1.日本の領土の頃の海馬島
1904年(明治27年)8月日露戦争会戦、翌年1905年(明治38)6月、日本兵若干名が海馬島に来て(当時は海馬嶋と言われていた)に行って漁をしていた。ある日ロシア軍の兵が船で監視に来てここで戦闘になった。敵味方あわせて30名未満であった。この後数日で日本の陸海の大軍が樺太に上陸した。
1905年(明治38年)9月5日,日露戦争の戦後処理を規定したポーツマス条約が締結され北緯50度 以南の南樺太が日本の領土となった.この年の8月には日本郵船による函館-小樽-大泊間の定期航路が開かれた.これを機に日本統治による本格的な開拓が始まる.
1945年(昭和20年)8月9日当時ソビエト連邦軍が侵攻、8月22日に日ソ停戦協定により樺太はソ連軍に 接収され、事実上消滅。1951年サンフランシスコ講和条約により南樺太の領有権を放棄。しかし、南樺太は歴史的経緯から日本固有の領地として、戦争によって獲得した外地ではないためポーツマス条約の返還領地ではなかったと解釈されている。しかも、当時ソ連はサンフランシスコ講和条約締結国ではないため、千島列島同様、領土の帰属は国際的解決手段に委ねられている。最終的な帰属は未定として日本は主張しているが、樺太での邦人保護を目的とした在ユジノサハリンスク日本国領事館を設置したことにより、南樺太のロシアによる実効支配を黙認したとされている。南樺太は日本固有の領土である。
南樺太の日本返還は永遠にないのであろうか?
海馬島には、明治37年4月23日留萌の資産家の五十嵐億太郎は仲間50人とともに無人島の島の海馬島の古丹に上陸。
ニシンに期待され投資され、島を巡る道路を作り番屋15棟を建築、漁船25隻、ヤン衆150人と
大漁続きの景気に設備は急速に拡張された。
村役場や漁業組合の設立、郵便局の設置、氏神様を祀り、経済的にも文化的にも活況を呈し発展していった。
大正末期頃から魚影も薄くなり、定置網も縮小、昭和初期には幻のニシンと言われるまでになった。
当時役場は北古丹にあり、島内の人口は昭和19年末には130世帯750人(ほとんどが漁業に営んでいた)、樺太庁真岡支庁本斗郡海馬島村が正式住所でした。海馬村は北古丹をはじめとした12の地区があった。
祖父は明治39年11月12日海馬島に生まれたことから曽祖父に時代に海馬島に移り住み、島開拓の一員として住んだものと思われる。
祖父母や父が当時住んでいたのは島最北の泊皿集落。海馬島には珍しく平坦に地帯であったようだ。
泊皿は大野湾に面しており東の岬は山中の岬と言われ、絶壁で海伝いでなければいけないところだったそうだ。
泊皿の浜は山中の岬を背にローソク岩、ちょうちん岩があり、海岸は磯で非常に海がきれいだった。
若松の浜と呼ばれたプライベートビーチに磯舟で昆布やウニを採る漁師であった。
病気がちの祖父だったため、日用雑貨の店を営み生計を立てていた。
住所は樺太本斗郡海馬島村大字泊皿字泊皿34番地。
当時の自宅は、父が生前描いた絵が唯一の記録である。
2.海馬島と本土をつなぐ航路
①西海岸線航路
海馬島は樺太をつなぐ航路の西海回線。小樽-海馬島-樺太本土で4月から11月までに24往復していた。
②樺太からの航路
稚内から樺太の本斗へ行く航路は一日1往復あり、その本斗から海馬島へ行くルート。 樺太ローカル航路で、1年で90往復していた。本斗港から67km。
樺太への連絡線
西海岸線の連絡線大禮丸 DAIREI MARU
写真は連絡線の港風景 名字須埠頭
1934年(昭和9年)統計による海馬島の入港汽船数、上陸数、乗船数などは以下のとおりである
港名 | 入港汽帆船数 | 上陸者数 | 船上者名 | 移輸出 | 移輸入 |
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海馬島 | 176 | 638 | 568 | 23 | 61 |