/ 2004年06月07日〜
back
next
『books』トップページに戻る
『light as a feather』トップページに戻る
稲川淳二『稲川淳二の眠れないほど怖い話』
1) 竹書房 / 文庫判(竹書房文庫) / 2004年06月05日付初版 / 本体価格552円 / 2004年06月05日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]毎年この時期恒例、怪談語りで有名なタレント稲川淳二氏による語り下ろしの怪談集。今回はやや長尺の『緑の館』含む全十三本を収録。
実話怪談というものを継続的に発表しているとどうしてもマンネリズムの弊害に悩まされる、というのは『新耳袋』や『「超」怖い話』シリーズの感想などで繰り返し述べていることだが、そのいずれよりも早い時期から怪談を芸のひとつとしていたタレントの著者もまたこの弊と無縁ではいられない。それに対する工夫として今回、長篇を新たに収録した、という風に予測していたのだが……
内容を突き詰めれば、旧家に良くある因縁話の類である。それを著者が知るきっかけとなった出来事は若干特殊だが、現象として(怪談の世界では)さほど珍しいものではない。これこそ著者の語りで聴かされればちょっとしたインパクトのある代物になるかも知れないが、文章にしてしまえば古い怪談小説や伝奇物でも同種の、或いはより強烈な代物が幾らでもある。
同時収録された作品についても、既に発表されたものの類型と思われるものばかりが並んでいて、読むのは楽だったが同時にまったく印象に残らない。これで初めて稲川淳二氏の著書や怪談そのものに触れる、という方ならばもしかしたら恐怖を感じるかも知れないが、すれきった怪談フリークにとっては子供騙しも同然だろう。
一時期のように、夏が近づくと毎日のようにテレビ番組で著者の語る怪談が聴ける、というわけではない昨今、ライブなどで直接触れる機会のない好事家が氏の語り口調を思い浮かべながら読むには相応しい、がそれ以外のパターンでは満足できるかどうか。
吉野朔美『お母さんは「赤毛のアン」が大好き』
角川書店 / 文庫判(角川文庫) / 平成16年05月25日付初版 / 本体価格514円 / 2004年06月08日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]『少年は荒野をめざす』『恋愛的瞬間』など、濃密な精神世界を独特のタッチで描き、出身の少女漫画の世界のみならず青年誌などにも活躍の場を広げている著者が、漫画と文章の双方で綴る読書エッセイ集。
本の中身に関する、というより読書という行為まで包括して語った、ちょっと変わった視座のエッセイ集である。直接内容に触れず、どういう状況で読んだか、どういう目的でその本に手を出したか、という観点から口火を切り、けっきょく中身には大して触れないまま結論に到達してしまう、という話が多い。だのに、登場する本に妙に興味を掻き立てられてしまうのはこれ如何に。まともに触れられているのは、巻末に訳者との対談も収録してしまったほどにある意味物議を醸すポール・オースターはじめ数冊程度なのです。――その一方で、大部を乗り越えて結末のサプライズに触れてこそ意味のある東野圭吾『秘密』のラストを割ってたりしますが、これは理由あってのこと。てか、恥ずかしながら私もこれには気づかなかった!
本に関しての記述を発端に、周辺の様々な人々に経験や個人的な決まり事を訊ねて回ったりしているのも、なかなか楽しい。確かに本読みであればときどき疑問に思ったりすることなのだが、こんなふうにわざわざ確認して回ることはそう多くないだろう。
一方で、名作と言われているのになぜか読めない本、というのに宮部みゆき『理由』だ竹本健治『匣の中の失楽』にジェフリー・ディーヴァー『監禁』(私はこれを読んでこの作家を信用しました)だなんてのが並んでいると微妙にムッとします、がそれさえもまた一興。冒頭五ページくらいで安心して先送りにしてしまう? その気持ちも実によく解る。
どんなジャンルであっても、本読みを標榜する方なら共感すること請け合いの、汎用性の高い一冊。今回この著者のこうしたエッセイに初めて触れたが、かなり楽しかったので別の既刊にもそのうち手を出してみたいと思います。
ちなみに私はまだ風呂場に本を持ち込んだことはありません。ほんとに、ふやけないのかな……?
田中啓文『蹴りたい田中』
早川書房 / 文庫判(ハヤカワ文庫JA) / 2004年06月15日付初版 / 本体価格700円 / 2004年06月13日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]2004年、大方の予想を裏切り第130回茶川賞を獲得した『蹴りたい田中』。だが著者の田中啓文はその直後に謎の失踪を遂げ、十年が経過した。本書は単行本化もなされぬままだった表題作をはじめ、単行本未収録となっていた短篇に失踪後発掘された作品を加え、更に著者と関わりのあった作家・編集者・評論家らの寄稿を得た遺稿集である。
――という体裁の、他の作品集には微妙に収録しづらい作品ばかりを集めた短篇集。もう全編駄洒落づくしである。表題作が何の駄洒落なのかは言わずもがなだが、有名な娯楽作品のアレやアレとか、著者が敬愛するあの作家まで徹底的にネタにしていぢくり倒す、まさにそれだけの作品ばかり。よく考えると確かにその通り、と思わず頷いてしまう『地球最大の決戦』や見ようによってはある種本格ミステリの『赤い家』あたりは兎も角、純真なファンが多そうなアレを扱った『地獄八景獣人戯』や題名が無茶すぎる『吐仏化ン惑星 永遠の森田健作』なんか怒る人もいるかも知れない。
SF愛読歴が長いからだろう、古い古いと言いつつそれ故にSFとしての骨格は整っていたりするので、深甚なテーマ性を仄かに嗅ぎ取らせる作品もあったりするが、実際はそれさえ外見だけでたぶん中身までは考慮していない。精魂傾けた駄洒落の洪水が、作品に奥行きさえ齎してしまったからだろう。作品集全体にちょっとした細工も凝らされていたりして、それが更にSFとしての風格を装っていたりするので、余計に始末が悪い。
駄洒落をぜんぶ理解できる人はたぶん稀でしょう。私自身、あんまし自信がありません。が、ネタ元がぜんぶ解らなくてもそのくだらなさだけは痛いほど伝わってくる。そして、どんなくだらないネタでも、徹底するとけっこう崇高な感じがしてくるという証明のような一冊である。褒めてないように読めるかも知れませんが、かなり高く評価してます――正確には面白がってます。他の作家にはなかなか到達し得ない境地でしょう。
でも最後にひとつだけ喚いておこう。――って、肝心のオチがそれかよぉっ!!!???
綾辻行人『暗黒館の殺人』
IN・POCKET(講談社・刊)2000年03月号〜2004年05月号連載 ※休載4回 / 2004年06月14日読了
2004年09月単行本刊行予定(新書判上下と愛蔵版の同時刊行)いわゆる“新本格”の皮切りとなった『十角館の殺人』に始まった綾辻行人の代表作『館』シリーズの、長いブランクののち4年以上を費やして連載されようやく完結を見た第七作目。
熊本県の山深い森の中、湖の孤島に佇む『暗黒館』――現当主の息子である浦登玄児ととある縁から懇意となった“中也”は、玄児の招きでこの館を訪れる。艶消しを施された漆黒の建材と調度とで覆われた館で、浦登家の人々は奇妙な因習に囚われながら、外界を拒絶するかのような暮らしを送っていた。過去の出来事の影響で現実から遊離してしまった人々、家系の業とも呼ばれる病に蝕まれた子供達、そして湖に伝わる逸話。やがてそこで殺人事件が発生し……
空恐ろしく長い。しかし、質量ともに待たされた読者の欲求には充分応えるものだと思う。
たとえば、全体を俯瞰してみると前半の密度が薄すぎ後半が濃密すぎるとか、ごく一部の登場人物に描写が偏りすぎて印象に残らない登場人物が多いとか、無数の仕掛けがあるもののいずれもあまり独創性はなくあからさますぎて解る人には容易に気づきうる、など欠点を挙げることが出来る。
が、無数のアイディアを盛り込み、終盤に矢継ぎ早に繰り出されるサプライズの種を蒔きちらした作りは、序盤の一見「薄い」作りを補ってあまりある。たとえ独創的でなくとも解り易くとも、本格ミステリという様式美に徹底的に淫した構成は、ヴォリュームに見合うものとなっている。
同時に本編は、一連の館シリーズすべてを包括しながら、それらに幻想小説的な意味合いを新たに添えるものとなっている。本格ミステリとしての完成度には影響させず、しかし既に提示されている幾つかの“事実”に新たな意味とエピソードを付与している点は、長年待ち続けたファンの渇望にも応えうるはずだ。
ひとつ気掛かりなのは、これほどの大作によっていちど包括されてしまったシリーズを、著者は今後どうするつもりなのか、ということ。エピローグにあたる章において提示された新たな証言は、更なる継続を仄めかすものとも捉えられるが――
ともあれ、ひとまずは完結を祝うとともに、より完成度が高められているはずの単行本版を待つとしましょう。おまけ。
せっかく連載誌を完璧に集めたので、思いついてこんな一覧表を作ってみました。何の役にも立たないうえに、図や時間表などが掲載されている位置から微妙に内容が透け見える可能性があるという邪悪な代物ですが、興味のある方はご笑覧ください。単行本化されたとき、もし時間と気分に余裕があれば、更に追記して比較してみるかも知れず。
鹿島 茂『セーラー服とエッフェル塔』
文藝春秋 / 文庫判(文春文庫) / 2004年05月10日付初版 / 本体価格524円 / 2004年06月19日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]どうして人間だけが女性の虚乳を持て囃すのか? 「十人並」という慣用句に裏付けは存在するのか? 水兵の制服であったセーラー服がなにゆえ日本の女子学生の制服となり、おっさんどもの欲望の対象となるに至ったのか? などなど、普段一瞬ぐらいは疑問に思うけど敢えて追求したことはない、或いはそもそも何故などと考えたことのない謎について、豊富な知識と読書量を武器に著者が仮説を組み立てていく、知的エッセイ集。
経歴を見ても書く文章を見てもその博学ぶりが察せられる著者だが、本書の着想はおおむね身近なところから得られており、なおかつ文章が流麗でよくかみ砕かれているので、親しみやすい。引用文が晦渋でも、それを柔らかくしていまいちど説明しなおしてくれるので、読者が立ち止まらずに済む。
平易であるにも拘わらず、発見がとても多いのも読み物としての魅力に繋がっている。例えば“ビデ”の発生と各国での理解の違いや「アリとセミ」の民話が伝承を繰り返していくうちに「アリとキリギリス」に変容してしまった訳、肉食文化と珈琲・紅茶の消費量の変化など、仮説を立てる以前にあまり知らなかったような事実やそれに纏わる合理的な成り行きが展開していくさまは、推理小説にも似て知的興奮に満ちあふれている。発端となる出来事考証の材料とする書籍が多岐に亘り、それをいちいち拾い上げて読書の参考とするのも一興だろう。
安心して読めて、ちょっと下世話な謎にもいちおうの答が得られる、上質の読み物。最後に、なんとなく引用。
「とはいえ、労働者たちがアブサンを飲むことで、階級が上昇したと思いこむのは、日本のOLたちがヴィトンやグッチのバッグを買ってワンランク上の暮らしをしていると感じるのと同じように完全な錯覚にすぎなかった。(p181)」
……深い意味はありません。
稲川淳二『新 稲川淳二のすご〜く恐い話 身代わり人形』
リイド社 / 文庫判(リイド文庫) / 平成16年06月24日付初版 / 本体価格552円 / 2004年06月21日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]夏のお馴染み・稲川淳二氏による語り下ろし怪談集。この夏ここで紹介するのは二冊目である、が方向性はほぼ同一。
いちおう最新実話怪談、と銘打っているが、記憶だけを頼りにしても、第一話、第八話、第十一話、第十六話、第十七話あたりは既出のはず。うち何話かはテレビやライブなどで披露したのみで活字化は今回が初めて、という可能性もあるが、それにしてもちと多い。また、第二十三話などのようにあるパターンの単なるバリエーションに過ぎないものもあって、最新実話怪談、と謳うのはちょっと大袈裟のように感じた。ここまでパターンが明確だと、寧ろ“様式美”ぐらいに喩えた方が煙は立たないかも知れない。
本当に語ったそのままを文章に起こしているようで、文章の流れがギクシャクしているもの、意味のない固有名詞やガジェットを挟み込んで構成が破綻しているものなどがかなり多く見られるが、稲川氏の語り口に慣れているとそれはそれで楽しめてしまうのが不思議だ。もはや、過去の作品と引き比べて使い回しだとか似た話があるとか指摘してしまうよりは、夏の恒例として氏の語り口を思い浮かべつつ刹那的に楽しんだ方がいいようである。
ただ、それにしてももう少し真面目に校正をした法がいいように思われる。最近のほかの著書と比べれば誤字脱字、素人的な文字組みのミスはさほど見つからなかったが、文章の流れが悪いところは幾ら語り下ろしでも多少修正した方が読みやすくなるはずだし、わざわざそれまでイニシャルで書いていたある人物の実名がとつぜんフルネームで表記される、などという言語道断なミスは犯さずに済んだはず。
ジョン・ディクスン・カー/吉田誠一[訳]『ビロードの悪魔』
John Dickson Carr “The Devil In Velvet” / Translated by Seiichi Yoshida
早川書房 / 文庫判(ハヤカワ文庫HM所収) / 1981年01月31日付初版(1995年02月15日付三刷) / 本体価格699円(2004年06月現在940円) / 2004年06月23日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]1951年に発表された、カーが本格的に歴史ミステリに着手しはじめた頃の作品。
歴史学教授のニコラス・フェントンはある謎とそれによって奪われたひとりの佳人に焦がれるあまり、悪魔に文字通り魂を売った。次に目醒めたとき、フェントンの心は1925年に齢57歳を数える壮年の肉体ではなく、1675年26歳の若々しく血気盛んなニック・フェントン卿の肉体に宿っていた。フェントンの目的はただひとつ、6月10日に毒殺されるはずのニック卿の妻・リディアを長らえさせること。リディアの従姉妹でありながらニック卿を挟んでリディアと対峙する妖婦メグ・ヨークの存在に惑わされ、あるいはグリーン・リボン党の送る刺客や奸計と戦いを繰り広げながら、フェントンはリディアの命を救うために奮闘する。リディアを狙っているのは何者なのか、そしてフェントンは無事彼女を守り抜けるのか――?
カーの歴史長篇はこれが初体験である。ここ一年ほどでけっこうな数の本格ミステリ長篇に触れ、その大上段に構えた文体にも慣れたつもりでいたが、やはり歴史ものとなると勝手が違う。文章の基本的な作りは変わっていなくとも、語られている時代背景や固有名詞が異なるだけで、それらに馴染みがなければどうしても戸惑ってしまう。歴史ものを読む上で、慎重に考証を重ねたものほど抱えがちなハードルと言えるのではなかろうか。
だが、安定した筆運びと随所に往年の冒険小説を彷彿とさせる展開を用意したプロットのお陰で、ある程度まとめて読むようにすれば、早いうちに文体にも世界観にも馴染むことが出来るはず。いったん違和感を拭うことが出来れば、本編は傑出した娯楽小説に変容する。
未来から過去に移り、豊富な歴史の知識との折り合いを常に考慮に容れながら行動せねばならない緊張感、判然としない殺人犯の凶手から愛する人を護らねばならないという焦燥と恐怖感。そこに当時の政治的な背景に基づいた決闘や冒険までが加わり、いちど嵌ってしまえばページを繰る手が止められなくなること必至だ。
冒頭、悪魔と契約を結び過去へタイムスリップする、という展開はおよそ本格探偵小説を手がけてきた(これ以降も絶えず著し続けた)カーらしくないシチュエーションだが、それが物語の緊迫感を高めると共に、終盤で行われる謎解きとその驚きに大きく寄与していることも指摘しておきたい。ここで用いられたアイディアは昨今、日本で書かれている幾つかのミステリに先鞭をつけるものであり、この時点でカーが当然のことのように、しかもごく自然な裏打ちを施した上で使用していること自体が驚きだった。今のように疑似科学的な解釈を用いず“悪魔”という解り易いシステムを援用していることも、そうでなくても現在と異なる風俗と、その中で発生する謎めいた事件の数々に翻弄される読者を更なる混乱に導かずに済ませているという観点から評価できる――但し、本編が執筆された時分、探偵小説というジャンルを手がけていた作家たちにSF的な要素を導入する、という考え方そのものがまるで念頭になかった、という可能性もあるので、その点から評価するのが妥当とは自分でもちょっと思えないのだけど。
恋とスリルと冒険と、更にカーならではの謎解きにサプライズまでもがきっちり盛り込まれた、真っ当な娯楽長篇である。私自身は読むのに半月以上を費やしてしまったが、それは一日一章、十数ページをちまちまと読み進めていく、というやり方を選んでしまったからだ。これから読まれるという方は一気に読み切るか、遅くとも一回につき100ページずつぐらいのペースで読むことをお薦めする。
アガサ・クリスティー/中村能三[訳]『象は忘れない』
Agathe Christie “Elephants Can Remember” / Translated by Yoshimi Nakamura
早川書房 / 文庫判変形(クリスティー文庫所収) / 2003年12月15日付初版 / 本体価格640円 / 2004年06月27日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]探偵作家のアリアドニ・オリヴァは久々に顔を出した文学者昼食会の席で、初対面のある女性に奇妙なことを訊ねられる。かつてミセス・オリヴァが名付け親となったシリヤ・レイヴンズクロフトの両親が心中したとき、相手を殺したのは父親のほうであったか、母親のほうであったか? その女性の不愉快な物云いが、却ってオリヴァの好奇心を掻き立ててしまった。彼女は旧知の私立探偵エルキュール・ポアロに助力を請い、かつての関係者のもとを訪ねまわって真相を探る――
芦辺拓氏による解説にもあるように、実質上アガサ・クリスティーが執筆した最後のエルキュール・ポアロの物語である。八十歳を超えてなお正統派のミステリを志した作品をものしていることは尊敬に値するが、さすがに出来そのものは最盛期に遥か及ばない、という気がした。
お話は現在の事件ではなく、13年前のある不幸な出来事に隠された謎を解くことに終始している。事件の調査にあたるポアロと、彼にこの捜査を齎したアリアドニ・オリヴァの周辺に格別なトラブルや冒険が生じる訳ではないし、肝心の過去の事件も額面は有り体の心中事件を装っており、一切派手さはない。
その地味な事件をほとんど外連のない穏やかな筆致で綴っており、安定した熟練の文章は初期の作品と比べてかなり読みやすい。だがその分、仕掛けもまた単純すぎたように思う。物語はふたりの探偵役が当時の関係者と面会し、事件に関する記憶を訊ねてまわり、そのおぼろな証言から謎を解く鍵をひとつひとつ摘んでいく、という趣向で展開するのだが、その“鍵”が極めてシンプルで、ある事実が判明した瞬間にだいたい真相の察しがついてしまう。
初期や最盛期にあった意地悪さがなりを潜め、人々の描き方が優しさや善意で満たされていることにも留意したい。ある種の心境の変化とも取れるが、初期の作品と並べて読むと一抹の寂しさを禁じ得ない。部分的にどうしても許せないものが用意されているだけにほかの人物の善意が際立ってしまう点も、読後感の快さには繋がっているが作品の印象を淡いものにしている。
巧緻なプロットや切れ味鋭い謎解きに期待するのではなく、最晩年にもなお創作意欲を失っていなかったという事実と、悟りを開いたかのように静かで触れ心地の良い筆致を堪能する気持ちで読むべき作品だろう。
木原浩勝、中山市朗『新耳袋 現代百物語 第九夜』
1) メディアファクトリー / B6判ソフト / 2004年06月26日付初版 / 本体価格1200円 / 2003年06月28日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]シリーズ2004年の最新刊。例によって百にひとつ足りない九十九話を“気”“奇”“忌”など、“き”の読みに統一した一字を掲げた九章に割り振った構成。
ここしばらく、新宿LOFT PLUSONEにて開催されている著者ふたりによるトークライブを毎回鑑賞している。そこでは発表済のエピソードの裏話もたまに開陳されるが、多くは取材したての怪談を初お披露目し、のちに本シリーズに収録することを念頭に観客の反応を伺う場となっている。従って、通い詰めていれば次の新刊に収録されるエピソードの原型に触れることが出来、単行本に収録された際はあの話はこういう風に処理されたか、文章化するとこんなイメージになるんだ、といった風に追体験できるわけだ。
それでも最後のライブから新刊発表までのあいだに取材に成功した新たなエピソードが収録されたり、或いはうっかりライブで紐解き忘れたらしいエピソードが追加されていたり、という具合に聞き慣れぬ話がけっこう収録されているのが常だったのだが、今回はそういったものが殆どなく、大半が追体験か確認の形になった。前述のような未発表のエピソードが全くないとは思えないのだけど、それを新刊に入れるか、いったん語りの形で発表したあとに収録するかは著者お二人の判断次第なので、ちょっと残念ながら致し方ないところか。
あとがきで著者は本巻に収録されたエピソードに対する自信のほどを仄めかしているが、確かに本巻は全体に安定してクオリティが高い。なかでは警備会社勤務のI氏による連作が目を惹くが、単体のエピソードも『仏壇』、犬の二連作、『イタクラサキ』、『アンティークドール』など従来のパターンから逸脱したもの、パターン通りながら一筋縄でいかないものが多数収録されている。
ただ、ライブでその背後関係まで聞かされてしまった話については、体験者・舞台がぼかされたために少々インパクトを減じてしまった話もあるが、こればかりはどうしようもないところだろう。その逆に『腰女』のように、文章化されたことで却って不気味さが増幅されたエピソードも見受けられるのがまた興味深い。
今回目立っていたのは先に題名を挙げたエピソードほとんどだが、なかでも警備会社勤務I氏の連作はやはり際立っている。文章化しても迫力が損なわれていないのだ。とりわけ『もうひとり』の不気味さはここ数年の新耳袋のなかでも傑出している。
一方で、やはり警備会社連作のひとつ『三人』終盤の文章構成はちょっと混乱気味で、事態の異様さを殺してしまったように思う。説明は順序通りにしたほうが、伝わりやすいと思ったのだが――
高島俊男『お言葉ですが……(5) キライなことば勢揃い』
文藝春秋 / 文庫判(文春文庫) / 2004年06月10日付初版 / 本体価格619円 / 2004年07月01日読了 [bk1で購入する/amazonで購入する]『週刊文春』に五年に亘って連載され、現在も継続している「言葉」についての考察を中心としたエッセイをまとめた単行本五冊目の文庫版。平成十一年〜十二年にかけて発表した文章を中心に収録する。
中国文学の専門家としての知識を駆使して昨今の奇妙な言葉遣いに苦言を呈したり、きちんと定義されぬまま使われている言葉を子細に検証しつつ、名調子を発揮するシリーズである。かなり自身の観点が確立されているせいで、共感できる部分とどうしても頷きかねる部分が同等ぐらいに含まれているが、どちらにしても非常に勉強になる論考ばかりが掲載されている。「換骨奪胎」が本来「脱胎換骨」であり、それがいくたりもの誤解を経て「奪胎」に変わるに至った、という話が特に驚いた。そうして専門的な観点で眺めると、日本の辞書がそんなに信用に値しないものであることが浮き彫りになっていくのも興味深い。
そうした思索的な文章の端々に、偏屈爺さんぶりとやんちゃ坊主っぷりが共存したような言動の数々が滲むのがまた憎らしくも微笑ましい。服は貰い物ばっかりだとかゴミとして捨てられたものを再生して利用した家具がたくさんある、とか。こうしたうるさ型の発言の数々は、今日日生身で触れる機会はそうそう多くないので、ちょっと斜に構えながら耳を傾けてみるとけっこう勉強になり、またギャップが楽しくもあるのでした。
そんな風に興がっている一方で、本書ではわたしが平安時代の風俗の勉強にと愛読している本の著者が槍玉に挙げられていてうわあ、と思ったり。但し、高島氏の仰言ることはもっともで、反論はない。一方で攻撃されている側の事情も私には薄々察せられるので、ただただ苦笑するばかりなのでした。