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清涼寺

常寂光寺(じょうじゃっこうじ)の沿革
  常寂光寺  日蓮宗本山本圀寺派 
  本圀寺の住持であった日ワ辮lの隠遁所が起源
  1615〜24年(元和何巻) 堂宇が整備

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嵯峨天皇の離宮が造営されて以来、貴族達の別荘が築かれたり、隠棲の地として、世俗を離れて草庵を結んだ者もあった嵯峨野。今でも人々に人気のある地域で、何時も若いカップルやグループ連れで賑っている。そんな嵯峨野、関西在住してから直ぐに訪れたものだが、その後は、あまり訪れる事もないままであった。或る意味で、本来の嵯峨野の持つイメージと現実の嵯峨野の姿のギャップに矛盾を感じてしまったからかもしれない。しかし、これも自分勝手な思い込みで、平安貴族達が生活していた時代とは異なる現在に住んでいるのであるから、変わって当然だし、そうでなければ時代の進歩がないことになる。そう理解できても、嵯峨野という言葉から受ける響きには独特なものがある。特に、女の性を思わせる幾つかの悲話が、何故か多い。現代の駆け込み寺と呼ばれる「直指庵」、平清盛の寵愛を受けたことで知られる「祇王寺」、そして滝口入道と横笛の悲恋にまつわる「滝口寺」などなどである。そんな話が似合う地でもある。
小倉山の麓道は、嵯峨野でも一番の観光スポットだろう。二尊院や常寂光寺などの古刹が甍を並べる。歌人、藤原定家は、後鳥羽上皇の命により「新古今和歌集」の撰者の一人となり、晩年嵯峨野に山荘を設け、そこで編纂されたのが「小倉百人一首」であったという。そんな定家、「こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」と詠っているのが、嵯峨野の一面を語っているようだ。
どういわけか嵯峨野という地のイメージが強すぎたのか、それぞれの古刹の思いが余り残っていないのは、どういう訳だろうか。

常寂光寺

素朴な茅葺の仁王門は、日ワ辮lが没する前年の元名2年に本圀寺より移築された。楓の木で、仁王門が映えている。
日ワ辮lは、豊臣秀吉が父母の千僧供養会に際し、八宗の僧侶に出仕を求めたが、日蓮宗の「不受不施」(他宗派の信徒から布施を受けず、他宗派の僧に供養しない)の教義を貫き、出仕を拒否。その後、本圀寺に咎めが及ぶことを恐れ、自ら寺を去り、嵯峨野に隠れすんだ。この日ワ辮lに隠棲地を与えたのが、豪商の角倉了以で、了以の保津川開削工事にあたっては、本圀寺の末寺がある備前から船大工20余名を呼び寄せたという。

二尊院

本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀っていることから、「二尊院」と呼ばれている。釈迦如来は、真如の世界から迷界にあらわれ、現世を生きる人を見守り、励まし来世へと送り出してくれる「発遣の釈迦」。阿弥陀如来は、往生する人に勇気を与え、極楽浄土より迎える「来迎の阿弥陀」。二尊を祀るのは、唐の僧・善導が広め日本に伝わった思想。信仰の厚かった嵯峨天皇が、この善導の教えを信奉したものであろう。

二尊院の沿革
  小倉山二尊教院華台寺 天台宗
  834〜848年(承和年間)  嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が創建
  鎌倉時代初期      法然上人により再興
  土御門、後嵯峨、亀山天皇の分骨を納め、御所の仏事を司る
  明治維新までは、天台宗、真言宗、律宗、浄土宗の四宗兼学道場

二尊院にも法然が立ち寄っている。善導の思想に傾倒していた法然は、二尊像に強く惹かれ、一時この寺に移り住んだ。その頃の二尊院の寺運も衰えていたが、法然の力によって再興したという。

祇王寺

法然の弟子良鎮が創建したと伝わる往生院の跡地に建つ、祇王寺には、一つの悲話が伝わる。平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が、仏御前という白拍子が清盛を訪ね門前払いを受けたのを得て、目通しさせた。しかし、艶やかな唄と舞に魅せられた清盛は、祇王を屋敷から追い出し、仏御前の虜になってしまった。祇王と妹、母の3人が、嵯峨野の庵で出家する。
その庵に訪ねてきたのが、仏御前、心ならず祇王を追い出してしまった事になってしまった事を憂え、共に仏道に入る。
そんな悲話に心動かされたのか、元京都知事が、別荘の一つを寄付し、現在の祇王寺となったのが、明治28年で、大覚寺の塔頭、尼寺となっている。

滝口寺

祇王寺脇の石段を上ると滝口寺。境内は、茅葺屋根の本堂と平重盛を祀る小松堂のみ。
滝口入道こと斎藤時頼は、平重盛に仕える宮中警備の武士。そんな時頼が、重盛の妹である建礼門院の世話をする雑仕女である横笛との恋仲になるが、父の猛反対にあい、悶絶の結果仏門に入り、嵯峨野の古寺に籠もり、修行を重ねる。そんな、修行中、突然に横笛が訪れてくるが、当然逢う事も出来ず、帰る事になる。出家した滝口入道は、己の自己を確たる為にも、女人禁制の高野山へ登る。その事を知った横笛も決意し、出家し、奈良・法華寺に入る。仏の下で魂が結ばれるという思いであったのだろう。滝口入道もそれを知る事になったが、そんな横笛も間もなく世を去る。それを知った滝口入道、どのような気持ちになったであろうか。
そんな、悲話の残る滝口寺である。

化野念仏寺

かって東の鳥辺野、北の蓮台野と共に風葬地であった化野(あだしの)。あだし野の「あだし」意は、はかない・悲しみ。あだしなる野辺があだし野になったという。

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)の沿革
  華西山 東漸院念仏寺  浄土宗
  810〜24(弘仁年間)   空海により創建し、当初 五智如来寺と号する
  鎌倉時代         法然が念仏道場とする

高雄の神護寺に滞在していた空海は、度々嵯峨野院(大覚寺)に訪れる時に見た化野の光景。野ざらしにされた無数の躯と傍らに転がる石仏。空海は、この化野にお堂を建て供養をした。そして、時が流れて明治中期に、化野に散乱・埋没していた墓を集め、中央の十三重塔の傍に祀られた釈迦如来坐像を取り囲む数多くの無縁墓の数々。人の死というものを否が応でも考えさせらてしまう。

落柿舎

落柿舎(らくししゃ)は、嵯峨野の田園の中にとけこんでいるよ。目の前に広がる田畑には、京野菜が植えられ、季節によっては。路道で売っている。
松尾芭蕉の高弟、向井去来が結んだ草庵跡で、明治時代に再興された。
当時は、俳人をはじめ町人や商人たちが集う俳諧道場であったという。
今では、庭には句碑がたち、自由に投函できる投句箱が置かれているが、ついに投句することもなく終わった。