仁和寺の沿革 904年(延喜4) 御室を造営、以降御室と呼ばれる |
門跡寺院として筆頭に格付けされる仁和寺。元々小松と呼ばれた地域で宇多天皇が父・光孝天皇がその風光を愛でた地でもあった。そこに伽藍建立の勅を下したが、その意思を継いだのが宇多天皇。宇多天皇は、菅原道真などを登用し、自らの親政を目指した天皇だが、在位10年、31歳の若さで退位してしまう。藤原時平をはじめとする藤原一門との軋轢の結果と云われる。政治の世界から身を引いて隠遁の地としたのが、仁和寺で、それ以降御室と呼ばれるようになった。しかし、この事で自ら登用した菅原道真が、901年に失脚・左遷させらてしまった。菅原道真が、大宰府への出立の時、仁和寺を訪れ宇多法皇に別れの挨拶をしようとしたが、宇多法皇は儀式の最中で、結局会えぬまま旅立ったという。この話、宇多法皇が会うのを避けたとも解釈できる。時代が異なるが、銀閣寺創建の足利義政とも似ている。自らは政治の世界を離れた生活、改革を志したものの挫折。一人の人間としての苦悩をうかがいしる。しかし、志を同じにした人達を置き去りにしたとも云える。菅原道真が大宰府の地で亡くなったのが903年、宇多法皇が931年に没。宇多法皇は、菅原道真を偲び供養していたのではないかと思える。そんな、人と人との確執が隠れているような仁和寺だが、春は御室桜で華やかな一面を見せる。又、筆頭門跡寺院としての格付けのなか、僧侶達の生き様の様子が、吉田兼好の徒然草に記されているし、鴨長明の方丈記には、仁和寺の高僧の話が紹介され、仁和寺という歴史の側面が分かるような気がする。
そんな仁和寺も、今訪れると、二王門を越えると何処まで続くかと思う広い境内に圧倒される。西側には、法皇が閑居した御殿があった場所で、近世以降に再建された宸殿や書院が並ぶ。正面やや高いところに中門が見える。中門をくぐると、右手(東側)に五重塔、左手(西側)に「仁和寺や 足もとよりぞ 花の雲」と詠んだ約200本の有名な御室桜がある。この御室桜の開花が、遅咲きで四月の中旬過ぎ位なので、京の最後の花見処として賑わう。そして、正面奥には、金堂などの伽藍が立ち並ぶ。
真言密教の持つ引き締められた世界とは違った空間を見せる仁和寺は、何時の季節に訪れても、ホッとさせる何かがある。
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江戸時代初期に再建。二体の金剛力士像を祀る仁王門だが、仁和寺では二王門と称している。
江戸時代に再建のおり新築された。左右に毘沙門天像、持国天像が祀られている。この近辺は良く時代劇のTVドラマに出てくる。
1644年(寛永21)に建立。総高は36m。各層の屋根の大きさが同じという近世の五重塔の様式を伝えている。
金堂は、江戸時代初期、桃山時代に建てられた京都御所の紫宸殿を移築したもので、紫宸殿としては現存での最古の建物で、国宝となっている。本尊は、阿弥陀如来像で創建時の阿弥陀如来及び両脇侍像は、霊宝館に祀られている。
観音堂は、江戸時代初期に建てられ、内部には千手観音、二十八部衆などが安置されている密教儀式を執り行うところ。
勅旨門は、明治時代に焼失し、大正時代に再建された。南庭から二王門と勅旨門を見ることが出来る。
北庭から、茶室が望める。
仁和寺には、二つの茶室がある。
遼廓亭は、仁和寺門前の尾形光琳邸より移築したといわれる。三畳半と四畳半の茶室と広間・水屋からなる書院式茶室。
飛濤亭は、江戸時代後期の光格天皇遺愛の茶席。
四月の中旬を過ぎると、御室桜の花見客で混みあう。
宇多天皇が植えて以来、境内を彩ってきた御室桜は、低木である。これは、地下が直ぐ岩盤で、十分に根を張れないため、根の長さとのバランスを保つため、木が自らの高さを調整した結果だという。
御室桜は「御室有明」といわれるのが主であるが、「御衣黄」とよばれる桜の種も楽しませてくれる。