヒューマノミックスは、シューマッハーに近く、私の人間主義経済学は、ロエブルに似ています。安原さんの「少欲知足の経済学」もシューマッハー的です。

 それでは、具体的にパラダイム論からみてみましょう。
ロエブルは、「富の源泉は、社会の知的水準と総合システムである。したがって、スミス以来の労働価値説は否定され、私的所有は根拠を失う。生産システムは、相互依存的、有機的全体をなしていて、独立した個体に分割して考えても意味のない世界となっている。そこでの生産物は社会的ゲィンとでも呼ぶべきもので私的財産の合計ではない。従って企業の所有は私的個人に属すべき根拠はなく、経営者は、社会という共同生産者から賃借りした共同借用者なのである。」と言っています。
 これは縁によって生じたものは固有不変の実体ではない。それを空と呼ぶという小乗仏教の空観に外なりません。従って,貨幣も商品の一種であり,労働の産物であるという商品貨幣論もケインズ以後は存在していない。
 貨幣は人間によって創造され、仮設された制度であり、シンボルに過ぎないものになります。シンボルとは、般若心経の「色即是空、空即是色」の世界であります。これは、人間の意識によって作り出された現象の世界であり、仮観であります。
 マックス・ウェーバーの文化の世界も、牧口常三郎の価値創造の世界もそうであります。仏教では、大乗仏教の菩薩の世界が仮観の世界とされます。
 ヒューマノミックス研究会で、今は故人となられたが、日銀の調査局長であった西川元彦の話したことですが、「人類が文明を作り、人類となるためには、三つの発明が必要であった。しかし、それは、物の発明ではなく、シンボルの発明であった。一つは言葉の発明であり、二つ目は文字の発明であり、三つ目は、貨幣の発明であった。その中で貨幣の発明が最も大きい影響を文明に与えた」という話がありました。
 私は、次のミレニアム(千年)の人類の運命を決めるものは、ロエブルの貨幣論だと思っています。それは、社会の自己制御の手段になるシンボルであり、人間の英知によって作り出される社会的操作の道具だからであります。もう一つ重要なことは、自覚的自己制御の全体を創造する法華経の人間観であると思います。
 法華経では、この空観と仮観を方便と称して、その上に真実と目的として現れるのが、中道であり、仏性という自覚者の立場であるとされます。あらゆる生命体は、仏性を持つとも言います。法華経とそれ以前の経との違いがここにあります。
 法華経によれば、生命とは、自己認識と自己創造を本質とする存在であります。つまり、主体性がその本質であります。仏性とは、法を持った自覚的主体であります。それゆえに、共同体原理における自己制御の主体になりうるのであります。

 これに対して、ギリシャに生まれて、ドイツで完成した観念論(イデアリズム)の理性は、仏性とは、本質的に異なる概念です。それは、言葉の秩序の中での矛盾を排除する論理であり、能力であります。従って、排他性に帰結します。これに対して、仏性は、変毒為薬の英知であり、共存と循環に帰結します。共同体原理は仏を意味する自覚的自己制御を原理とし、人間が作り、人間が操作するシンボルとしての貨幣を手段とすることによって、完成するものであります。これがロエブルの貨幣論であり、シューマッハーにはないものです。


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