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桂川に沿って

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梅宮大社

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広隆寺

阪急嵐山線、松尾で下車して、桂方向に向かっての散策。まず、駅前の大社、松尾大社を詣でることになる。そして、歩を東にとり、桂川を渡る。この桂川、丹波地方を水源として、保津川として流れ、嵐山付近から名を桂川に変える。そして、やがて淀川に合流する。合流する手前に、有名な「桂離宮」や更に山側に入れば苔寺として有名な「西芳寺」があるが、何れも訪れる事が出来なかった処だ。

松尾橋から桂川の流れ

この桂川の治水事業を行い、農耕として活用したのが、秦氏と云われている。今では、桂川周辺は、宅地化されたり、事業所などが並ぶが、桂川の川縁に立ち、川を見ていると、往時の雰囲気を感じ取れる。
そんな桂川沿いに、散策をした。

梅宮という名前、早春には梅が咲き誇るという。残念ながら、訪れたのは、5月半ば過ぎだった。梅ではなく花菖蒲が出迎えてくれた。
梅宮大社は、京都でも数少ない子授けの神を祀る社。そういえば、訪れた時、生後間もない赤ちゃんを連れてお礼参りしていた夫婦連れを見た。何となく、ほほえましく、そして日本人の変わらぬ姿を見たようだった。この大社は、平城朝から平安朝にかけての豪族であった橘氏の氏神である酒解神他を祀っている。
嵯峨天皇の后・橘 嘉智子(壇林皇后)が子宝に恵まれず、梅宮大社で祈願して、後の仁明天皇を授かったという。そんな謂れが、今でも子授かりの神として、親しまれてきているのであろう。
境内の「神苑」は、桂川から引いた水で作られた二つの池を中心とした庭園で、季節季節の花々を楽しませてくれる。

月読神社

松尾大社から松尾山に沿って南に歩くと、小さな社がある。「月読神社」で、月を祀っているという。487年(顕宗3)に勅命によって桂川沿いに創建され、その後桂川の水害を避け、現在地に856年(斉衡3)に移されたというから、その歴史が古い。祭神は、天照大神の三貴公子の一人月読尊を祀る社で、日本書紀にも記述されているという。又、本殿北には、神宮皇后が腹を撫でて安産したと伝わる「月延石」があり、今でも安産祈願でお参りする女性も多いという。
そんな、歴史があるとは思えない、静かで小さな境内には、訪れる人が殆どいない静寂に包まれていた。

地蔵院の沿革
   臨済宗
  1367年(貞治6)  細川頼之が夢想国師の高弟宗鏡禅師を開山として創建
    境内17万平方mという大きな伽藍だったが、応仁・文明の乱で焼失
  明治になり、竜済・延慶の両寺を合併し、現在に至る。

地蔵院の総門をくぐると、竹藪が茂る参道を進むようだ。愛称。「竹の寺」と呼ばれているのも肯ける。竹藪だけで、外の世界とは切り離された感じになり、別世界に入ったような気になる。そして、風にこうしたようにざめく竹林の音が気持ちよい。
この寺に眠る武将、細川頼之は、足利幕府の管領として足利家を支え、南北朝統一の功労者とも云われている。しかし、その手腕に反感を買い、51歳の時、讃岐に隠棲する。その直前、地蔵院を訪れ剃髪したという。その時の七言絶句が、
「人生五十功無きを愧ず  花木春過ぎて夏すでに中なり  満室の蒼蝿(そうよう)掃えども去り難し 
 起って禅榻(ぜんとう)を尋ねて清風に臥せん」 己が身を捧げ尽してきた武将の気持ちが理解できる。頼之は、その後 再び足利義満に呼び戻されるが、翌年死去し、遺骸がこの寺に葬られた。本堂の南にある文字一つ刻まれていない自然石が、その墓。いかにも頼之らしい。
又、この地蔵院は、一休禅師が幼少の頃修養された寺で、一休禅師は、地蔵院の近くの民家で生まれたと云われている。
庭園は、十六羅漢の庭と呼ばれ、石一つ一つが、羅漢を意味しているそうだ。

華厳寺(鈴虫寺)

何でこんなに観光客が訪れるお寺なのかと驚く。月読神社から、鈴虫寺を訪ねようと思ったが、参道入り口まで行列している。地蔵院へ行き帰りに寄る事にする。しかし、地蔵院からの戻った時も同じように並んでいる。何故、これほどの人気かと思い、並んで見る事にした。
並ぶ理由の一つに、参拝客を本堂内に招きいれ法話をするようになっている事だ。正直、法話そのものの印象派薄い。そして本堂内に飼われている約1万匹もいるという鈴虫の音が、名物になっている。
本堂前に草鞋を履く幸福地蔵が、有名。家まで訪ねて願いをかなえてくれるので、草履をはくという。良く考えたものだと思ってしまう。
寺名が示すように、元々は華厳宗の寺院であり、1723年(享保8)の創建で、比較的新しい寺。その後、1868年(慶応4)に臨済宗となった。
京都の寺院としての歴史があるわけではないが、鈴虫で一躍有名になった稀有な寺院といえよう。