cinema / 『ザ・リング2』

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ザ・リング2
原題:“THE RING TWO” / 原作:鈴木光司 / 監督:中田秀夫 / 脚本:アーレン・クルーガー / 製作:ローリー・マクドナルド、ウォルター・F・パークス / 製作総指揮:マイク・マッカリ、ロイ・リー、ニール・マクリス、ミシェル・ウェイスラー / 製作総指揮補:ニール・エーデルシュテイン、クリス・ベンダー、J・C・スピンク / 撮影監督:カブリエル・ベリスタイン,B.S.C. / 美術監督:ジム・ビゼル / 編集:マイケル・N・ヌー,A.C.E. / 衣装:ウェンディ・チャック / 特殊メイク:リック・ベイカー / 特殊効果コーディネイター:ピーター・チェズニー / キャスティング:デボラ・アキラ、トリシア・ウッド / 音楽:ハンス・ジマー、ヘニング・ローナー、マーティン・ティルマン / 出演:ナオミ・ワッツ、サイモン・ベイカー、デイヴィッド・ドーフマン、シシー・スペイセク、エリザベス・パーキンス、ゲイリー・コール、エミリー・ヴァンキャンプ、ライアン・メリマン、ケリー・ステイブルズ / 配給:Asmik Ace
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間50分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2005年06月18日日本公開
公式サイト : http://www.thering2.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/06/18)

[粗筋]
 ――あのあまりに忌まわしい事件ののち、レイチェル(ナオミ・ワッツ)は息子エイダン(デイヴィッド・ドーフマン)とともに大都会シアトルを離れ、オレゴン州アストリアに移り住んだ。もう二度とあんな悪夢に遭遇することなく、母子ふたり静かな生活を送るために。
 職場も現地のアストリア日報に移した。常にスクープを追い求めてカリカリしていたあの頃と異なり、日々長閑な話題ばかりの集まる新しい職場は、同僚たちの“キャリアウーマン”を見る目がいささか鬱陶しい程度で、落ち着いて過ごすにはいいように思われた。ここでなら、程なくあの忌まわしい出来事を完全に忘れることも出来るだろう……
 数日後、事件は起きた。普段血腥い出来事にお目にかかることも珍しいこの土地で、殺人事件と思しい不審な屍体が発見されたのである。顔が酷いことになっているらしい、という話を聞かされたレイチェルは厭な予感に襲われ、現場に駆けつける。遺体を乗せた搬送車に忍び込んだレイチェルが屍体袋のなかに見たその顔には、確かに覚えがあった――いちど観たが最後、七日後に命を奪われてしまう、あの呪いのビデオの犠牲者が浮かべる、世にも凄惨な死に顔であった。戦きながら屍体袋を閉じようとしたレイチェルの腕を、中から伸びた手が掴み、囁きかける――「見つけた」
 また“あの子”の魔手が間近に迫っている。はっきりと悟ったレイチェルは警察署に赴き、取り調べのために留め置かれていた少女エミリー(エミリー・ヴァンキャンプ)に警官の目を盗んで接触を図ったのち、彼女から聞き出した情報をもとに死んだ少年の家に侵入、まだデッキに残っていたビデオテープを盗み、人気のない場所で焼却する。
 今度こそ逃げ切った、とレイチェルは僅かに安堵した。だが同じ日の夜、エイダンは酷い悪夢に魘された――その夢は、“あの子”の魔手が遠退いていないことを示している。けれど、エイダンは自分のことを気遣っていると承知していても、母には告げられない理由があった。
 そうとは知らぬレイチェルは、エイダンと鄙びた遊園地を訪れ、シアトルにいた頃はなかなか出来なかった息子との交流を試みる。だが、ちょっと目を離した隙にエイダンの姿が見えなくなり、トイレでようやく見つけたとき、鏡に映る自分に向かってカメラのシャッターを切っていたエイダンの躰は異常なほど冷たくなっていた。異変に気づかなかったことを後悔しながら就いた帰途で、ふたりの乗った車は鹿に襲われる――
 エイダンは“あの子”に取り憑かれてしまったのだろうか? 果たして、この母子に“あの子”の呪いから逃れる術はどこかにあるのか……?

[感想]
 冷静に検証していけば様々な異論はあるだろうが、昨今のホラー映画ムーブメントの起点に本編の中田秀夫監督による『リング』があることを絶対的に否定出来る人はあるまい。日本においてはJホラーなどと称されたムーブメントを生み出し、『呪怨』の清水崇監督や映像版『新耳袋』といったフォロワーを輩出した。海外においてもスティーブン・スピルバーグらを擁するドリーム・ワークス製作、ゴア・ヴァービンスキー監督によってリメイクされたことにより、従来のハリウッドにはなかったもうひとつのホラーの潮流を生み出し、『THE JUON/呪怨』を筆頭とするリメイク企画や、まだ理想的なところには至らないまでも『フィアー・ドット・コム』や韓国の『ボイス』といったような、確実に影響下にある作品が各国で制作されるようになった。
 いわゆる従来のハリウッド産ホラーとの大きな違いは、害を及ぼす側にも“共感”を覚えるような描写が少なからずあることと、怪奇現象を描く筆致に湿り気が強いことだ。冒頭から波打つ水面をスクリーンいっぱいに映し、恒例のビデオの呪いが発現する場面では扉の下から水が滲むさまを描く。物語が本筋に入っていくと怪奇現象はエイダンを中心に発生するようになるが、その大半に水が絡んでくる。設定上の必然ではあるが、その湿度の高さは日本人監督ならではの感性も大いに寄与していると感じた。
 本編は間違いなく『ザ・リング』の続編ではあるが、その“恐怖”の性質自体が従来とは変わっていることにも注目したい。冒頭こそ通例どおりに呪いのビデオを観る若者たちの一場面から始まっているが、ビデオを観ることによって呪いを受け、それを回避するための手続によって呪いが更に波及していく――という『リング』シリーズの一貫した恐怖の植え付け方から、ビデオという伝達形式から解き放たれレイチェル母子に執着したサマラが、様々な手段でふたりの生活に侵蝕していくさまを描くかたちへとスライドしている。前作ではあくまでビデオの映像と、そこから滲み出てくる怪奇現象と悪意とを描くことで恐怖を演出しており、発生源はある意味確定していたが、本編は何故呪いが継続しているのか、またその目的が何なのか把握出来ず、まったく予測出来ないかたちで現れる恐怖と対峙せねばならない。
 この点、前作の設定を引き継ぎながら新しいムードを醸成することに成功はしているが、反面どこからでも怪異が現れうる、という状況は翻って「何でもあり」になることを許容してしまい、“予測を裏切られるがゆえの怖さ”を奪ってしまっているのが残念だ。次第にどこにでも奇怪な出来事が起きる状況に観ている側が慣れてしまい、何が起きてもさほど怖いという印象を受けなくなる、という弊害を齎しているのである。こと、中盤あたりで登場する“樹”のモチーフの扱いは極端すぎるがゆえに浮いてしまっており、作品全体に妙な違和感を与える原因にもなっている。
 もうひとつ、観ながら問題に感じたのは、そこまで方向性を切り替えようと努力を重ねながら、展開に重要なパーツの幾つかが前作の設定に依存しているにも拘わらず、その点をきちんと説明している箇所がなかったことだ。ハリウッド版『ザ・リング』独自の設定をきちんと敷衍して謎や展開を押し広げている姿勢には敬意を表するが、なまじ恐怖に対する身構えが変わっているだけに、そこまで徹底するのなら旧作を観るまでもなく展開が把握出来る程度には配慮が欲しかった。シリーズものであるだけに旧作とのリンクは作品としてもサービスとしても不可欠だが、それも加減が大事だろう。
 また何より、本編にはこのシリーズ最大の特色であった、“波及して観客のところにも到達するかも知れない恐怖”をかなり弱めてしまっている点で評価が割れる。相変わらず連鎖は途切れていないはずなのだが、主題自体も若干シフトしているために深くは追求しておらず、観るほうの捉え方も従来以上に「客観的」にならざるを得なくなってしまう。結果として、シリーズもの本来の持ち味の恐怖がかなり弱まってしまっている。
 しかし、シリーズものであることをある程度切り離して観察すると、これはハリウッドには極めて珍しい正統派の“怪談映画”としての側面も見えてくる。その意味では、極めて理想的な仕上がりといっていい。
 当初レイチェルは、呪いの源泉がサマラにあることを実感しながらもその目的は判然とせず、敵の意志の強さだけを感じながら打開策を捜し求めねばならない状況に置かれる。日一刻とサマラに侵蝕されていく我が子、更にその状態を虐待と疑われ隔離されかかるという事態にも見舞われ、追い込まれながらふたたびサマラの軌跡を辿るレイチェルの姿と、彼女の動きによって次第に炙り出されていくサマラの過去は、おぞましいとともにいっそ感動的でさえある。基本的にモンスターをモンスターとしてしか描かず、ひたすら排除する方へと赴きがちなハリウッド映画としては間違いなく異例の扱いだろう。
 演出の手法も、ハリウッドに定着した手法や蔓延する感性とは一線を画しており、その点にも好感を抱く。たとえば、ときおり挿入される不安を催すほどに長い無音の場面、迫り来る怪異のジリジリと引き裂かれるような間の作り方、やたらと振り回さず人物の表情を丁寧に追うカメラワーク。やもすると狂騒的になるハリウッドのホラー映画と並べると、まったく違う手応えの作品を、ハリウッドの技術力によって作りあげてしまったこと自体が画期的なことと言えるだろう。
ザ・リング』の続編としても、あの中田秀夫監督のハリウッド進出第一作としても物足りない作品であることは否めない。が、スプラッタやショッキング演出一辺倒であったハリウッドで製作された“怪談映画”という捉え方をするとかなり高水準にあり、今後の指標となってくれそうな存在感を与える一本になりうると思う。中田監督は続いて、タイで制作されたホラー映画の秀作『The EYE』のリメイクに臨むとのことだが、こちらにも期待を寄せたい。

(2005/06/20)


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