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 □話し手 後藤 隆一先生 『人間主義経済学序説』著者
 □聞き手 山本 克郎 「小島志ネットワーク」代表幹事

 シューマッハーのスモールの思想


 
 前回は、価値観の視点から「近代経済学批判」について伺いましたが、今回から、ヒューマノミックスという学問の先駆者であったシューマッハー、ロエブル、小島の三人の思想についてお話し頂きたいと存じます
 そこには共通性と共に独自性があると思いますが、それがどう関連し合っているのかも解説して頂ければありがたいと思います。




 それでは、シューマッハーから始めましょう。彼の「スモール」の思想は近代経済学に対してだけでなく、近代文明にとっても、衝撃的な事件であったと思います。しかし、また、それを無視し、忘れ去りたい人々も多かったと思われます。そういう人々にとって、彼が事故で急逝したことは、好都合だったわけで、彼の理論は無視され、忘れ去られていきました。
 しかし彼の理論は、世界中の国家財政の赤字と累積債務の増大として、地球温暖化と砂漠化と生態系の崩壊として、国や民族の所得格差の拡大として、その真実性を証明し続けているのです。文明的危機とは、この文明は永続できない状況になってきたということです。
 シューマッハーのスモールの論点は、価値観、人間観の問題が第一、文明論の問題が第二、自然の生態論の問題が第三と思います。
 彼の言葉を聴くことから始めましょう。彼は資源論の中で、第一の価値観の問題を取り上げていますが、説得力のある言葉で次のように言っております。
 『歴史を通観するに、文明を興隆する最大の資源は物質ではなく人間である。したがって、教育こそ、最重要な課題である。今日、私たちの文明が危機にあることは明らかであるが、それは技術的なノウハウが不足のためではなく、何をなすべきかの価値観がないか、誤っているからである。しかし、価値観は宗教や哲学の教える形而上学であって、科学の教える形而下の問題ではない。
 ノウハウが、文化でないのはピアノが文化でないのと同じである。何故ならピアノは物質であり、作曲も演奏もできない。同じように、ノウハウは目的観を与えてくれるものではない。それに対し、人間は、多面的で、重層的、創造的、主体的な存在であり、その価値観も、多面性、重層性をもつ。
 教育の最大の問題は、このような多様性を自己のうちに統合する全体人間をつくることである。人間はこのようなレベルの異なる階層的な秩序の価値観を持たなければ、人生の目標も、基準も立てることができず、意味と価値の体系を見失ってしまう。ここに、近代科学信仰が、教育と学問から価値論を追放し、人間喪失の悪しき形而上学を残してきたという罪がある。
 教育は、全体人間を作って初めて成功したといえるのだ。しかし、全体人間とは、百科全書のような知識人ではない。あらゆる多面的で重層的な意識と対象がそこから発し、そこへ帰る中心点に触れた人のことである。』
 シューマッハーのいう階層的人間観とは、鉱物的レベル、植物的レベル、動物的レベル、人間的レベル、精神的レベルと言うような重層的多面性を持った人間観です。シューマッハーの人間観と法華経の生命観に通じる点は、両者とも、生命を発展史的、重層的人間観と捉えており、今日の生命科学の認識と矛盾しません。それに対して、経済学の理論体系は、人間を抽象化し貨幣的欲望と競争に特化し、その上に建てた合理的建造物です。そこで生まれる矛盾を、多数決原理で切り捨てると、功利主義的人間観だけが残る。この点は、近代経済学批判で取り上げました。そこに残るのは、貨幣欲だけです。
 シューマッハーと法華経の相違点にふれておきましょう。十界の生命には、地獄と、声聞、菩薩、仏という四つの段階の生命がありますが、これはシューマッハーにはありません。地獄とは、生命の法に反したために受ける罰としての苦悩です。これによって法の存在を知るのです。
 ここから、反省的な英知と創造的な英知の活動が始まります。反省的英知と言うのは、排他的エゴの世界からの脱却で、声聞界の自覚である空観と呼ばれるものになります。空とは、利己的執着の無意味さを知ることです。創造的英知と言うのは、苦悩の原因を克服するためのシステムの創造と愛と信頼の仲間づくりです。菩薩界の自覚である仮観と呼ばれる英知です。
 心が、物やシンボルを媒介として自己創造する世界です。技術と芸術を獲得することによって、文化創造の主体となってゆくことにより、生命の主体性に対する自覚が現れる。内なる生命の自己実現であり、自覚的自己制御の中心である生命の主体性の確立であります。この立場にたつことを、中道と呼び、仏性と呼びます。シューマッハーは、文化科学の重要性を主張し、人間観のない文化科学は存在意義がないと論じています。彼の価値論は、ロエブルや私の理論では、パラダイム論として機能するものです。
 

 次の文明論に移りましょう。シューマッハーの思想の最大の課題と特色は何かと言えば、それは近代ヨーロッパ文明の批判だったと言えましょう。
 社会学の創始者、アウグスト・コント以来、文明論は社会学のテーマでしたが、近代ヨーロッパ文明の行き詰まりと破綻の批判を問題としたことはありませんでした。しかも、彼は、近代ヨーロッパ文明の誇りであり、強みであった科学技術と生産力の巨大さを批判の対象としました。
 つまり、近代西欧文明批判とは科学技術文明の批判であり、資本主義文明の批判であり、それは、大きいことは良いことであり、儲かることは良いことだとする文明の批判だったのです。そして、この高度成長文明を生んだのが、ケインズの貨幣システム論でした。したがって、シューマッハーのスモールの思想は、ケインズの成長主義の批判でもありました。
 それは、これまで良いとされてきたことは、すべて悪いとされることでした。反発や抵抗がないわけがありません。
 しかし、シューマッハーを生んだものは時代そのものでした。ローマクラブの会長ペッチィエによって、「成長の限界」が出版されたのも、ボールデングの『経済学を超えて』が出版され、宇宙船地球号という言葉が有名になったのも同じころです。また、殺虫剤と化学肥料の多用による機械化農業が土壌の劣化と生態系の崩壊をもたらし、生存の基盤そのものを破壊していることの認識も始まっていたのです。アメリカの女性植物学者カーソンが『沈黙の春』を書いてすでに久しかったのです。日本では蛙の声が田んぼから消えました。
 

 このような時代の子であるシューマッハーの思想が、時代の特質を捉えないはずがありません。それを要約してみましょう。
 近代ヨーロッパ文明批判の第一は、科学技術文明批判でした。それは、大量生産と機械生産による労働節約的、自然収奪的工業文明でした。大都市文明でもありました。そして、再生不能で有限な化石燃料をエネルギー源とするものでした。また工業原料の大半は鉱物資源で、その50パーセントが再生不能の廃棄物となるものでした。そして、工業生産の基地である大都市はヒンターランドとしての農村と自然環境の収奪の上に成り立つものでした。
 前世紀の前半までは、これらの農村地帯は、欧米先進国の植民地として政治的にも支配されており、欧米諸国は植民地獲得戦争をしていました。
 第二次世界大戦後これらの植民地は独立するのですが、経済的関係は変わりなく、いわゆる南北問題としてシューマッハーの批判の対象となるのです。
 そして、科学技術文明として提起された文明の矛盾とは、共存と循環のシステムである生態系を破壊し、自らの生存基盤を否定するものでした。そこで、生態系における循環のシステムを支えるものは、植物の光合成と土壌中の微生物による分解作業ですが、工業生産的思考での殺虫剤の多用が土壌を劣化し、農業の深刻な失敗をもたらしたのでした。
 農業と工業の生産は、技術的にも、まったく異なることが強調されます。農業は、生態系の共存と循環のシステムと同じで永続的ですが、工業のシステムは、合理的、効率的で計画可能ですが、持続可能性はない。人類は、工業がなくても生きて行けるが、農業がなければ生きてゆけないと言っています。
 しかし、今日では、有機農業が常識になっており、新バイオ・サイエンスの開発が問題となる時代ですから、少し違う視点から考えねばならないのかも知れません。いずれにせよ、科学技術文明の視点と言うのは、大量生産文明の視点ですから、生産が化石燃料に依存し、汚染物質を拡大再生産するものである限り、自然破壊と繋がるものです。
 

 次は、資本主義的な貨幣文明の視点からの近代文明批判です。具体的には、ケインズ的貨幣制度の批判となります。この問題は、私としては、論じ尽くしてきた問題ですが、専門家の賛成を頂けない問題です。出版祝賀会での篠原美代平先生のコメントでも同じでした。篠原先生の批判の要点は、私のケインズ理解は貨幣数量説、つまりマネタリストと同じになるのでないかということのようでした。
 私とマネタリストの相違点は、公的介入の手段として、国家の財政をどれだけ重視するかにあります。この点は「一般理論」のケインズに関する限り、明白です。ケインズとマネタリストは、理論の出発点は同じです。しかし、その理論が機能しなくなることが、二つあります。一つは、不況のどん底で金利が下がって底辺にへばりついて、金利操作ができなくなる時。もう一つは、いわゆる成熟経済で、金余り、物あまりのときです。そのため、ケインズ主義は財政への依存度を高め、矛盾は国家の膨大な借金に集約されて行く。その借金の故に国家が、問題解決能力を失うのです。こういう国家を、私は、準破産国家と名付けたいと思います。
 そこで、私たちの子孫が、どんな学問をして、年収の十倍もある借金を引き継いで、この国家を再建できるのか。この膨大な借金が全国民に課せられることが、制度的条件だとしたら貴方はどう考えますか。問題は構造的な問題だと言うのはそういうことです。社会全体ではゼロサムの関係が支配し、誰かがお金持ちになるためには、誰かの銀行からの借金がそれだけ増えなければならない。国家の借金が増えることによって国民の預金が増える時代はまだ楽だった。
 しかし、そういう時代には、政官財の指導者たちが癒着し、国家の借金を増やすことによって私的利益を追求することが半ば制度化した時代だったのです。その半面、「ワーキング・プワー」が生まれました。
 こういう社会に道徳が生まれるわけがない。道徳を求めるならそれが可能な正義が確立していなければなりません。それは政治の役割です.したがって、そこで生まれるのは、道徳や愛国心ではなく、革命です。しかし、20世紀は、革命に裏切られた世紀でした。マルクス主義革命は幻想に終わり、そのアンテーゼであった「アメリカン・ドリーム」もまた幻想の中にあります。
 こういう状況下で、この国の世襲化された政権党の政治家達は、愛国心と道徳でこの国と社会の再建を考え、それに、財力と権力と武力の覇者、米国との同盟を結ぶことによって、この構想はめでたく完成するはずだったようです。
それに対する国民の否定が顕在化したのが今回の選挙だったと思います。しかし、勝った野党にも、この矛盾を超える理論も政策もない。そこで大連合を求める。しかし、ゼロをいくら加えてもゼロなのです。
 これに対して、「人間は本来ちぃさいものである。故に小さいものは美しい。」というシューマッハーの思想は、大きいもの、強いものを競い、戦争と環境破壊の危機を深める近代欧米の文明を超えようとするものでした。
 それがまた、小島先生の最も共感し、ヒューマノミックスの原点としたものであったと思います。しかし、なお人間の主体性と手段性の理論として不十分なものを感じるのです。何故なら。私たちは、ヒューマノミックスに、問題解決学という課題を与え、そこでの問題を文明論的危機とし、目的を、人間の自覚的主体性の確立と生命共同体の形成におくものだからです。そこに、冷戦時代のチェコからの亡命アメリカ人ロエブルを取り上げねばならなくなるのです。
 私たちの時代とは、客観的に危機であるだけでなく、主体的、理論的にも破綻した時代なのです。修正論として現れたケインズが誤魔化しであり、革命論として現れたマルクスが暴力と権力による官僚支配であることがわかりました。
 

 次回は、冷戦時代のチェコからの亡命アメリカ人、エウゲン・ロエブルの「ヒューマノミックス」を取り上げて、問題解決学の本質に迫り、パラダイム論としての人間観と社会システム論としての「手段としての貨幣論」についてお話しましょう。



(第六回対談に続く)
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