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『light as a feather』トップページに戻るライフ・アクアティック
原題:“The Life Aquatic with Steve Zissou” / 監督:ウェス・アンダーソン / 脚本:ウェス・アンダーソン&ノア・ボーンバッハ / 製作:ウェス・アンダーソン、バリー・メンデル、スコット・ルーディン / 製作総指揮:ラッド・シモンズ / 撮影監督:ロバート・ヨーマン,A.S.C. / プロダクション・デザイン:マーク・フリードバーグ / 編集:デイヴィッド・モリッツ / 衣装デザイン:ミレーナ・カノネロ / 音楽:マーク・マザーズボー / 音楽監修:ランドール・ポスター / アニメーション:ヘンリー・セリック / キャスティング:ダグラス・エイベル / 出演:ビル・マーレイ、オーウェン・ウィルソン、ケイト・ブランシェット、アンジェリカ・ヒューストン、ウィレム・デフォー、ジェフ・ゴールドプラム、マイケル・ガンボン、バッド・コート、ノア・テイラー、セウ・ジョルジ / タッチストーン・ピクチャーズ提供 / 配給:ブエナ ビスタ インターナショナル(ジャパン)
2004年アメリカ作品 / 上映時間:1時間58分 / 日本語字幕:石田泰子
2005年05月07日日本公開
公式サイト : http://www.movies.co.jp/lifeaquatic/
恵比寿ガーデンシネマにて初見(2005/05/09)[粗筋]
自らのチームを率い、冒険の過程を撮影した映画で世界的な名声を得ていた海洋冒険家スティーヴ・ズィスー(ビル・マーレイ)。だが昨今は色々な意味で危機を迎えていた。ここ数年はヒット作に恵まれず、資金繰りに悩まされている。そこへ来て、長年のパートナーであるエステバンを鮫に食われて喪うという事件に見舞われた挙句、その経緯を収めた新作は酷評され、事件そのものをイカサマ呼ばわりされる始末。彼ひとりが目撃し、ジャガー・シャークと名付けた仇に復讐を誓うズィスーの情熱に応えるため、プロデューサーのオセアリー・ドラクリアス(マイケル・ガンボン)は資金繰りに奔走するが、雲行きは悪い。
そんななか、チーム・ズィスーの船であるベラフォンテ号の上で開催されたパーティーにて、ひとりの凛々しい若者がズィスーに声をかけた。彼の名はネッド・プリンプトン(オーウェン・ウィルソン)――30年前、ズィスーを置いて出奔した恋人の息子だった。てことは私の息子か、と訊ねるズィスーにネッドは「さあ」と曖昧に応える。当の恋人はひと月前、病を苦に自殺してしまった、という。疑問を孕みながらも、かつての恋人の忘れ形見であることは間違いないネッドを、ズィスーは自らの拠点であるペセスパダ島へと連れて行く。
敵討ちのための出航準備に追われるチーム・ズィスーのクルーたちだったが、そんななかにも問題は出来した。ズィスーの二度目の妻で、最近二作及びペセスパダ島に出資した富豪の娘でもあるエレノア(アンジェリカ・ヒューストン)が、次の航海には同行しない、と言い出したのだ。復讐を振り翳しながらも自分が目立つことばかりを考え、その責任の所在が己にあることを充分認識していないかのような言動を繰り返すズィスーに愛想を尽かしてのことである。早合点で適当にものを言うズィスーに対し、海洋生物の知識にも長け洞察力にも優れた妻は密かに“影のリーダー”とも呼ばれており、不可欠の存在であった。しかし、強いて引き留める甲斐性もズィスーにはなく、間もなくエレノアは島を離れていった。
入れ替わりにやって来たのは、ズィスーの特集記事の取材のために訪れた女性記者ジェーン・ウィンスレット・リチャードソン(ケイト・ブランシェット)である。未婚ながら不倫相手である編集長の子供を身籠もっている彼女は、幼い頃からの憧れであったズィスーの現在を取材することで色々なものを見返そうと考えていたようだが、横暴で独善的、しかも自家撞着の著しい発言ばかり繰り返すズィスーに失望を隠さない。
そんなズィスーにとって唯一期待がかかるのはネッドの存在である。ドラクリアスが最後の望みをかけた資金繰りにも失敗し、恐らくこれが引退作となるであろう映画の撮影も頓挫するかと見えたとき、ネッドが母から引き継いだ財産を資金として提供することを申し出たのだ。映画を感動的なものにするため、既にチームに勧誘されていたネッドだったが、このことを契機にズィスーはこの“息子”を自分の右腕に認定する。が、そんなズィスーに長年付き添い、崇拝するあまりかなり危険な領域にまで足を踏み入れているエンジニアのクラウス・ダイムラー(ウィレム・デフォー)はネッドに対して嫉妬を顕わにする。
何はともあれ、ネッドの受け継いだ遺産に銀行からの出資をプラスすることでどうにか資金を捻出したチーム・ズィスーは、これが最後となるかも知れない航海に出る。だが、出航してからも波乱は治まる気配を見せなかった……[感想]
ウェス・アンダーソン監督の前作『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』もそうだったが、本編は基本的に“ダメ親父”の物語だと思う。
確かに昔はそれなりに名声もあったし、大衆の求めるドキュメンタリーを撮影する能力もあったのだろうが、現在の主人公スティーヴ・ズィスーはそのふたつに縋るがあまり身動きままならなくなっている男だ。既に新しいネタを捻出することは出来なくなっており、そのマンネリ化に合わせて作品はインチキ臭さを増し、質の低下に比例して興収も目減りし出資者捜しにも苦労している。かつてはマッチョぶりの象徴でもあった独善的な言動がカリスマ性に結びつくことはなく、まず最も先見性のある妻から彼のもとを離れていき、チーム自体も少しずつ分裂し始めている。
子供がいなかったのは必ずしもズィスーの責任ではないが、それにしてもネッドが目の前に現れたときの動揺ぶりとその後の対応はいい年をした男のそれとはとても言い難い。ドキュメンタリーに“家族の絆”っぽいエッセンスを添えるためにチームに勧誘してみたり、出資者となった彼を必要以上に優遇してみたり、かと思えば女性記者のジェーンに懸想するあまり彼女をレズ呼ばわりして「手を出すな」と暗に牽制してみたりする。
早い話がこのズィスーという男、根がガキなのである。海洋冒険家なんて仕事に就いているから、という表現はさすがに語弊があるだろうが、作中の発言に依れば12歳にして師に見出された彼はそのまま冒険の世界に身を投じたわけで、若くして名声を得てしまったことで成長する機会を逸したまま今の歳を迎えてしまったのかも知れない。
この物語はそんな彼に対して、冒険以上に厳しい現実を突きつけながら、新たな選択を迫る物語、と言えそうだ。その選択の象徴こそが、突如目の前に現れた彼の息子“らしき”人物・ネッドなのである。
ネッドは若い頃のズィスーが置き去りにしてきたものの象徴であると同時に、かつて彼が持っていたものの象徴でもある。そんなネッドが立ちはだかることで、ズィスーは身辺の具体的なトラブルと同時に、若き日の罪悪や自らの老いといった内面的な現実にも対峙せざるを得なくなった。ネッドに対するアンビバレントな言動の数々は、そのまま身辺に押し寄せたトラブルに対するズィスーの態度を反映したものと言えるのだ。
だから、輪郭こそファンタジーであり、コメディタッチである物語なのに、そのネッドを自分なりに受け止めていく物語の過程が不思議なほど沁みてくる。解釈していくとこの作品は、ダメ親父が自分の駄目っぷりを再認識し、受容していくさまを描いた物語と言えるようだ。
結局のところこのズィスーという男、根は最後まで駄目なままである。そりゃそうだ、12歳から50代の坂を越える今まで変わらなかったものが、ほんの数十日程度で改まるはずもない。ただ、己の本質を認めて、それでもなお「人生は冒険だ」と言い張る彼の姿に、冒頭で覗かせたしょぼくれた面影はない。
世の中、大人と言いながら本質は子供のまま、という人間が大半だろう。この物語は、その無自覚を窘めながら、けれど「そのどこがいけないんですか?」と同時に問いかけているような気がする。本当に度量の大きな作品、というのはこういうものを言うのだろう。ダメ親父の駄目な有様もろとも、愛さずにいられない作品である。――当初、もーちょっと細部について言及するはずが、“ダメ親父擁護論”を軸に語っていたらけっこうシンプルに片づいてしまいました。このままでもいいような気はするのですが、折角なので余分に綴っておきます。
とりあえず私は“ダメ親父の話”と括ったが、本編はもっと多面的に捉えることが可能だろう。ズィスーの終盤での一言が示すとおり、もしかしたら、“冒険”というもののあり方を問うた物語と捉えることも可能のはずだ。クライマックスで泡と消えた人物にしても、それを知らしめるためのパーツだったのだ――と。一方で、そうも楽天的な捉え方を徹底的に拒絶するような深みをも感じさせる。
ただ、どちらも激しい韜晦が齎す幻覚とも言える。とにかくこの作品、色々なものを暈かしたままで終わる。特に、序盤から大抵の観客が疑問に感じるであろうふたつの点に、最後まで決着をつけないのが巧妙なのだ。そのことを敷衍していくと、実は特に主題を設けることなく、観客のなかにあるイメージを喚起するためだけに素材を鏤めている、とも考えられる。
前作『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』もそうだったが、本編はキャラクターの完成度が極めて高い。幼稚な大人の典型とも言えるズィスーを筆頭に、美貌と知性と財産に恵まれながら何故か男を見る眼だけがないらしいエレノア、不倫相手の子供を孕んでいるという思いからか情緒不安定なジェーン、保安要員のはずが何故かえんえんギター弾き語りしっぱなしのペレ・ドス・サントス(ちなみに演じているセウ・ジョルジは本職のミュージシャン)、華々しい登場のわりにけっこー情けない顛末を辿る富豪のアリステア・ヘネシー(ジェフ・ゴールドプラム)、などなど。
それらを無数の、「んなアホなもんが実在してたまるか」と叫びたくなるような奇妙奇天烈な生き物たちが彩っている。その馬鹿馬鹿しい造型の数々が、実はかなり生々しい主題を和らげ、作品をファンタジーの領域へと牽引していることも特筆すべきだろう。特にクライマックスで登場するあれは、現実には存在しないだろうからこそ、翻って登場人物たちの心情をひしひしと伝える優れた媒介たり得ているのだ。
しかし、あれこれ説明されてもピンと来ない、という方もたぶん少なくないだろう。そんな方には、最後の手段としてこーいう楽しみ方を提示しておきたい。
とりあえず、ウィレム・デフォーに萌えておけ。本編のメイン上映館は恵比寿ガーデンシネマでした。この小屋は都内でも特に厳選した作品をかけるので、映画館としての信頼性は高いのですが、個人的にどーにかならないものか、と感じている点がふたつあります。ひとつは、一般的な劇場では「他の観客に配慮を」という但し書き付きで認めている場内での飲食が出来ないこと。もうひとつは、プログラムがやたら凝りすぎていること。
私の記憶しているだけでも、『ボウリング・フォー・コロンバイン』はLP風のカード、『ウェイキング・ライフ』は葉書大のカードで構成され、『テープ』はやはり葉書大のカードをピンで留めた変わった作りでした。『ビフォア・サンセット』は綴りこそ普通ですが途中から上下に切られていて別々にめくれてしまうし――という具合で、デザイン的には面白いものの、甚だ読みづらいものが多い。綴じられていればまだしも、バラバラになってしまうものなど時として保管にも悩む始末です。
その点、本編のデザインはそこそこ穏当ではあります。……二分冊になっていなければ、ですが。ストーリーや作中に登場する架空の生き物、ベラフォンテ号の内部などを紹介した平綴じの冊子と、イントロダクションやキャストの紹介、解説などを記載した折り畳みのもの二冊というかたちで、まあ意図は解るのですが、こういうものこそ封筒なんか使ってまとめられるようにしといてもらえんものだろうか。凝ったデザインそのものは嫌いではないのですが、ね。(2005/05/10)