cinema / 『子猫をお願い』

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子猫をお願い
英題:“Take Care of My Cat”  / 監督・脚本:チョン・ジェウン / 製作:オ・ギミン / 撮影:チェ・ヨンファン / 編集:イ・ヒョンミ / 美術:キム・ジンチョル  / 音楽:M&F / 出演:ペ・ドゥナ、イ・ヨウォン、オク・ジヨン、イ・ウンシル、イ・ウンジュ / 配給:Pony Canyon × オフィス・エイト
2001年韓国作品 / 上映時間:1時間52分 / 日本語字幕:?
2004年06月26日日本公開
公式サイト : http://www.koneko-onegai.jp/
渋谷ユーロスペースにて初見(2004/06/26)

[粗筋]
 高校時代はいつも一緒だった女の子五人も、ひとりずつ、成人する日を迎えようとしていた。卒業後、それぞれ別の進路を選び、いまはお互いの誕生日や申し合わせた日に集まるぐらいしか顔を合わせる機会はなくなっていた。
 ヘジュ(イ・ヨウォン)は高校時代を過ごした仁川からひとり離れ、電車で一時間隔たったソウルの証券会社に就職した。エリート志向で、これまでの人生で最大の失敗は商業高校に入ったことだ、と断言して憚らない彼女は、ちかごろジヨン(オク・ジヨン)と対立気味だった。
 ジヨンは早くに両親を亡くし、港近くの屋根の抜けそうな古い家で祖父母と一緒に暮らしている。テキスタイル・デザインの分野で才能を発揮していたジヨンだったが、仕事先が倒産してしまってから就職のあてもなく、ヘジュやテヒ(ペ・ドゥナ)からの借金で辛うじて食いつないでいるような状況だった。ヘジュは一向に身の振り方の定まらないジヨンに苛立ち、ジヨンのほうは就職してからというもの傲慢さが目立つようになったヘジュに不快感を隠さない。
 逢うたびに衝突することが増えていくふたりのあいだに立って仲裁するのはいつもテヒだった。万事マイペースで社交性に富んだ人柄で、体に障害を持つ詩人のためにタイプを打つボランティアを務めたり、たまたま出会った東南アジア系の労働者と簡単に親しくなってしまったり、その奔放さで周りを驚かせたり呆れさせたりしている。最近疎遠がちなヘジュとジヨン、そして中国系の双子姉妹ピリュ(イ・ウンシル)とオンジョ(イ・ウンジュ)の連絡係を務めるのも、ただひとり職に就かず一年間、実家のサウナ風呂の手伝いをしていた彼女の役目だった。
 一見お気楽そうなテヒも、決して現状に満足はしていなかった。旧弊な男性原理に凝り固まった父は仕事を手伝う娘に給料も出さず、ボランティアに出かけることにもいい顔をしない。日に日にテヒは自分の家から居場所を失いつつあった。
 そんなある日、五人はヘジュの20歳の誕生日に合わせて集まった。共通の話題は少なくても、高校時代からの仲良しだからすぐに盛りあがる。テヒと双子姉妹とは異なり、お金のないジヨンは、一計を凝らして意外なプレゼントをヘジュに渡した。それは、一匹の子猫だった――

[感想]
JSA』が公開されたころから多く韓国映画が輸入されるようになり、最初の頃はつられるように私もよく鑑賞していた。だが最近になって、妙な苦手意識が生じて、あまり積極的に観たいとは思わなくなっていた。自分では理由が解らなかったのだが、本編に触れてその一端を掴んだような気がする。
 韓国映画は、男性原理や英雄意識が強く、また過剰に「ドラマ」を作ろうとする。ここ数年、空前の映画・ドラマブームが巻き起こっているらしい韓国だが、その空気はどこか1960年代ごろ、最盛期の日本映画によく似ているようで、生み出される作品は現代的なテーマを用いているようでいて、骨格にあるのは古めかしい儒教的価値観であったりする場合が多い。また、どんな方向性の作品であっても“ドラマ性”というお題目を振りかざし、安易に情感に訴えるような要素や展開を盛り込んだりして本来のテーマを壊しがちである、という傾向も認められる。それはそれで完成されたスタイルではあろうが、そういうものばかりが製作され流入してくる状況は、業界全体の偏りと早い行き詰まりを予期させるものだし、ぶっちゃけた話、私はあまりそういう“濃さ”を好まない。『猟奇的な彼女』くらいにアイディアが際立っていれば多少の臭みは抑えられるのだが、バランスを誤ると『リベラ・メ』のように屈折した筋になってしまったり、『ボイス』や『REC』のように目も当てられない失敗作になったりする。
 本編はそういった韓国映画特有の軛から解き放たれた、私の知る範囲では初めての作品だ。本編にはドラマティックな展開どころか、ダイレクトに涙を誘う要素もなく、更には恋愛の影も薄い。
 カメラは大半、友達同士である五人の少女たちに向けられており、描かれているのはあくまでその中の特に三人の友情と反発、そして心の中の葛藤に限られている。男達の姿が割り込む余地はほとんどない――あるとしても、例えばヘジュが上司の歓心を惹こうとする傍ら、好意を寄せてくる後輩を蔑ろに扱ったり、テヒの自由で個性的なものの考え方にいちいち目くじらを立てる旧弊な父親の姿であったりと、あくまで彼女たちの悩みや戸惑いを引き起こす外的要因であり、直接的に彼女たちを動かす材料とはなっていない。あくまで描かれているのは、そうした環境の移り変わりによって齎される彼女たちの内面の変化であり、関係性の変化なのだ。こういう思索的で繊細な作りは、わたしの知っている韓国映画にはあまり観られなかったものであり、この一事だけでも賞賛に値する、と感じてしまう。
 そして、五人を取り巻く世界の生々しさがまた、いい。誰よりもしっかりとした夢を持ちながら、抗いようのない環境の変化に翻弄されてふて腐れていくジヨン。目標が確かで常識人のふりをしているが、就職はコネ頼りで、証券会社勤務といっても雑用がほとんど、最初は職場の華のように見られていたけれど、その地位も新入社員の登場で危うくなりつつあるヘジュ。ただやりたいことを見つけたいだけなのに、ぶらぶらしていると家族に責められ、次第に居場所を失っていくテヒ。意外にも仲間たちのなかでいちばん足が地に着いているのが、中国にいる親元から離れた韓国の地で、露天商としてきっちりと生計を立てている双子姉妹である、というのも実に巧いさじ加減だ。
 何よりも象徴的なのは、題名にも掲げられる“子猫”の存在である。最初ジヨンによって拾われた子猫はヘジュにプレゼントされるが、それぞれの事情によって人の手に託されていく。そうして最後に辿り着いたのがあそこであった、という事実の何と皮肉なことか。
 結末に至っても、決して明るいものとは思えない。少女たちのあいだに生じた溝は満足には埋められず、僅かに描かれた幾つかの出来事からは、美しい未来を想像するのは難しい。だが、それでも不思議なくらいに余韻が爽やかなのは――たとえ明るい未来でないと悟っていても、彼女たちがきっちりと向くべき方角を定めたことが伝わってくるからだろう。
 これから変わりゆく人々に捧げる、潔く嘘偽りのないエール。未成熟な少女たちを完璧に描ききった、監督にとっての初長篇とはにわかに信じがたい、成熟した視点で綴られた名品である。女性達に観てもらいたいのも当然だが、私同様に韓国映画に苦手意識のある人にこそ観てもらいたい。

(2004/06/26)


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