【雑感】


【なぜ京都大学に入学したか】

人より少しばかり勉強というものができた。また、東京という都会が好きではなかったので、京都大学を選んだ。また、東大の試験問題は、私には合わなかったし、東大では、社会系の試験を2科目も受けなければならなかったので、東大に行くのはやめた。京都大学に入学して、すぐに中古の125ccのオートバイを購入した。どこで見つけたのかわからないが、銀閣寺の前の方から、大原を通り抜け、山道を走って、右に折れ、琵琶湖まで行って、琵琶湖を左に見て、比叡山にのぼる道を通り、また銀閣寺まで戻ってくるというルートをオートバイで走るのが心地よかった。勉強して疲れた後等に、このルートを通るのを日課としていた感じである。

【恩師】

泉の恩師と言える人は、京都大学時代の上田正昭先生である。

上田正昭先生とは、偶然1回生の時に、学費値上げ反対という活動で、教養部長声明というものを出していただいた。当時は、上田正昭先生が古代史の権威であるということを知らなかった。2回生の時になぜか「国史学のゼミ」を受講した。そこで、また上田正昭先生と出会った。この時に、歴史理論の講義を受け、私なりに咀嚼して、一元的生産様式から多元的生産様式への発展という理論を作り上げた。それは、25歳の時にまとめた。

コンパでは、上田正昭先生に、祇園(先斗町?)でお酒を飲ませて頂いた。この時に、初めて酔いつぶれるということを経験した。下手なカラオケも歌ったが、「琵琶湖周航歌」という知らない歌が出てきた。上田正昭先生が、「琵琶湖周航歌」も知らないのかと言われたことが印象に残っている。この当時、私は、京都大学についても、世間というものについても何も知らなかった。

上田正昭先生の話は面白かった。3つくらいエピソードを上げると、

1.梅原猛先生は、大ぼら吹いていると、笑って言っておられた。
2.「部落の歴史と解放運動」を書いたころは、みんな仲良く研究をしていたのにな、と言っておられた。
3.これは、泉の聴き間違いかどうかわからないが、「邪馬台国」論争は、付き合いでやっているようなものだ、(魏志倭人伝の?)文献考証から始めなくてはならないというようなことを言っておられた。

【数学の教授】

戸田宏先生は、幾何学の権威らしくおおらかで優しかった。ほんの少し話したことがあるが、アイデアが浮かべば論文なんてできたも同然である、ということを言っておられた。

永田雅宜先生は、すれ違うだけで、畏怖というものを感じるオーラを持っていた。こんな感覚を持ったのは、初めてであった。

溝畑茂先生は、繊細すぎるほど繊細で、プライドの高い人だったのだろう。
ルベーグ積分の講義で、自分の著作に触れて(先生の著作にはちょっと弱いところがあるのだが)、黒板に手をつき体を支えて、2~3分じっと思いにふけっておられた。そのあとを見ると、黒板に手の汗がついていた。こんな人がいるのだという感覚を持ったのも初めてだった。


昔の教授陣は、板書が上手で字が上手かった。